81 学院生活15
グレアムは頭に疑問符を浮かべながら壁をじっと見つめた。
(おかしい。確かにユリヤ殿下の魔術で、いまにも崩れそうになっていたのに)
壁に刻まれた大きな窪みと放射線状のひびは影も形もない。
「……」
眼鏡をずらして"観て”みる。
(ふむ)
グレアムは壁を離れ、今度はポテトチップスが盛られていた木皿を見てみた。
「……」
「何をしているのです? レビイ・ゲベル」
ジョスリーヌ・ペタンが扉の前でグレアムに呼びかける。
「謁見の間はあなたごとき身分の者がいつまでも留まっていい場所ではありません」
「これは失礼しました」
グレアムは慌てて部屋から出る。ジョスリーヌはどうやら屋敷の外まで見送ってくれるつもりらしい。長い廊下を共に歩く。この屋敷はシユエ公国の王族や高位貴族のために聖国が用意したもので、華美でありつつも歴史を感じさせる。聖国におけるシユエの地位は決して低いものではないとわかるものだった。
「ジョスリーヌ様。ユリヤ殿下へ謝罪の場を設けていただき、ありがとうございました」
玄関ホールでグレアムはジョスリーヌに向き直って改めて礼を言った。スーパーモデルのような彼女の身長と容姿は、地味な黒のドレスすら華やかなステートメントに見せる。ただ、明るいところで初めて見た彼女の顔色は酷く悪い。壁の件も含めて色々訊きたいことはあったが、今回は目的はあくまで謝罪。不躾な好奇心は控えることにした。ところが――
「少し話があります」とジョスリーヌに別室に案内される。
応接室と思しき部屋のソファに一人座って待っていると、カチューシャとエプロンを身に着けたジョスリーヌがお茶を持ってくる。地味な黒のドレスはお仕着せで、ジョスリーヌはユリヤのメイドも兼任しているようだった。
「どうぞ」
差し出されたのは白磁の茶器。取っ手はなく、素手で持っても熱く感じない温度の琥珀色の湯。ほのかな柑橘系の香りがグレアムの鼻孔を擽った。
(おや、これは?)
グレアムは一口飲む。甘く爽やかな後味が口の中に広がった。前世のプーアル茶に近い味だと思った。普段飲んでいるお茶は紅茶に近い味なので、懐かしい味にグレアムは思わず顔が綻んだ。
「…………」
そのグレアムの顔をジョスリーヌはじっと見つめていた。
「……私の顔に何か?」
「……本国でもあなたのことが話題になっています。
あの悪名高きゲベルにあなたような優秀な息子がいたなど信じられぬとも」
「はあ。恐縮です」
「……聖国とシユエの関係はご存知ですね」
「古くから続く同盟国だと」
「ですが、その実態は宗主国と従属国。話題と言いましたが、実際はアルベール殿下を差し置いて一位となったことを問題視する声があります」
西に帝国という強大な敵を持つシユエは聖国の支援なしでは成り立たない。聖国との関係悪化を恐れる媚聖派と呼ばれる一派を中心に今回の"レビイ・ゲベル"の試験成績を問題視しているのだという。
「二位ではダメだったのかと」
なんだそりゃとグレアムは思う。特定の順位になるように点数を取る。そんな器用なことができるか。ましてや初めて受ける試験だ。もし仮にできる人間がいるとしたら異世界転移部の部長ぐらいだろう。
グレアムはどう答えようかとわずかに思案した後、茶器を置いて答えた。
「私も国を代表して来ている以上、恥ずかしい点数を取るわけにはいきません。
そこはご理解いただきたく」
ジョスリーヌが同意を示すように頷く。
「順位など結果にすぎません。
一位を取る努力を続けなければ二位どころか、三位四位にもなれない。
それゆえ、本国の方々の懸念も理解いたしますが、次回の試験成績について確約することはできません。浅学非才の身ゆえにただ全力を尽くすだけです」
「……まるで次回も一位を取る自信があるかのようですね」
「まさか。そんなものありません。正直、なぜ今回、一位を取れたのか私も不思議に思っています。ただ……」
「ただ?」
「私が実技試験五位となったのはジョスリーヌ様、あなたのせいではありませんか?」
「……なぜそう思うのです?」
「試験結果一覧表にあなたの名前がどこにもなかった。あなたは少なくとも九体のミノタウロスを倒している。対して私はミノタウロス一体とブラッドクーガー二体にグール四体。ミノタウロス八体分の討伐実績がブラッドクーガー二体とグール四体の討伐実績を下回るとは思えない」
「つまり、何かの間違いでミノタウロス九体分の討伐実績があなたに入ったのではないかと」
「ええ。そう考えて学院に申告したのですが、訂正されることなく私の五位が確定した。それが私の総合一位に大きく寄与したのは間違いないかと」
「なるほど。……あなたの予想は間違っていないかと。私も学院の評価制度について詳しくありませんが、どうやら私は評価される立場にないようです。それゆえ、私が倒した魔物は近くにいたあなたの実績として加点されたようですね」
「評価される立場にない? それはどういう――」
「レビイ・ゲベル。あなたに頼みがあります」
「はい」
「私はCクラスより上にいけることはなさそうです。ですので、ユリヤ様がAクラスの講義を受ける際は貴方に付き添っていただきたいのです」
通常の講義においてCクラスの学生がAクラスの講義を受けることはできない。本来、ユリヤの付き添いはジョスリーヌの仕事だが、グレアムにその代わりを務めてほしいと言っているのだ。
「ユリヤ様は既に超一流の魔術師です。それゆえユリヤ様が必要とする講義は多くありません」
そうは言うが付き添うにはユリヤと同じ講義を受ける必要がある。グレアムも受けたいと思っているAクラス講義があった。もし、それがユリヤの講義と重なるようであれば諦めなければならない。だが――
「承知しました」
実技試験の護衛仕事が講義にまで拡大したと考えるしかない。どちらにしろ立場的に断ることはできないとグレアムは判断した。
◇
「動揺なしか」
シユエ公国の王族や高位貴族がオルトメイアに留学した際に寝泊まりするために建築された施設。その応接室でジョスリーヌ・ペタンは呟いた。
既にレビイ・ゲベルは辞去している。ジョスリーヌの視線はレビイ・ゲベルが飲んでいた茶器にあった。この茶器と茶器に入っていたお茶はシユエ独自のものだ。取っ手のない茶器と独特の風味に初めての人間は大抵戸惑う。だが、レビイ・ゲベルにその戸惑いはまったく見られなかった。
貴族名鑑も検めた。貴族名鑑は王家が管理する貴族の名前、所領、爵位、功績など、貴族に関する様々な情報が記載された一覧表や書籍のことだ。もちろん家族情報も記載され、ここに名前がないと"青い血"とは認められない。出生、死亡、養子縁組、離縁の報告は貴族の義務とされ、怠ると重い処罰が課される。
そして、その貴族名鑑に"レビイ・ゲベル"の名は確かにあった。
レビイ・ゲベルの実在を疑う理由はない。だが、それでもジョスリーヌがレビイを試したのは"ユリヤの記憶"になかったからだ。
「レビイ・ゲベル。何者か」
だが、それでも利用できるなら利用する。
ユリヤには倒すべき敵がいた。世界を破滅させる不倶戴天の敵が。