62 伯爵家の家令2
「ディーグアントですか?」
執務室でジュリアは主から耳慣れない魔物の名を告げられた。
「そうだ。女王蟻を頂点に雄蟻、兵隊蟻、働き蟻といった複数の種で構成される魔物だ」
「ゴブリンやインビジブルドッグが群れるようなものですか?」
「それとはまた少し違うらしい。女王蟻と雄蟻は繁殖以外何もしない。兵隊蟻は女王蟻の護衛と巣の防衛、働き蟻が巣の維持と拡張、食料の調達を担当する。人を襲うのも働き蟻だ。女王蟻単体の戦闘力はほぼない」
「? それで他の蟻が女王蟻に従うのですか?」
ジュリアは不思議に思った。ゴブリンもインビジブルドッグも強い個体が群れを率いる。
「個よりも群れの存続を最優先とする魔物なのだろうな。敵を前にして逃げることがあるらしい」
そう聞いてジュリアは驚く。魔物と、人間や動物の最大の違いは逃げるか逃げないかだ。
魔物はまず逃げない。特に人間を前にすれば、全滅するまで襲ってくる。例外はスライムだけと思っていたが他にもいたとは驚きだった。
「ある意味、人に似ている。ディーグアントは」
主は珍しく皮肉的な笑みを浮かべた。
個よりも群れの存続を優先。
主のグスタブ=ソーントーンは個としては王国最強の剣士である。剣の腕ならばこの国で、いや世界で並び立つものはいない剣豪だとジュリアは信じていた。
だがーー
「ディーグアントの女王を島の北部に解き放つ」
「なっ!?」
主の正気を疑うような突然の発言にジュリアは頭が真っ白になる。到底、承服できない内容だった。
「お前の言いたいことはわかる。だが、まずは話を聞け」
主はおもむろに立ち上がり窓に目を向けた。
外では領民たちが畑仕事に精を出している。彼らの顔はどこか不安げたった。
「魔物は魔物を襲わない。だが、このディーグアントは違う。他の魔物を襲って食料にする」
ジュリアはそれだけでディーグアントを放とうとしている意図に気づいた。
「ディーグアントに他の魔物を駆逐させるのですか?」
「うまくいくかはわからん。その為の実験場に選ばれたのだ。この島は」
ジュリアは頭に血が昇るのを感じた。
「そんなわけのわからない実験にこの島を使うなど!」
声を荒げるジュリアに主は優しげな目を向ける。年若いジュリアを羨むような目でもあった。
「王国は実験の成否に関わらず、王都の土木建築専門の魔術師を派遣してくれることを約束してくれた。傭兵団の資金も出すらしい」
それが本当なら破格の条件と言っていい。だがーー
「信用できません。奥方様の件でーー」
「ジュリア」
主の凪の海のような声音に冷静さを取り戻す。
「私に妻はいないよ」
「ーー失礼しました」