72 学院生活11
近づくオルトメイアでの最初の試験。その対策のため、ティーセと勉強会を開くことにした。場所がグレアムの自室になったのはティーセの希望である。グレアムの部屋を見てみたいと。
オルトメイアに来て、まだ一カ月経っていない。特に変わったものはないと言っても、それでも構わないというので連れてきた。
備え付けのベッドと机と椅子、そしてキャビネットが八畳ほどの部屋に収まっている。中級貴族用の部屋とはいえ寝室はこんなものだ。面白いものなど何もないと思うが、ティーセは機嫌良さそうにグレアムの説明を聞いてペンを走らせていた。
「<魔矢>の魔術を例にしてみよう。魔力塊を発生させて目標にぶつける基本的な魔術だが、それでも二十を超す魔術式が使用されている」
グレアムは天井に向けた人差し指に小さな魔力塊を発生させる。
「魔術を発動できる状態にするブートストラップ、命令を受けコントロールするディスパッチャ、魔力管理と効率化のためリソースプーリング、命令を実行するエグゼクター、外部に出力するためのパブリッシャ。指先に魔力塊を発生させるだけなら、これくらいの魔術式で済むが、そこからターゲットに向かって発射するトリガー、ターゲットを追跡するホーミング、飛距離や威力を増すためのブースターなんかが加わってくる」
グレアムは窓を開けると、空に向かって魔力塊を飛ばす。紫色の光玉は屋根より高く飛ぶと、そこで弾けて消えた。
「それぞれの魔術式の役割は決まっているが実現のための方式は複数存在する。例えばブートストラップにはハイサイド式、OPアンプ回路式、リップル&ハイガー方式。ディスパッチャにはプリエンプティブ方式、ノンプリエンプティブ方式、ハイブリッド方式があり、それらをカスタマイズしたものもあれば、まったく独自の方式で実装したものもある。なぜ方式が複数あるかというと、実は魔術によって適した方式というのが存在し、さらに方式には相性がある。放出系の魔術ではブートストラップのリップル&ハイガー方式とディスパッチャのプリエンプティブ方式の組合わせは他の組合せより最大1.2倍の差が出ると言われている。魔術における"組合せ最適化問題"とは最大の効果と最小のコストとなる魔術式の組合せを求める問題なんだ」
眠くなっていないかと心配したが、ティーセは興味深そうに聞いていた。理解もしているようだ。グレアムはかなりかみ砕いて説明している。これで理解してくれないなら匙を投げるしかないと思ったが、その心配は不要のようだ。
「"組合せ最適化問題"には大きく二つの種類がある。"簡単に解くコツがある"問題と"しらみつぶしに組み合わせて調べないと解けない"問題だ。放出系魔術のブートストラップとディスパッチャの組合せには"簡単に解くコツがある"ことが判明している。今回の試験では"簡単に解くコツがある"問題を暗記すればいい」
そこまで説明したところで、ティーセはその端正な顔に疑問符を浮かべた。
「はい、レビイ先生」
「はい、ティーセさん」
「なんで"簡単に解くコツがある"問題を覚える必要があるんですか? 総当たりで組み合わせてみればいいじゃない。実際、"簡単に解くコツがない"問題はそうしてるんでしょ?」
「もっともだ。実際、"簡単に解くコツがある"問題よりも、"しらみつぶしに組み合わせて調べないと解けない"問題のほうがずっと多い。でも、それは無理なんだ」
「無理?」
「そうだな。……例えばここに四〇個のお菓子があるとする」
グレアムはソーントーンが持ってきた三段のケーキスタンドを示す。実際には四〇個もなく、半分以上は既にティーセに食べられていたが。
「口当たりが軽くていくらでも食べられるようなお菓子もあれば、すごく美味しいけれどボリューミーでこれを食べれば他のお菓子は食べられなくなるお菓子もある。食いしん坊の君でも食べられる量には限りがあるだろ」
グレアムは"しらみつぶしに組み合わせて調べないと解けない"問題の一つである"ナップサック問題"――入る容量が決まったナップサックと価値と容量を持った品がありナップサックの容量が超えないように品を詰め、なおかつ価値の合計が一番高くなる組み合わせを探す問題――をアレンジして説明を試みる。
「そうかしら? これくらいなら全部食べられるけど」
「……とりあえずそういうことにしてくれ」
残りのお菓子を食べるように促しつつ説明を続ける。
「じゃあ、君が食べられる量で食べたお菓子の総価値――満足度を最大化する組合せを探すとする。どれくらいの組合せがあると思う?」
「ええと」
ティーセはマカロンを食べながら考える。先ほどのブートストラップとディスパッチャの例ではそれぞれ三方式だったから全部で九通り。だが、今回は四〇個もあって――
「とりあえず、たくさんあるというのはわかるわ。1000くらい?」
「正解は一兆だ」
「……」
「一兆通りの組合せの中から君が食べられる量で最大の満足度を得られる結果の組合せを調べる」
「……聞いてるだけで頭がおかしくなりそう」
「実際、調べるには膨大な時間がかかる。それこそ宇宙が誕生してから消えてなくなってもまだ足りないくらいの時間が」
「さすがにそこまで長生きできる自信はないわね」
「大きな魔術なら使われる魔術式は100を超えることも珍しくない。その魔術式の一つ一つに複数の方式があるので、その組合せは膨大な数になる。だから既に判明している"簡単に解くコツがある"問題を覚えておくことは有意義なんだ」
「ボードゲームの定跡を覚えるみたいなものかしら」
「だいたいその理解であってると思うよ」
喋りつかれたグレアムは残ったお茶を飲む。すっかり冷めて香りは飛んでいたが、その代わり僅かな渋みと微かな甘みが引き立って感じられる。一方で視線はノートに書きつけるティーセを追っている。
「?」
グレアムの視線を感じたティーセは問うような視線を投げてきた。
「いや、随分熱心だなと思って」
既存の魔術理論は精霊魔法に応用できるのだろうか。そんな話はソーントーンから聞いたことはないし、彼が魔術を勉強している姿も見たことがないが。それとも、王族の一人として無様な成績は取れないという自尊心によるものだろうか。
「一応、ケネットお兄様との約束があるから」
ケネットはジョセフの第三王子。第五王子クリストフとの王位継承を巡る争いに勝利し玉座についたという。
「約束?」
「ええ。私の婚約者のために、魔術をしっかり学んでくるっていう約束」