75 第1回月末試験3
「上だ! 狙われているぞ!」
頭上からブラッドクーガーに狙われている生徒に警告を発する。だが、魔術行使に集中しているせいかグレアムの言葉が耳に届いていないようだった。
「ちっ!」
グレアムは駆け出しつつも"間に合わない"と予感していた。そして、その予感はブラッドクーガーが獲物に向かって駆け出したことで確信となる。ほんの数秒で、あの生徒も先ほどのグールのように、この迷宮を半ば永遠に彷徨う存在になる。
(魔術は間に合わない! 短剣も届かない!)
ブラッドクーガーの体が硬化能力によって赤くなる。この冷酷な狩猟者は上からの突進によって、獲物の頭を熟れた柘榴のように弾けさせることに決めたようだ。それならグールになることはないが、なんの慰めにもなっていない。
ブラッドクーガーの四つの脚が壁から離れ、自由落下を開始する。正しい方向への重力に引かれ、ブラッドクーガーの――
(重力!?)
その言葉がグレアムに一つの記憶を想起させる。
"縮地"
武術や忍術において、短い距離を瞬間的に移動する技法。その正体は重力を利用した体移動であると。
『下り坂で走り出すように、地面に倒れる力を推進力に変える。地面に深く沈み込むことになるから目の前から突然消えたようにも見える』
『それが"縮地"の正体だと。なんだか、すぐにすっころびそうな走り方だな』
『倒れる前に地面を蹴るんだよ。ボクの計算では初速を毎秒5.24メートル、時速にして18.864キロメートルの速さが出せれば縮地は可能だ。百メートル走の10秒が時速36キロメートルだから意外にいけそうだろ』
『"初速"でそれだけ出せればな。それができれば水上も走れるんじゃないか。すっころぶ前に足を動かすのと同じように、水に沈む前に足を動かせばいいんだから』
『水上を走るには速度のほかに足の面積と水の密度と摩擦、粘性、安定性などの要素も考慮する必要があって――』
”縮地”など眉唾だと思っている。本当に縮地で速く動けるなら世界のトップスプリンターは縮地を使っている。だが――
メキャ!
グレアムのふくらはぎが膨張する。
地面に向かって倒れ、顎が地面に触れる直前で、地面から生えた根を蹴り出した。
ドン!
空気が震える。遠くから見た者がいればグレアムが消えたしたとしか思えなかっただろう。
周囲の景色が飛ぶように過ぎていき、瞬く間に目標に近づいたことを知覚する。
(強化魔術も使ってないのに、なぜ!?)
それはグレアムが自身の身体能力の"向上"――否、"拡張"を自覚した初めての瞬間だった。
遥か遠くにいるように感じたブラッドクーガーを、剣の間合いに捉える。
鞘から剣を抜き放つ――その動作の延長でブラッドクーガーに斬りつけた。ブラッドクーガーはその身を赤く染めている。通常ならばその硬化した体にただの鉄剣など通じない。だが、グレアムにはなぜか確信があった。
(斬れる!)
ズッ――バキン!
刀身がブラッドクーガーの首に半ばまでめり込み、そこで折れた。だが、それで充分だった。
ブッシャァアア!
ブラッドクーガーの首から血が勢いよく吹き出す。
勢いのついたグレアムは遠く離れて着地する。折れた剣を構えて後ろを振り返った。そこで目にしたのは、地面に力なく横たわるブラッドクーガーと――
微妙な表情で佇む――全身が血塗れになった、一人の女生徒だった。
(あ、既視感。……ウルリーカ、元気にしてるかな)
面倒事を予感したグレアムは、半ば現実逃避でそんなことを考えた。
◇◇◇
―― 同時刻 ジャンジャックホウル アルビニオン ――
「失礼します。大佐」
オーソン=ダグネルの執務室に入ってきたのはウルリーカ・ラビィット大尉。ムルマンスク領主フランセスの三女にして、自他共に認める天才魔道具師だった。
「例の魔女様から提出された計画書ですが、本当に進めてもよろしいので?」
「計画書?」
連日の激務で少し痩せたオーソンはウルリーカから受け取った書類を確認する。
「ああ、これか。進めてくれて構わんよ」
「本当によろしいのですか?」
そう念を押すウルリーカ。現在、ジャンジャックホウルではSNSに頼らない軍事ドクトリンを進めている。おかげでウルリーカの魔道具工房もフル回転だ。
ところが、例の魔女様の計画はSNSの使用を前提としている。現在の方針とは真逆だ。
「"サイバー攻撃"なら気にしなくていい」
"サイバー攻撃"――何らかの方法によりSNSの機能を停止させることを目的とした攻撃とグレアムが定義した。現在、ジャンジャックホウルとその勢力圏では、魔銃とマジックバッグの運用、工事や運搬、移送のための魔物使役、海洋資源の採取、ポーションの大量生産、ゴミ・汚物処理、通信など様々な社会インフラをSNSに依存している。SNSの機能停止はジャンジャックホウルの陥落と同義だった。
そして、サイバー攻撃として現在、最も有力な手段と見なされているのが聖結界攻撃だった。広範囲に展開した聖結界によって、その内側にいるスライムを死滅させる聖国の"対SNS戦術"である。
非SNS軍事ドクトリンはそれに対抗するための軍の基本的運用思想なのだが、オーソンはそれのみ推し進める必要はないと考えている。リスクに備えることも重要だが、SNS利用のさらなる発展も必要だ。要はリスクとベネフィットのバランスだった。ウルリーカの現在の仕事も民間の魔道具工房と錬金工房で代替できる。
(それに聖国の"対SNS戦術"をどうにかするために、グレアムが自ら乗り込んでいるんだ。非SNS軍事ドクトリンなんて無駄になるんじゃないか)
そうオーソンは考えている。
「いえ、そちらの心配ではなく」
「うん?」
「指名手配していた相手が"オーガの居ぬ間に"のごとく好き勝手していること、グレアム様が知ればぶちぎれません?」
「…………」
そりゃぶちぎれるだろうとオーソンは思った。恩ある女性を攫った怨敵を内部に入れて軍事指導まで許している。グレアムが激怒する姿が想像できた。
「王国からも指名手配されていて、どうしてあんなに自由に振舞ってるんです?」
「…………」
ケルスティン=アッテルベリは王国の中枢に八十年以上居座った傑物であり、様々な方面に影響力がある。アリオン=ヘイデンスタムなど赤子の頃におむつを替えられたこともあるという。彼女に頭が上がらない、もしくは弱みを握られている人間は予想以上に多かった。
オーソンにも祖父の失態をケルスティンが擁護してくれた事実がある。彼女がいなければダグネル家も存続していなかったと思えば軽んじることはできない。
「ケルスティンに問題が?」
「いえ。むしろ見識が深く、感心することが多いですわ。それだけに彼女の立場がこれ以上、悪くなるのを心配していますの」
ジャンジャックホウルに戻ったグレアムがケルスティンを処断する。その可能性は大いにあった。
「グレアムには俺から話しておく」
「大丈夫ですの?」
「軍事に関するすべてを決める権利は俺にある。グレアムにも文句は言わせないさ」
グレアムはジャンジャックホウルを離れる前に決裁権をアリオンに、兵権をオーソンに託していた。対外的にはグレアムが命じたような形になっているが、実質的にアリオンとオーソンの協議によって政治を進めている。
「信用されてますのね」
ウルリーカは本心からそう言った。現在のSNSへの重要性から"対SNS戦術"への対応がもっとも優先度が高いことはウルリーカにも理解できる。そのためにグレアム自身が聖国に乗り込むことも。だが、不在の間にも政策を進めるためとはいえ、権力を他人に譲り渡すのはかなり思い切った行動だ。よほど信用している相手にしか、そんなことはできない。
「……本当にそうなのかな」
「え?」
「いや、なんでもない。計画通り進めてくれ。予算のほうはペル=エーリンクと頼む」
「はい」
ウルリーカはオーソンの執務室を辞去した。工房に戻る道で今後の段取りを考える。今の仕事を区切りのよいところでストップ。民間工房への引継ぎと新計画への移行のために予算と人材の配分等々を考える――その頭の片隅で、オーソンが最後に見せた様子に、ウルリーカは少し嫌な予感を覚えた。