106 三番目の師 12
「千の姿持つ波の乙女。水司る湖畔の住人よ。
月の光と夜霧に導かれ、深き淵より現れよ。
浮気者の夫は息を止めて忘れてしまえ、ウンディーネ」
ティーセの口から精霊召喚の呪文が紡がれた後、何もない空間に手の平サイズの水球が生まれた。水球は内側から破れ、上半身が女性の姿で下半身が魚の尾ひれを持った半透明の精霊が現れる。
ティーセは25メイル先にある的を身振りで示すと、精霊は一本の矢のような姿になって的を穿った。
「よしっ!」
拳を握りしめ快哉をあげるティーセ。精霊は人魚の姿に戻ってティーセの近くに帰ってくる。もうすっかりウンディーネを操れるようになったようだ。偽名で傭兵をやっていた経験から、ティーセは真っ先にウンディーネの精霊魔術を覚えることにした。傭兵は山野で活動することが多いため、衛生的な水の確保に常に悩まされたのが理由らしい。
ティーセはこちらに駆け寄ってくると「どうだった?」といいたげに顔を寄せてくる。
これは褒めてほしいんだなと直感した。
「ああ、すごいな」
ついでに頭も撫でる。仮初の恋人とはいえ、一国の王妹に馴れなれ過ぎかとも思ったが、ティーセは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「なあ、ところでティーセ」
「ん? なに?」
「呪文の最後のフレーズの『浮気者の夫は息を止めて忘れてしまえ』ってのは、どういう意味だ? ウンディーネは息を止めると嫌なことは忘れる性質でもあるのか?」
精霊魔術の呪文に決まった文句はない。ソーントーンがウンディーネを呼び出しているところを見たことがあるが、その時の呪文はまったく違うものだった。
ティーセによれば術者が精霊の本質を理解し、それに沿う呼びかけであれば呪文は何でもいいらしい。つまり『浮気者の夫は息を止めて忘れてしまえ』というフレーズはティーセ独自のものだ。
「違うわ。ウンディーネには人間の男のもとに嫁ぐ伝承があってね」
異類婚姻譚というやつか。日本では鶴や蛤の話が有名だが、この世界なら実話であってもおかしくない。何せ魔物や天使やドラゴンがいる世界なのだ。
「それでウンディーネには破ってはいけない掟がいくつかあって。その一つが『夫に浮気されてはならない』というものなの」
「ふむふむ」
それが"浮気者の夫"というフレーズに繋がるわけか。
「で、掟が破られてしまうと、ウンディーネは水の世界へ帰り、かつて夫を愛したことを忘れてしまう。さらに彼女たちは、眠ると息が止まる呪いをかけて夫を殺してしまうのよ」
「お、おう」
「このフレーズを呪文に入れてから調子がいいのよね。これなら次の実技試験、何とかなりそうだわ!」
「それはよかった」
ティーセの笑顔がなんか怖い。声が震えなかった自分を誰か褒めてほしい。
「じゃあ、俺はそろそろいくよ。ティーセも頑張ってね」
「……ユリヤ殿下のところ?」
「ああ」
グレアムは今、ユリヤから使役魔術を学んでいる。ユリヤとの待ち合わせ場所に行こうと歩き出したところで背中にわずかに抵抗を感じた。
「?」
振り返るとティーセがグレアムの服の端を指で掴んでいた。
「ティーセ?」
「あ、ごめん」
ティーセは服から手を離すと髪先を弄り始めた。なぜ、そんなことをしたのか自分でも分かってないかのようだ。最近のティーセはこういうよくわからない振る舞いをする。
(ホームシックだろうか)
祖国から遠く離れた異国の地。寂しいという思いが、同じ王国人であるグレアムを本能的に求めているのかもしれない。
「またあとでな」
ポンポンと頭を撫でると、その手をティーセはとって自分の頬にスリスリと押し付ける。
(……猫みたいだな)
そう、ティーセは猫科の猛獣みたいなものなので、猫なら思わず抱きしめたい衝動にとらわれてもおかしくはない――はずだ。婚約者がいる女に俺が性的な欲情を抱くわけがない。
「ティーセ」
「……ん」
心を落ち着け優しく呼びかけるとティーセは名残惜しそうに手を離した。
「何か悩み事があるなら聞くぞ」
日本人のホームシック解消には醤油が効果的と聞いたことがある。王国にもそういう食べ物があればいいが。
「……ユリヤ殿下」
「ん? 殿下がどうかしたか?」
「……いえ。何でもないわ。殿下によろしくね」
やはりティーセの様子がおかしい。呪いが進行しているわけでもなさそうだが……
……そういえば、ティーセの様子がおかしくなったのはユリヤの本当の姿を知ってからのような気がする。
レイバーと神前決闘をすると勘違いしたティーセが窓を破って飛び込んできた時に、着ぐるみ型生体魔導人形ルビアスを脱いだユリヤの姿をティーセは目撃している。ティーセはこの絶世の美女がユリヤだと直感したのだという。
グレアムはティーセを巻き込むことにした。レイバーに試験で勝っても約束を反故にされてはたまらない。第三者の王国人で王族であるティーセならば証人としてこの上ない。ユリヤは気が進まないようだったが、窓の修理代(※学院から普通に請求される)くらいは働いてもらう。
さて、ユリヤの宿舎は一棟丸ごと聖国から貸し出され、管理は公国に委託されている。宿舎の管理責任者は公国から派遣された爵位を持つ老人で、今回の不始末について平身低頭だった。
老管理責任者によれば、ユリヤが断罪された日から平民の従僕が一人、姿を消したらしい。おそらく、その男がジョスリーヌの生体魔導人形を持ち出した犯人で、処罰されることを恐れてオルトメイアの森に逃げたのだろうとのことだ。
『……』
『何か気になることが?』
『ん、ちょっとね』
ユリヤはどこか納得がいかない様子であったが、犯人については何も言わず宿舎の徹底捜索を命じた。『禁術のフレッシュゴーレム製造の証拠』として、グールの体の一部がどこかに置かれていることを懸念してのものだ。丸一日かけた捜索の後、老管理責任者から特に怪しい物はなかったとユリヤは報告を受ける。
とはいえ、最重要参考人が消えて宿舎に不審物もないから、これで安心といえるわけもない。従僕が怪しいのは間違いないが、彼が裏切者と決まったわけでなく一人とも限らない。なので、ユリヤは試験が終わるまでティーセの屋敷で寝泊まりすることになった。
一方、学院生達がユリヤを見る目は厳しいものがあった。レイバーはあれで人望があったらしく、そのレイバーが断罪したことからリンゼイ嬢への虐待やフレッシュゴーレムの製造はほぼ事実と認識されているらしい。
ところが、悪意と非難の視線に晒されているユリヤは特に気にしたふうでもなく、普通にルビアスの姿で講義を受けていた。同盟国の王族ということで直接的な攻撃がないとはいえ、なかなか強い心を持っていると感心していたが、ティーセの意見は違うらしい。
「あれで結構、傷ついているようだから、しっかり支えてあげて」
一つ屋根の下で寝泊まりしていることから、気づくものがあるのだろう。グレアムは「わかった」と返事して、ユリヤのもとに向かった。