119 フラッシュバック――左手の花嫁
※Mルート
―― 王国 王都 レイナルド侯爵別邸 ――
春浅い、東の空が白み始める頃、広大な庭の片隅で一人の少年が一心不乱に木刀を振っていた。まだ薄暗い空気の中にかすかな衣擦れの音と鋭い風を切る音が響く。すでに何度も素振りを繰り返したのだろう。額から滝のように汗が滴り落ち、前髪が張り付いている。
年の頃は12、3歳とグスタブ・ソーントーンはあたりをつけた。日に焼けた健康的な肌に、引き締まった体躯は日々の鍛錬と栄養ある食事のおかげだろう。道着も汗に塗れていたが清潔に保たれている。汗で滑るのを堪えるように両手で強く握りしめた木刀と無駄なく流れるような足さばきを見て、ソーントーンは弟子になるかもしれないこの少年に対する最初の小さな発見をした。
「やあやあ、マイク君、朝早くから精がでますね。それとも、でちゃいました? 通っちゃいました? おもに下の方から」
「……爽やかな朝に下ネタ最低ですね。ケルスティンおばさん」
ケルスティン=アッテルベリの下品な冗句に"マイク"と呼ばれた少年は顔をしかめてこちらを振り返った。マイク・レイナルド――王国元帥アイク=レイナルドの長子にして文武に優れた神童という噂であった。そして、唯一無二の特異なスキルを持つとも。
「ん~? "おばさん"って誰のことですか~? ここには"おねえさん”しかいませんよ~」
ケルスティンは汗がつくのも構わず少年の肩を抱き、プルプルの頬の肌を見せつける。それに対し少年は冷静にケルスティンを振り解いて、隅に置いてあったタオルを拾った。
「何か御用ですか? 父なら本邸ですよ」
「御用はアイク君にではありません。マイク君にですよ」
「ぼくに?」
「また、剣の先生をクビにしたんですって?」
「ええ、まあ」
「これで五人目ですか」
「六人目です。何です? 父に言われてお説教にでもきたんですか?」
「まさか。聡明なマイク君のことです。先生のほうに問題があったのでしょう」
「……」
それは高位貴族の嫡男に対するおべっかなどではなく、本心で言っているのが分かった。少年にもそれが分かったのだろう。ほんの少しの照れくささが見えた。
「さて、そんなマイク君にプレゼントです!
じゃじゃーん! 新しい先生を連れてきましたよ!」
ケルスティンは両手を使ったオーバーなジェスチャーでソーントーンを指し示した。
「……ケルスティンおば――ケルスティンさん。折角で申し訳ありませんが、もう剣は独学でやっていこうかと」
「むむ! それは聞き捨てなりませんね! 剣の道は独学で習得できるほど甘いものではありませんよ!」
「スキルのおかげで剣術補正もありますし、それにぼくのメインアームは魔術です。サブアームの剣に――」
「なあに言ってるんですか! 勇者の武器は今も昔も剣と相場が決まってるんですよ! 片手間に剣を使うなんて許されません!」
「ですが」
「まあここは一つ、ためしにしばらく彼の指導を受けてみてください。気に入らなければクビにしてかまいませんから」
マイク少年は伺うようにをこちらを見た。ソーントーンはケルスティンから今回の仕事を受けた時に、おおよその説明は受けている。マイクは剣の指導に訪れた名だたる剣士をすぐに解雇してしまう。しかも、その理由を明かさないので困っているとも。
「グスタブ・ソーントーンと申します。普段はブロランカという辺境の島で執事をしております」
「はあ」
マイクの気のない返事。著名でもなく、専門でもない剣士が指導者になりうるのか、疑っているようだった。
なので、ソーントーンは核心から突くことにした。
「ところで、マイク様は左利きですか?」
ソーントーンはマイクの表情がわずかに歪んだのを見逃さなかった。
それが示すのは不快感。
なるほど、当たりらしい。
「それが何か?」
剣の基本や技法は、一般的に右利きが自然に力を出しやすいように体系化されている。剣の握り方、体の使い方、足運びなど多くの要素が右利きを基準としている。なので剣を指導する場合、まず最初に右利きに矯正する。
「それは運がいい」
「……はい?」
「多くの剣士は右手に剣を持ち、左にある心臓を狙ってきます」
ソーントーンは右手に木刀を持つと、その剣先をマイクの左胸に向けた。
「それに対し、左手の剣は私が教える守りの剣と相性がいい」
ソーントーンが胸に向かってまっすぐ突いてきた木刀を、マイクは左手で握った剣で軽く払った。
「……左利きのまま、教えてくれると?」
「左も右も教えます。
"利き手が使えなくなったから戦えない"
私の弟子となれば、そんな戯けたことをぬかすことは許しません」
「……」
「ち、ちょっと待ってください! まさか、マイク君が今までクビにしてきたのは、彼らが右に矯正しようとしたからですか!?」
「まあ、そうですね」気まずそうな顔のマイク少年。
「なんでです!? 礼儀作法は右で完璧に身につけてるじゃないですか!?」
礼儀作法(とりわけ食事のしきたり)も右利きを前提としている。
「相手を不快にさせず敬意を払う気持ちですからね。礼儀作法は。でも、命を預ける剣はそうじゃない」
不慣れな右で剣を振るうことに不安があるのだろう。実際のところ、サウスポーが有利な面もあることは事実だった。
「それはそうですけど……」
だが、一流の剣士の師事を袖にする理由としては弱い気がする。今すぐ戦場に出るわけでもないのだ。彼等の指導を数年受ければ逆手でも屈指の剣士になれる可能性は高い。それが分からない少年でもないだろう。それでも、左で剣を扱うことに固執する不合理にケルスティンは納得いかないようだった。
「失礼ながら、マイク様が左で剣を扱う理由に意地のようなものを感じます」
マイクはソーントーンを珍獣でも見るような目で見つめた。"なぜ、わかるのか"と。
「ただの勘です。やはり感情的な理由が?」
そう問われ、マイクは不承不承という感じで語り始めた。
「"左手の花嫁"という言葉を聞いたことは?」
「……いえ」
ソーントーンには聞き覚えはなかったが、ケルスティンには思い当たるところがあったようで即座に反応する。
「もしかして"左手結婚"のことを言ってます!?
誰です、そんな意地の悪いことを言う人は!?
いえ、そんなことを言う人は決まってますね!
ちょっとオリハちゃんをシメる用事を思い出したので失礼します!」
早口でケルスティンは捲し立てると足早に立ち去った。
「オリハ?」ソーントーンの呟きにマイクが答えた。
「父の姉、つまり伯母上だ」
「そのオリハ様が"左手結婚"を意味する"左手の花嫁"と言い出したと?」
「ああ、俺の母に対してな」マイクは苦虫を噛み潰したような顔だった。
「"左手結婚"とは、どのような意味なのでしょうか?」
「内縁関係、もしくは貴賤結婚のことだよ。古い王侯が身分違いの妻に左手を与えていたことが由来」
「……ですがマイク様の母上は確か――」
「ああ、母のアイーシャは正妻だよ。左手結婚なんて蔑まれる理由はない」
"左側から出てきた"
これは非嫡出子のことを指す。他にも誰かが亡くなった時は"武器を左側に移した"といい、ぬけぬけと蓄財した人を"金を左脇に置いた"、窮地に陥った人のことを"左足で立っている"という。
"左"を蔑む風潮は昔から一般的に存在する。
「左利きの息子を産んだことにかこつけて"左手の花嫁"なんて呼ぶんだ。言い出したのは伯母上だが、今ではレイナルドの家臣団も陰で母のことをそう呼んでいる。母が敵国の出身だから、正妻の地位にいることに不満なんだ。陰湿な連中だよ」
マイク少年は嫌悪感を露わにして吐き捨てた。
「なるほど。その"左手の花嫁"が産んだ左利きの息子が、その家臣団を率いることで意趣返ししようと考えておられるのですね」
マイクは武家の名門レイナルドの正当な嫡男だ。長じれば、家臣団を率いて戦場に出ることになる。もちろん、その時、マイクが剣を持つ手は左だ。
「バカみたいな理由だろ」マイクは自虐的に笑うが、ソーントーンは感銘を受けた。
結局のところ、意趣返ししようとしているのは母アイーシャのためだ。
誰かのために剣を振るう。
それは騎士道に通じるものだ。
この少年は剣士としてもっとも大事なものを既に持っている。こんな有望なことはない。あまり気の進まない仕事だったが、俄然やる気が出てきた。
「その意地、貫きましょう。左利きのまま、世界で三番目に強い剣士に、このソーントーンがしてみせます」
「一番じゃないんですね」
具体的な順位の提示が可笑しかったのかマイクは笑顔を見せた。
「ええ。私がおりますので」
「ですが、ソーントーン先生の名をぼくは聞いたことがありません」
「当然です。現時点で私より強い剣士は十人います」
「なのに、ぼくを三番目に強くできるんですか?」
「マイク様が三番目になっている頃に、私が一番になっておりますので」
「なるほど。それなら納得です。成長を止めた師よりも成長を続ける師のほうが得るものは多そうだ。
敬語は不要です。ソーントーン先生。
ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
こうしてグスタブ・ソーントーンがマイク・レイナルドの七番目の剣の師となる。
その関係は長く続くことになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
※Gルート
(は!? なんだ今の!?)
異形のリザードマン"マンハント・ザ・スーパースター"との死闘を繰り広げるグレアムは、一瞬、白昼夢を見た。
それはどこかの広い屋敷の庭で、ソーントーンに剣を教わっている光景だった。
左手に、剣を持って。
参考文献
『左利きの歴史 ヨーロッパ世界における迫害と称賛』白水社(2024年)
ピエール=ミシェル・ベルトラン 著
久保田 剛史 訳




