116 男爵令嬢リンゼイの絶望
※リンゼイ視点
異形のリザードマンに右手を切断され苦悶の表情のレビイ・ゲベル。
「ざまぁ!!!」
それを見て、リンゼイは快哉をあげた。だが、即座に戸惑いの声に取って代わる。
「――おじいさま!?」
ドォン!
祖父のグラウスがリザードマンを攻撃したからだ。巨大な腕型ゴーレムの拳がリザードマンに直撃する。なぜ、祖父がレビイを助けるようなまねをするのかリンゼイにはわからなかった。リザードマンの追撃を免れたレビイは脂汗を流し肩掛けローブを自分の右手に巻きつけながら逃げていく。
「逃げろリンゼイ!」
「えっ!?」
「こいつがもしあれなら、我らに勝ち目はない! 逃げるんだ!」
そう叫ぶグラウスの表情は鬼気迫るものがあった。
「あれ!? あれってなんですの、おじいさま!?」
「"マンハント・ザ・スーパースター"」
「!?」
幼いころ寝物語に聞いたことがある。かつてシユエ公国を恐怖のどん底に叩き落とした魔物がいたことを。老人も幼い子供も容赦なく斬殺し、街一つを血の湖に変えたと言われている。
その魔物を倒すため公国は財政難に陥るほどの数のミスリル製矢尻を準備したという。十数本の矢をその身に受け、最後は谷の奥深くに落ちていった災悪。"国が滅びかけた"とは誇張でない歴史的事実だった。
そして、たった一匹の魔物が、それほどの危機をもたらした要因が――
「?!」
リンゼイを拘束していた<マジック・ロープ>が突如、解ける。幻獣を閉じ込めていた<プラント・バインド>の檻も消失していた。
ズズン!
腕型ゴーレムもまた機能を停止する。崩れ落ち土煙をたてた。
「!? リンクを切られたか! 何をしている!? 早く行け!」
「で、でも!」
ビュン!
巻き上がる土煙を剣で払い異形のリザードマンが現れる。グラウスは指の魔力塊すべてを<炎槍>にして放った。九つの炎の槍がリザードマンを焼き貫かんと迫るが――
フッ
やはり槍の穂先が届く前にすべて消失してしまう。
「こいつの前ではありとあらゆる魔術が無効化されてしまう! 炎槍も魔盾もバインドも使役魔術もだ!」
「!?」
祖父の言葉にリンゼイは戦慄した。祖父の言葉が真実なら、まさに魔術師の天敵。
(そんなの、どうやって倒せっていうのよ!)
「逃げろ!」
祖父が傍らに放置されていた荷物から短刀を抜いた。そして、近づいてきたリザードマンに挑みかかるが――
ズブッ!
「ぐっ!」
リザードマンの右手の剣が、祖父の心臓を貫いた。
「に、にげ、ろ」
ドサッ
その言葉を最後に力なく倒れるグラウス。
リザードマンは剣についた血を軽く振り払う。
ビシャ
その飛沫が、リンゼイの顔についた。
「ひ、ひぃ!」
腰を抜かし尻もちをつく。
リザードマンがこちらを見た瞬間、リンゼイは心臓を鷲掴みにされたような恐怖を味わった。
「あ、あ、あ」
何とか助かる方法はないかと辺りを見回す。使役していたホワイトファントとブラックホークは檻から解放された瞬間に逃げ出している。他にあるのは崩れ落ちた腕型ゴーレムとピクリとも動かない祖父と生きているのか死んでいるのか分からない白狼一頭。
(だめだ。もうどうしようも……)
リンゼイが絶望に陥ろうとした瞬間――
「GURUAAAAAA!!!」
レビイ・ゲベルの翼竜が、リンゼイとリザードマンの間に割って入った。
◇
※グレアム視点
(何してるんだ、あのバカ)
腕型ゴーレムの影に隠れたグレアムは切断された腕をローブできつく縛り上げながらリンゼイの様子を見ていた。
(腕輪を使ってさっさと逃げろよ)
実技試験時に貸与されるAクラス用の腕輪には緊急転移機構が組み込まれている。腕輪の宝石を押し込めばそれが発動される仕組みだが、祖父を殺された恐怖と混乱で完全に忘れているようだった。
「あ、あ、あ」
言葉にならない言葉を発し、血に塗れた顔を青くして狼狽えているだけ。そのリンゼイの近くに、グレアムの腕輪があった。リザードマンに右手を斬り飛ばされた時、右手首に嵌めていた腕輪も一緒に飛ばされリンゼイの近くに落ちたのだ。
ちなみに右手は逆方向の遠いところに落ちている。瞬間再生が使えるなら諦めてもいいが、オルトメイアを出るまで無理。拾って接合したい。
(どうする?)
右腕からの流血はほぼ止まった。右足の怪我はヒーリング・ポーションで回復中だが、どれだけ回復したかわからない。右手の激痛のせいで右足の痛みがよくわからないからだ。この状況で右手を拾いつつ、腕輪も回収して脱出することは可能だろうかとグレアムは自問した。あのバレリーナのような異形のリザードマンを躱して――
「GURUAAAAAA!!!」
グレアムが答えを出す前に状況が動いた。ローリーがリンゼイとリザードマンの間に割って入った。
「!?」
グレアムは命令していない。ローリーが勝手に動いたのだ。
(何だ? まさかリンゼイを助けに――っ!?)
ローリーがこちらを見て、嗤った。
即座にローリーの意図を理解した。
最悪の展開にグレアムは背筋が凍った。
「やめろぉおお!!!」
パキャァン
<眷属召喚>で繋げていたローリーとの鎖が、木端微塵に砕け散った音が聞こえた気がした。
■
※ローリー視点
(想定通りだ)
自分を縛り付けていた忌々しい鎖から解放されたことをネイサンアルメイルは自覚した。
"干からびかけた虫けら"は、"灰色の虫けら"が魔法擬きを無効化すると喚いていた。ならば自身にかけられば魔法擬きも解除できるのではないかと思い、"灰色の虫けら"の前に飛び込んでみたのだ。
(我は、自由だ!)
目の前の"灰色の虫けら"と背後の"小さい虫けら"を重力魔法で吹き飛ばしてから飛び上がる。蒼穹の大空でないことは残念であったが、それでも解放感に満ち溢れる。
リー=テルドシウスと名乗る虫けらに監禁されて一年とその半分。"黒い虫けら"との戦いで負った傷を癒すために、血涙を流すほどの屈辱を甘んじて受け入れた。おかげで魂の回復こそできなかったが、霊体はほぼ回復している。バールメイシュトゥアシアに食いちぎられた左腕も回収できれば完璧だ。自分の左腕が今もバールメイシュトゥアシアの腹の中で健在なのをネイサンアルメイルは感じ取っていた。必死に左腕を消化しようとしているバールメイシュトゥアシアの苦しみも。
(くっくっくっ。バカめ。貴様と我とでは格が違うのだ)
上洛戦に失敗し消耗してさえいなければ、本来、バールメイシュトゥアシアなんぞに苦戦するネイサンアルメイルではない。ましてや"虫けら"なんぞに……。
あの"黒い虫けら"が今、自分の眼下にいる。姿こそ違うが、このネイサンアルメイルが間違うはずもない。自分を魔法擬きで降し、縛り付けた元凶を。
ネイサンアルメイルの心に復讐の炎が燃え上がった。だが、同時に氷の理性が囁く。
"今の肉体で勝てるのか"と。
虫けらどもが"ロードリサーチャー"と呼ぶネイサンアルメイルの眷属ガウの肉体にネイサンアルメイルは憑依している。ネイサンアルメイルの肉体と霊体が武装アーティファクト"ジールメサイア"ごと、アダマンタイトの隕石によって破壊された際、生き残った眷属は半死半生のガウしかいなかった。そのガウに乗り移ることで霊体の完全消滅を何とか免れたのだ。
だが、ガウの役割は索敵であり、その肉体は戦闘向けではない。その懸念が"黒い虫けら"への挑戦を躊躇わせていた。
(……いいだろう。今しばらくその命、預けておいてやる)
ガウの探知魔法で見つけた己の肉体となる最高級の素材、そのもとへとネイサンアルメイルは飛び去っていった。
◇
※グレアム視点
飛び去るローリーを呆然と見送る。
"キィィイイイイ!!!"
"GOAAAAA!!!"
しばらくして、鳥のような叫び声と、かつて聞いたことがある竜の叫びが迷宮全体に響き渡った。そして、すぐに<大爆発>の赤い光と<破壊光線>の黒い光線が、グレアムが迷宮に入ってきた地点の近くの空で瞬く。
"ロードビルダー"とAクラスの学院生が戦っている。使役魔術を測る試験でそんな魔術を使う理由はそれしかない。
(終わった)
あんな危険生物を召喚したグレアムを学院は許さないだろう。良くて退学、悪くて死刑かもしれない。
(さっさと殺しておけばよかった)
そう後悔しても後の祭りだった。
(……後悔している場合じゃない。今はどうこの危難を切り抜けるかだ。腕輪を拾って――)
カラン
金属音に振り返ると、異形のリザードマンがグレアムの腕輪を剣の先で拾い上げた音だった。
カラララッ
リザードマンは剣を上に向けると腕輪は重力に従って剣身を走り、最後にリザードマンの手首あたりにピタリと嵌って止まった。
「……」
これでもう腕輪を取り返すには、あのリザードマンを倒すしかない。グラウスが"マンハント・ザ・スーパースター"と呼ぶ災悪の魔物を。
「うぅ、た、助けて」
地面に転がったリンゼイが助けを求める。偶然にもグレアムの近くに吹き飛ばされてきたのだ。
グレアムはリンゼイの右手首が視界に入った。彼女の腕輪は無事だった。
(俺は何を考えている?)
合理的に考えるなら、リンゼイの腕輪を奪って自分が脱出するべきだった。リンゼイはグレアムの命を狙ってきたのだ。それぐらいされても文句はいえまい。
(勝ち目はない)
右足は捻挫。
もしかすると骨までいってるかもしれない。
それなら回復にもっと時間がかかる。
助けはきっと期待できない。
ここは迷宮の奥深く。誰が来れる?
Aクラス生徒は"ロードビルダー"との戦いで救援どころではない。彼らの無事を祈る。
攻撃魔術は効果なし。
シールドも無効化。
強化魔術も解除される。
そもそも魔杖は右手を斬られた時にどこかに飛んでいった。
その右手は――――グレアムは切断された自分の右手を探した。
(ちょっ!? 待て!)
右手は地面から生えた蔦に絡めとられ迷宮へ取り込まれていった。
(……)
右手は切断され、武器はロングソード一本。
そして、グレアムは右利きだった。
(戦えば、死ぬ。逃げても、きっと死ぬ。
生き残るには、腕輪で脱出するしかない)
だというのに、グレアムは誰かを犠牲にして生き残る気にはなれなかった。リンゼイの腕輪の宝石を押し込む。
シュン
リンゼイは転送されて、その場から消えた。グレアムを残して。
(ワンチャン、俺も一緒に転送されることを期待したが、ダメだったか)
グレアムは腰の剣帯を外すと、鞘を右の前腕部と二の腕で固定し左手で柄を握ってロングソードを抜いた。
"マンハント・ザ・スーパースター"が近づいてくる。自身の生存をかけた絶望の戦いが始まった。