67 交渉3
「縄を解いて」
ティーセは流れる涙をそのままにグレアムに訴える。
「どうするつもりだ?」
「『アドリアナの天撃』で大空洞の卵全てを焼き払う。私一人で行く。あなたに迷惑かけない」
「無駄だ。辿り着けやしない。例え辿り着けたとしても、その『天撃』とやらで全て焼き払えるのか?」
そう問われてティーセは考え、即座に不可能と結論付けた。「枝葉」を最大限に伸ばしたとしても、良くて四分の一が焼き払えるだけだろう。『アドリアナの天撃』は最大六発放てる。そのうち、一発はブロランカ島に来た初日に、四発を北部の巣を踏破するのに放っている。残り一発では大空洞に辿り着くことさえ難しいだろう。
それでもティーセには、このまま黙って見過ごすのとなどできない。
「グレアム。縄を解きなさい」
「……それは、王族としての命令か?」
「ええ、そうよ」
「……ティーセ、君はなぜそこまでする?」
「決まっている。領民は王国民でもあるの。王国民の危難を王族が見過ごせるわけがないわ」
「……なるほど」
そう言うとグレアムは目を瞑り、何かを考えているようだった。ティーセはそれを祈るような気持ちで待つ。
今、ブロランカの民の命は実質的にグレアムが握っている。彼の決断一つで民の運命は大きく変わることだろう。
「まず、君の命令は聞かない」
そう長くない時間の思索の後、グレアムはそう言った。
「奴隷は所有物で王国民じゃない。君の命令を聞く理由はない」
「でも、あなただって元は王国民じゃないの?」
「そうだな。ムルマンスクの孤児院でお世話になっていた」
「だったらーー」
「それは昔の話だ。今は今だ」
「……物として扱われからといって、人としての誇りも捨てるの?」
それは自分が言う資格の無いこと自覚していた。最低の言葉であるが、なりふり構っていられる状況ではなかった。
「……痛いところを突く」
グレアムは軽く頭を掻いた。
「正直に言おう。"氾濫"ーー俺たちはディーグアントの大侵攻をそう呼んでいるんだがーー、その"氾濫"が起きる直前にソーントーンに警告を与えるつもりだ」
「え? でも、死んでも構わないって」
「それは、あくまで俺の意見だ。オーソンとヒューストームは君と同じように民を見捨てることはできないと言った。だから、二人を納得させるために"計画"に支障の無い範囲で、"氾濫"の前兆を知らせるつもりだったんだ」
その警告をどう受け止めるかはソーントーン次第となるが、そこまで責任を取れない。グレアムとしてはこれでもかなり妥協した方なのだ。
「そう。オーソンとヒューストームが」
僅かに出てきた希望の芽にティーセは笑みを浮かべる。
「あの二人は人未満として扱われても人としての誇りを失わなかった。素晴らしい人格者だよ」
「ええ、私もそう思う」
「でもなーー」
声のトーンを落とすグレアム。
「だからこそ、俺は王国を許せない」
そう言ったグレアムの声に不吉なものを感じたティーセは再び背中を震わせる。
「あの二人を蟻なんかのエサにしようとしたことにーー、いやあの二人だけじゃない。あの村にいた人間であんな扱いをされる謂れを持つ奴は一人もいなかった」
グレアムは拳を握り締め俯く。溢れ出る激情を抑えるかのように。
「俺が初めて二の村に来たちょうどその夜に蟻たちの襲撃があった。状況もわからないまま槍を持たされ柵の前に立った俺に、柵を飛び越えた蟻が襲いかかってきた。
そこで誰かに突き飛ばされ、俺は助かったが俺を突き飛ばした少年は死んだ。頭を噛み砕かれてな。即死だった。俺よりずっと若かった。いや、肉体年齢は俺より二、三上だったかもしれない。だが精神年齢は俺の方がずっと上だった。分かるか。
俺は生涯返せない借りを俺よりずっと若い奴にーー、子供にーー、作ってしまったんだ」
それは田中二郎にとって屈辱だった。ムルマンスクで当時の自分ができる限りで孤児院の子供たちを守った。
それは誇りである。だからこそ田中二郎は奴隷に落ちても満足し、このまま今生を終えてもいいとすら思っていた。
だが、その誇りは地に落ちた。子供を守った誇りは子供に守られたことでゼローー、いやマイナスとなった。
子供に守られたという事実はグレアムの人生において今後、小さなトゲとなってグレアムの胸を蝕み続ける。