107 三番目の師 13
聖国から借り上げている公国の宿舎に入ると、グレアムはそのままユリヤの部屋に向かった。
すれ違う守衛とメイド達から受ける会釈に目礼で返す。すっかり顔なじみといった感じだ。だが、そういうグレアムを気に入らない人間もいるようで――
「また来たのか。品位が下がるのであまり出入りしてほしくはないのだがな」
廊下で出会った刺々しい口調の老人はこの宿舎の管理責任者だ。準男爵であるレビイ・ゲベルよりも爵位は上なので立ち止まって会釈する。
「まったく、殿下にも困ったものだ。このような者を軽々しく立ち入らせて。ただでさえロールとの婚姻がご破算となったのだ。この上、変な噂まで立てられたら婚期が――」
「ユリヤ殿下をお待たせしているので失礼いたします」
「あ、おい」
話を聞くほどの価値も義理もないと判断したグレアムはさっさと立ち去ることにした。ユリヤの前ではペコペコして、いないところで陰口、下の者には居丈高。積極的に付き合いたいタイプではない。
ユリヤの部屋をノックすると「どうぞ」と涼やかな声が返る。
「…………」
グレアムは周囲を見回し、人がいないことを確認すると素早く中に入った。予想通り、ユリヤは着ぐるみ型生体魔導人形ルビアスを脱いだ姿だ。ルビアス姿のユリヤの声はもっと低く潰れている。
「殿下?」
「……」
公国の人間にも自身の姿は秘密にしているというユリヤは見たこともない厳しい顔で何事かを考えていた。彼女の手には何かの書類。この才女を真剣に悩ませるその内容に興味があったが、訊ねるのは老管理責任者でなくとも僭越な行為と咎められるだろう。
ユリヤはグレアムに座るように促すと、書類をルビアスの内部に収めた。内部にはポケットがあって小物や書類ぐらいならば収納できるらしい。
ユリヤが手ずからお茶を用意してくれているので、大人しく待っていると――
(あ、そうだ)
グレアムはカバンから一纏まりの書類を取り出した。表紙のタイトルは『進化型魔物の攻撃行動と討伐戦略Ⅰ:"マンハント・スーパースター"の危険度評価』。先月の月末試験でユリヤが提出した研究論文だ。
「殿下、こちらお返しします」
テーブルに茶器を置いたユリヤに手渡す。
「参考になったかしら?」
「ええ。とても素晴らしい論文でした」
グレアムは本心からそう言った。一定数の人間を食べた魔物は"進化"し危険度が跳ね上がる。ユリヤの論文はかつてシユエ公国の東部で発生し、甚大な被害を齎した進化型魔物"マンハント・スーパースター"について研究したものだ。
先日、グレアムはユリヤとの何気ない会話の中で研究論文の話になった。
『"マンハント・スーパースター"?』
『知らないの? 「悪い子だとマンハントに攫われる」って子供のしつけに使われるくらい有名なのに』
『……ゲベルは西部ですし、しつけは言葉よりも暴力でしたので』
『……そう』
ユリヤの同情的な視線に、少し罪悪感を抱くが必ずしも嘘ではない。ゲベルはそういう家だとヘリオトロープから聞いている。
『それにしても"スーパースター"とはずいぶんユニークな名称ですね』
『皮肉よ。あまりにも被害が大きすぎたから』
特定の分野において卓越した才能と人気を兼ね備え、圧倒的な存在感を放つ人物のことをスーパースターを称されることがある。圧倒的な力と悪意を持って七つの村と三つの街を滅ぼし、公国東部を絶望の恐怖に陥れ、その討伐にかけられた資金と命の量から皮肉を込められて"スーパースター"とつけられたのだという。
『その事件以降、リザードマンは真っ先に討伐対象なのよね』
リザードマンはゴブリンやオークと同じ亜人型の魔物に分類される。
『マンハント・スーパースターはリザードマンが進化した魔物なのですか?』
『そう言われているわね』
確証はないらしい。見た目がリザードマンの特徴を持っていたからそう考えられているとのことだった。
『……』
グレアムは思い出す。オルトメイアに来て翌日の朝、森で剣の稽古中に襲われた異形のリザードマンのことを。気になったグレアムはユリヤから彼女の論文を借りることにした。ユリヤの論文は討伐の方法論に重きを置いて元の正体に言及するものではなかったが、それはそれで充分に優れたものだった。
「よろしければ、完結まで読ませていただきたく」
マンハント・スーパースターに関するユリヤの論文は全5章からなるシリーズものだという。ぜひ、最後まで読んでみたい。
「……残念だけど、次の試験が終われば帰国することになったの。読ませられるとしたら次章までね」
ユリヤは取っ手のない茶器をグレアムの前に置いた。茶請けはポテトチップスだ。
「そうなのですか。それは残念です」
グレアムはユリヤが淹れてくれたお茶を飲む。
「本音を言えばあなたも一緒に帰国してもらいたいのだけど」
ユリヤの言葉にお茶を吹き出しそうになった。それは困る。
「……そんな困った顔をしないで。無理矢理連れ帰る気はないから」
「はぁ、恐縮です」
「その代わりといっては何だけど、あなたにお願いがあるの」
「お願いですか?」
「ええ。私はある男と、戦わなければいけないの」
その戦いに協力してほしいというお願いだろうか? まあ、やぶさかではないが、ユリヤほどの才女が人の手を借りたいと思うほどの相手とは、よほどの強敵なのだろう。
「殿下のような方が、私に力を貸してほしいとおっしゃる相手とは、一体誰のことでしょうか? 戦いを避ける方法はないのですか?」
「ないわ。戦わないと世界が滅ぶ」
「世界ですか」
また大きく出たなとグレアムは思ったが、笑う気にはなれないほどユリヤの顔は真剣だった。
「まだ非公式だけど、近く学院で募集があると思うの。あなたはそれに参加してほしい」
「なんの募集です?」
「戦争よ。
ジョセフ王を殺害し、王国の土地を奪い取って今も蚕食を続ける大逆者。
グレアム・バーミリンガー討伐の軍よ」
「…………そのグレアム・バーミリンガーが、世界の平和を脅かす殿下の敵だと?」
「ええ。そういえばティーセ殿下の婚約者でもあったわね。グレアムは。仮初とはいえ恋人役を務めるあなたにとって複雑な思いがあるかもしれないけど」
複雑どころではない。次々と齎される衝撃事実に叫びたくなる。仮初の恋人役がバレていたのも驚きだが、ティーセの婚約者の件も、ユリヤに敵認定される覚えもない。
「そ、そうですか。……ちなみにグレアム・バーミリンガーを殿下の敵、世界の敵とする理由を教えてもらっても?」
「それは」
「それは?」
「言えないわ」
椅子からずり落ちそうになる。
「で、ではそのグレアムと話し合ってみては? もしかすると何か深刻な誤解があるのかもしれませんよ?」
「私の敬愛する師を卑劣な策謀を持って殺した男よ。……親友も巻き込まれて殺されてしまった。話し合う余地はないわ」
「そうですか……」
ユリヤの師と親友を殺す策謀など、もちろんグレアムに覚えはない。薬裡衆が勝手に何かしたのかとも思ったが、ジャンジャックホウルから聖国を挟んだ遠い地にあるシユエ公国に対して薬裡衆が動くとは思えなった。
「グレアム・バーミリンガーは世界の敵よ。
世界から切除しなくてはならないガン細胞。
あなたにその手助けをしてほしいの」
そう熱を持って懇願するユリヤにグレアムは否やとは言えなかった。もしかすると自分で自分を相手に戦争する。そんな、おかしな状況になるのかもしれない。ガン細胞呼ばわりされたことも相まってグレアムの気分は沈んだ。