00 見慣れた景色、見慣れない存在
2006年8月11日(金)
夏の日差しが照り付ける田舎町。日本特有のじめじめとした暑さの中、この町へとやってきたばかりの少女が首に巻いたタオルで流れ落ちる汗を拭いながら歩き続けていた。
それなりの幅の道をすれ違う人たちは少なかったが、そのほとんどが出会い頭に丁寧にお辞儀して離れていく見慣れない可愛い存在に目を奪われる。腰の辺りまで伸びた綺麗な茶髪に、日本人では考えられない碧色のくりっとした瞳。その小顔と同じか少し大きいくらいの大きな特注のキャスケットが低身長と相まって可愛さを助長していた。
上空の太陽とアスファルトからの熱に挟まれる中でも少女はめげることなく進んでいく。地元民からすれば何もなくて退屈な田舎町であっても、少女にとっては見たことも感じたこともない新天地であり、待ち望んでいた場所だった。
目に入る物全てが新鮮で、楽しくてしょうがない。その思いは自然と表情を笑顔にさせていることに、当の本人は全く気付いていなかった。パッと見でもとても楽しんでいるというのがすぐに理解できる。
うきうきな様子の少女だが、とある石碑が目に入ったことで足が止まった。日本語に関しては十分すぎるほどに学んでいた少女は、ゆっくりとそこに刻まれた文字を読み上げていく。
「『高望山』? 分不相応のお山ってことかな。不思議なところ」
山というよりか丘に近いその場所の名を口に出し、少女は首を傾げた。名称以外の説明は書かれていないので、一体ここがこの町においてどういった役割をしているのか、はたまたしていたのか気になってしょうがない。
石碑以外に目ぼしい物がないかと見渡すと奥に頂上へと続いていると思われる階段を発見できた。もしかしたらその先に答えがあるかもしれないと考えた少女は、心弾ませながら上っていく。
先ほどまでの道路とは違い、上空には青々とした天然のカーテンが日光を遮り、木材で作られた階段と押し固められたヒンヤリとした土が短い登山道に涼しさをもたらしていた。時たま吹く風に揺られて木々の枝が揺れ、そこから漏れた木漏れ日が登山道を照らす。そんな心地よい中を少女がどんどん進んでいくと、頂上の手前で右方向に道ができていることに気が付いた。
気になって足を止め、その先にある物を示す看板などを探すが見当たらない。少女が目を凝らしてみると、道は大きくカーブしていることでその先が確認できなかった。しかし、カーブの手前に建てられていた赤い建造物である程度理解することができた。
「鳥居……ってことは、神社がある? 帰りに寄ってみようかな……」
分不相応なのにも関わらず神社がある。不思議なことの上にさらに不思議が重なってしまった。もしかしてここは大昔にお城か何かが建っていたのだろうか。そんな感じで思いを巡らせながら、少女はその場で左右に頭を傾け続けていた。
色々と考えてみたが、結局予想したところでそれは予想に過ぎない。全ては頂上で分かるはずだと自らに言い聞かせた少女は再び登山道である階段を上り始めた。
すでに目の前にまで迫っていた頂上に到達すると、そこは開けた場所となっていた。半分から先は天然のカーテンが終わっており、夏の太陽光がじりじりと照り付けている。だが、暑そうなそこへと無意識のうちに足が動いてしまう。その瞳に少女にとって感動的な景色が広がっていたからだ。
「……綺麗」
南東にある『高望山』の頂上からはこの田舎町、『高天望町』が一望できた。北関東の最北端に近く、山沿いにある平凡な田舎町。地元民は腐る程見た光景であっても、少女にとっては興奮間違いなしの絶好のスポットだった。
すかさず少女は周囲に誰もいないことを確認すると、小さな右の手のひらを開く。可愛らしいその手のひらの上が光り輝き、どこからともなく現れたのはスマートフォン。手早くスリープ状態を解除すると、この町へ来た記念の第一号となる写真を撮った。
興奮冷めやらぬ様子で撮った町の景色を見て喜ぶ少女。しばらくにやにやしていたが、拡大しようとして間違えて前に撮った写真が画面に映しだされてしまった。それを見たことで少女はあることに気が付いて体を硬直させてしまう。
「……最初から出しておけば、街並みも撮れてたのに。ああ、馬鹿だな、私ぃ~」
そう嘆いた後、少女は後悔の念がたっぷりと込められた特大のため息をついた。楽しすぎてスマートフォンを使うことに頭が回らなかったとはいえ、それなりに心に来る痛手だった。
とぼとぼとした足取りで木陰の方に設置されていたベンチへと向かい、沈み込んだ様子のままでそこへ腰かけた。暗い表情でもう一度ため息をつきながらも、ゆっくりと正面を見据える。
涼しいそこからでも町は見ることができた。心安らぐその景色を眺めているうちに徐々に気を持ち直していくが、普段あまり動かなかいためか遅れてやってきた疲労感に襲われてしまう。それによってベンチに寄り掛かったことで、心地よい環境のせいもあって眠気にも襲撃されてしまった。
時間的にはまだ余裕はある。だとすればここでお昼寝をしても大丈夫だろう。そう割り切った少女の瞼はゆっくりと閉じ始める。小さな顔が街から逸らされてベンチの左方向へと傾いた時、視線の先に多くの文字が刻まれている石碑が目に入った。
「やっぱり、あっ……――」
この山に関することが書かれたそれを発見したことによる喜びの声は、全てが言い終わる前に途切れてしまう。その後、風に揺れる木々のざわめきと同じくらいに静かな寝息をたて始めた。
スマホを手に持ったまま、傾いた頭から大きなキャスケットがズレ落ちる。それに気づくことなく、少女はベンチの上で心地よい眠りにつくのだった。
※※
「SDカードはよし、充電も大丈夫そうだな。一応財布をポケットに入れて……っと」
持っていくものを確認していく少年。日本男児特有の黒髪は手入れされているが少し伸び気味。茶が混ざったその瞳は、手の中にあるスマホに向けられていた。
全ての準備が整うとスマホをズボンのポケットの中へとしまい、部屋のエアコンを消して意気揚々と暑い廊下へと飛び出していった。
突き当たりにある階段を素早く駆け下り、出かけるときはいつも向かう場所へと急ぐ。途中で通り過ぎた2つのあるうちの1つの居間にてテレビを見ていた祖父が少年の楽しそうな様子を見て笑顔で問いかけてきた。
「どうした『雨京』? 何かいいことでもあったか?」
「さっき連絡があってさ、『進』が旅行の帰りに少し時間があるから寄るって言ってたんだ」
「ほう、そうか。そりゃ楽しみだ」
少年、『雨京』は仏壇へと向かいながら、振り返ることなく祖父に答えた。ちなみに進とは、雨京にとって年下のいとこにあたる存在だ。
仏壇の前へと到着した後、すぐさま目をつぶって正座をすると両手を合わせて軽く一礼した。短く、ほんのわずかな習慣だったが、雨京にとっては絶対に欠かせない大切なことだった。
目を開けて顔を上げた先にあるのはいくつかの写真。亡くなった家族の中には、物心つく前に事故で他界した両親を映したものが飾られている。いつまでも見守っていてくれるとそこから感じながら、雨京はつぶやいた。
「行ってきます」
特段悲しいということはない。飾られている写真が笑顔だということもあるが、これまでの人生においては引き取ってくれた祖父と祖母がその代わりとなってくれているからだ。
いつも通り、自らを生んでくれたことに感謝しながら立ち上がる。ふと視線を移した時計を確認すると、ちょうど午後2時を差し示していた。
進むが町に到着する6時にはまだ十分すぎるほどの余裕がある。以前会った時に約束したのが、この町の風景を撮り集めてデータ化して渡すというもの。今日連絡が来るまで忘れていたとは口が裂けても言えない。
パパッと撮影してすぐに帰ってこよう。祖父に出かけることを伝えると、雨京は夏の日差しが照り付ける外へと出ていった。相も変わらず暑い中、町の南東部分を目指して進んでいく。まず最初に一番面倒な『高望山』を終わらせてしまおうという魂胆だ。あそこさえ撮り終えれば後は平坦な町中のみ。苦しいことは先に済ませる雨京の性分がそうさせていた。
早くも家の冷蔵庫の中で冷えている麦茶が恋しくなり始めた時、進行方向の右にある家の2階の窓が開いた。そこから雨京にとって見慣れ過ぎた存在が笑顔で顔を出した。
「うおーい雨京~! こんな糞暑い中どこに行くんだ~!」
「町の写真撮ってくんだよー。いとことの約束だったからなー」
「そっかー。ご愁傷様~。俺は自室で涼みながら適当に応援してるやるよ~」
「一緒に来てもいいんだぞ?」
「それは嫌だ。暑いし!」
「ああ、そーかい」
エアコンの冷気を逃さないため、雨京の親友である『木梨隼人』は笑いながら素早く窓を閉めた。その向こうからにんまりと腹立たしい笑みを浮かべ、手に持っていたカップアイスを頬張っていた。
腹立ちながらもいつもこんな感じの軽いノリを隼人と交わしていた雨京は、腹いせに中指を立てて木梨家の前を通り過ぎていく。その脳裏にはカップアイスが焼き付いており、帰ったら自分も絶対に食べようと誓うのだった。
上と下からの熱の板挟み状態が続いていたが、ここは良さそうだと思ったところはスマホのカメラを起動して撮影していく。撮影能力は皆無だし、スマホのカメラということで画質はお察しクオリティだが仕方がない。それも承知の上で喜んでくれることを願う雨京のスマホのライブラリには、少しずつ町の風景追加されていった。
町の警察官がよくパトロールしている道なので歩きスマホを注意されぬよう周囲を警戒しつつ進んでいけば、あっという間に『高望山』の出入り口へと到着した。石碑を撮影した後、耐えがたい暑さから逃れるために階段の方へと急いだ。
ああ、やっぱりここは涼しい。木々によって日光が遮られるだけでもこんなにも違うとは。汗で服が張り付いてしまっている背中が気持ち悪いが、ここであればもう汗も出ないはずだ。
頂上から一望できる景色を撮るためにゆっくりと階段を上っていく。吸い込みなれた綺麗な空気を肺に取り入れれば、幼いころからここが全く変わっていないことを痛感することができた。小学生の時によく隼人とここで駆けまわって遊んでいたことが昨日のように思い出すことができる。
思い出したのはいいものの、自分はまだ中学2年生である。早くもおじさんのような回想をしている自らに苦笑いをしてしまう雨京。そんな感じで思いを巡らせていれば分かれ道を過ぎ、いつも通りの町並みが姿を現した。
「うっし。何枚か撮っておこう」
その手に持ったスマホのカメラで適当に数枚撮影し、不必要だと思われるものを削除していく。作業を進めて行く中で、いつも通りの町の中で唯一変化したところに目がいった。
「……やっぱりデカいな。この家」
今年の5月から着工し、僅か3ヵ月で建てられた豪勢な住居。住宅街の一番外側に存在するそれは、写真でもとても分かり易いほどの存在感を放っていた。
あんなにも大きい家なのに、これだけの期間で建ったことに町の皆が驚いていた。一体どこの業者が担当したのかと多くの人が疑問に思ったが、詳細に関しては何もわからなかった。
「……あれ? もしかして今日越してきたのか?」
写真にて謎多き家の前にトラックが止まっていることに気が付いた雨京は、実際に肉眼で確認してみた。間違いなく、家の前にはトラックが止まっており、数人の作業員と思われる存在が出入りしているのを見ることができた。
この暑い中ご苦労様です。作業に当たる人たちに心の中で労いの言葉をかけつつ、雨京は木陰の方へと移動し始めた。後はベンチの近くにあるこの山の経歴が書かれた石碑を撮影するだけ。手早く済ませて神社の方へと向かおうと考えていたが、ベンチを見た雨京は全身が硬直してしまった。
自分よりも年下だと思われる見たことのない少女がいた。ベンチの背もたれに寄り掛かり、傾いた頭から落ちたキャスケットがベンチの上に落ちてしまっている。とても可愛らしいのだが、あり得ないその身体的特徴から雨京は目が離せなかった。
人間の耳ではなく、大きな狐の耳。本来人間の耳がある部分には産毛のようなものが生えている少女は、気持ちよさそうに眠っている。
衝撃のあまりまだ動くことができない。目の前にいる少女は人間なのか。それとも暑さにやられた自分の頭が見せている幻か。あらゆる予想で頭がパンクしそうになっていると、開けた場所に心地よい風が吹き抜けた。
「……んん」
「!」
それに反応して綺麗な声を少女が漏らしたことで、ようやく雨京は我に返ることができた。目の前に狐耳の少女がいることをはっきりと知覚しつつ、恐る恐る近づいてみる。
安らかな寝息とともに、時折その大きな耳が動いている。十分に可愛いと判断できる少女だが、耳があることでさらに可愛さを助長しているかのように思えてならない。素直に言って、超可愛い。
高鳴る鼓動が聞こえてしまいそうなところまで近づいたところで、雨京はおもむろに眠る少女の撮影を試みる。ライブラリの写真を見て姿が映っているかどうかで幽霊の類ではないかの最終判断を下そうとしたが、それが間違いだった。
「だぁ!? 違うって!」
緊張のあまり長押ししてしまい、連写モードとなってかなりの音が響き渡った。心臓が飛び出そうになった雨京だったが、さらなる驚きが襲い掛かる。
「……ぅあ。今何時――」
その音を聞いて起きた少女。くりっとしたその瞳を擦りながらスマホで時間を確認しようとしたが、口は開いた状態で固まってしまう。目の前に見知らぬ存在が立っていることに気づいたからだ。
しばしの間、両者の間に沈黙が流れる。聞こえてくるのは、山の木々に停まって鳴いているセミの声と風に揺られる木の葉のざわめきだけ。
どうしていいか分からない中、状況を打開するために先に動いたのは雨京だった。
「えっと……、こんにちは」
「……こんにちは」
挨拶とともに両者は丁寧に頭を下げた。これで日本語は分かるということが判明してほっとする雨京。であれば他にも色々と聞けるはず。
さらに口を開こうとしたが、少女が何かに気づいたようでまだ完全に覚醒していない様子のまま頭の方へと手をやった。そこにあるはずのキャスケットがなく、隠していたものが野ざらしになっているのを理解した少女の表情は焦りに満ちたものへと変わっていく。
少女はベンチの上に落ちていたキャスケットを物凄い勢いで拾い上げると、すぐにその大きな耳を隠すために深々とかぶった。しかしながら、もう遅すぎてしまった。
「……見ちゃいました?」
「……見ちゃった」
小刻みに震えながら、上目遣いで少女は問いかけてきた。それに頷きながら雨京が答えると、少女は特大のため息をつくのだった。
ひどく落胆しているのは分かったが、それでも可愛い。訳ありなのだろうが、とにかく最も聞いてみたい質問を投げかけてみた。
「この町の人じゃないよね? 俺は雨京って言うんだけど、君の名前は?」
「……今日ここに越してきました。『マリー・アークライト』です。マリーでいいです」
「マリー……。そっか、外人さんか」
綺麗なその瞳と髪で日本人ではないことは察していた。だが、外人だからといってそんな耳だという理由にはならない。一体、何故そんな耳をしているのか。
分からないことが多すぎる中でも、とりあえずはっきりと理解できることが2つだけあった。それは、マリーが可愛いということと、自分が彼女に一目惚れしたということだった。
「設定に関して」
今作においては現実と違い、既にスマホが普及しています。
それ以外にもちょっぴり様々な分野の発展が早かったりします。