9 パンドラの箱
背広に身を包んだ男性とブラウスに膝丈タイトスカートの女性が口論していた。
二人の現代的な装いと周囲を照らす白色蛍光灯と革靴がふみしめるコンクリートでグレアムはそれが夢だと気づいた。
背広の男は田中次郎。グレアムの前世で生きていた男だ。
女性の名前は……。はて、なんだったか。グレアムは覚えていない。
夢の中の女性はグレアムこと二郎を激しく責め立て、それに二郎が二言、三言反論する。
夢の中は、音がなく何を言っているかわからないが、口論の内容は覚えている。
前世の最悪の記憶の一つ。
やがて、女性が二郎の手首をつかみ、どこかに連れて行こうとする。
二郎はそれに対し、静かに、だが厳しい口調で問いかけた。
それに一瞬、鼻白んだ女性だが、すぐに気を取り直し、また二郎を責める。
そして二郎はおもむろに鞄から名刺と万年筆を取り出した。
女性のバカにしたような顔。
二郎は名刺を投げ捨てる。
すべての視線が名刺に釣られた瞬間、二郎の握った万年筆が女性の片目を抉った。
「――――――――――――――――――」
やはり、音は聞こえない。
だが、すごい悲鳴だったことをグレアムは覚えている。
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「――アム、グレアム」
肩を揺する柔らかな衝撃と優しい声で、グレアムは目を覚ました。
眼の前には旅装を整えたレナが立っている。
「また、こんな所で寝て。風邪をひくわ」
その声色に責める調子はない。ただ純粋にグレアムの身を案じているようだった。
周りを見ると裏庭だった。
どうやら昨夜は、そのまま眠ってしまったらしい。
「おはようございます。レナさん。どちらかに出かけるのですか?」
「ええ。シウロがトムスの臭いを見つけてくれたの」
シウロはタイッサが使役している狼だ。
トムスが孤児院が訪れてから日が経っているので難しいと思っていたが、シウロはやってくれたようだ。
「トムスを捕まえる気ですか?」
「ええ。それであの借用書が詐欺によるもので無効だと証明する」
「ですが、それでは……」
「ええ。今回の件、領主様の知るところとなるでしょうね。もちろん、父のことも」
ムルマンスクの街の司法権は領主にある。
借用書の不当性を認定し無効と判断してもらうにはトムスを連れ、領主に顛末を説明する必要がある。
「孤児院の運営資金を賭博で溶かした父は良くて解雇。悪ければ犯罪奴隷になるわ。ひどい娘だと思う?」
「いいえ。レナさんを責める人は誰もいません。もちろん僕も」
なぜなら、これからもっと酷いことをグレアムがするからだ。
(ごめんなさい。レナさん……)
トレバーはもう救うことができない。
レナは知らないが、トレバーは子供達が稼いだ金をちょろまかし、まだ賭博をやっている。
トレバーはもう孤児院にとっても、レナにとっても切除すべきガンだった。
「……もう行かなきゃ。タイッサが待ってる。グレアムとは最近、ゆっくりお話もできないわね」
「そうですね。……レナさん。僕が以前、話した『パンドラの箱』の話、覚えていますか?」
グレアムの突然の質問に戸惑いつつもレナは答えた。
「世界中のすべての悪と災いを封じ込めた箱をパンドラって女の人が開けちゃったんだよね。
世界に悪と災いが解き放たれた。でも、最後に"希望"だけが残ったってお話。
……そっか。そうよね。どんなに悪いことがあっても必ず最後に"希望"はある。
諦めてはいけない。
そう言いたいのね、グレアム。ありがとう」
励まされたと思ったレナは嬉しさでグレアムを抱きしめた。
「……」
グレアムは否定も肯定もしない。
柔らかな少女の体に包まれ、グレアムはまったく別のことを考えていた。
(やっぱり、普通の人はみんなそう考えるのですね)
グレアムが前世で『パンドラの箱』の話を初めて聞いた時、こう思ったのだ。
(この世のすべての悪と災いを封じ込めた箱に入っていたというなら、
"希望"もまた悪と災いなのだ)