60 伯爵家の家令1
---- 三年前 ソーントーン伯爵領 港町サラマ ----
燦々と降り注ぐ陽光、海から運ばれる潮風。
それらを一身に浴びながらソーントーン伯爵家家令ジュリアは、積荷の監督をしていた。
(最後に医薬品と武具……、これも問題なし)
ジュリアは傍らに立つ奴隷に軽く頷くと、リストにチェックを入れさせる。
それと同時に他の奴隷たちは穀物を船に運び始める。
ジュリアのチェックが終わるまで待たされた奴隷たちの仕事は荒い。
効率を考えれば、荷揚げを終えて直ぐに搬入を始めれば良いのだが、年若いジュリアが家令になってからまだ日が浅い。
監督者のジュリアを舐めて、粗悪品を運び入れる商人も少なからずいる。その場合は、積荷をそっくりそのまま送り返す必要があるのだ。
「ジュリア」
奴隷たちの仕事を監督する彼女に、一人の男が近づく。
「何か用か?」
呼びかけられたジュリアは嫌悪感を顔に出さないよう、多大な努力を必要とした。
この男は奴隷の教育を一手に担う奴隷頭だ。
「へへ、まぁな」
下卑た笑いをその顔に浮かべる。
「奴隷の一匹を買い取りたいんだ」
ジュリアは荷揚げされたばかりの奴隷たちを横目で見る。
(やはりか)
この男がそう言うだろうということは、一人の少年奴隷を見た時から予想はついていた。あいつが好きそうな子供だと。
「また壊す気か?」
「へへ、どうせ蟻どもの餌にするんだろう。ならその前に多少楽しんでもバチはあたらねぇ」
ソーントーン伯爵領たるこのブロランカ島は王国肝煎りで、ある試みを行なっている。
ディーグアントという竜大陸固有の魔物種をこの島の北部に放つという実験だ。
その話を初めて聞いた時、ジュリアは怒りを覚えた。
(王国の連中は何を考えている!? この島は奴らの遊び場じゃないんだぞ!)
北部の森には多種多様な魔物が生息していた。灰色ゴブリンに泥ゴーレムとジャイアントビー、不可視の恐犬……、ジュリアが把握しているだけで十数種。
その上、さらに増やそうとは。
魔物の対処方法は魔物ごとに異なる。繁殖力の強い灰色ゴブリンには兵の数を揃える必要があるし、泥ゴーレムに刃物の類は効果が薄い。ジャイアントビーには弓矢が必須であり、インビジブルドッグを見つけるには魔術師か魔道具を必要とした。
魔物退治は金がかかる。魔物退治専門の傭兵団に対処を依頼した方が安上がりで、魔物が増えつつある昨今、主流となりつつある。
だが、ブロランカ島は僻地だ。伯爵家の質実剛健な家風も相まって、島に娯楽は少ない。さらに言うなら、この島の魔物の素材の価値は低い。ブロランカ島でなくても取れるからだ。
つまり、日々を享楽的に生きる傭兵団にとって、この島に魅力はない。
傭兵に頼れない伯爵領は、魔物の対処に財政を圧迫された。
しかも多くの金と人を投入しても被害が0になるわけではない。
島の北部を繋ぐ二本の隘路には強固な砦を築いているが、隘路の間にある山を越える魔物には無力だった。ジュリアの両親も夜間に南部深くまで侵入してきた魔物に殺されている。
先々代当主の時代には、北部と南部の間に長大な壁を築くことが真剣に検討されたそうだが断念された。壁の長さが最も短くなる場所には峻険な山があり、ここに壁を築くには王都の土木建築専門の魔術師を呼ぶ必要がある。
だが、土木建築専門の魔術師は王家により管理されており、ソーントーン伯爵領に派遣されることはなかった。経済的に貧しい一地方よりも、戦略的に重要な都市の外壁や王宮の増改築を優先したからだ。
かと言って土木建築専門の魔術師を必要としない平地に壁を築こうとすれば壁は長くなる。壁が長大であればあるほど建設費も維持費も大きくなり、伯爵家の財政では不可能と判断された。
結局、何の打開策も打てず、毎年少なくない犠牲を出しながら領地を経営するしかなかった。