38 巡礼者ミリー1
話はポントス=ヴェリンのムルマンスク襲撃にまで遡る。
その日の朝、ミリー・スレッドグッドは妙な胸騒ぎを感じていた。
(この感じ……何?)
ミリーは寝間着のまま孤児院の屋根に昇ると周囲を見回した。
(……)
朝靄の中、見覚えのない男が街の中を走っていくのを見つけた。その走り方は一介の奉公人のそれではない。
ミリーは屋根から降りると地面に耳をつけた。
タッタッタッタッタッタッ
(……やはり、軍事訓練を受けた者の走り方。しかも精鋭)
"ラビッィト家の騎士が早朝ランニングを始めた"
そう考えるのが常識的。だが……
(あの男の表情に戦闘前の緊張感のようなものがあった。そう、まるで伝令兵のような)
朝靄の視界が悪い中でのことである。いかに最適化能力を持ったミリーでも確証を得られるまで観察できたわけではない。それでも――
(今日、何か起きる)
小人族屈指の戦士として名を馳せたミリーはこういった勘を外したことはない。
ミリーは男の正体を確かめようと追跡する。
朝日が昇った直後の時間。ムルマンスクの街に朝の喧騒が混じり始めた。
それでもミリーの耳は男の足音を聞き逃さない。男は街の中心から城壁近くに向かっている。
しばらくして男が立ち止まる。誰かと合流したようだ。
その誰かを確認しようとしてミリーは――
「!?」
素早く物陰に身をかがめた。
確認できたのは横顔、しかも一瞬だけ。だが、それで充分。
(ナッシュ。なぜあの男がここへ?)
グレアムを裏切るという大罪を犯した男。いつか絶対に殺すと誓った。
だが、今のミリーは寝間着姿で武器を持っていない。しかも、ナッシュは自分に気づいた。振り向く動作を見せた瞬間に隠れたので顔まで見られていないと思うが、なぜ気づかれたのかがわからない。
(何かの感知系スキル?)
ナッシュがスキル持ちなら今、殺すことは難しい。
(……)
しばしの熟考の後、ミリーは孤児院に戻ることにした。今のミリーにはナッシュを殺すことよりも優先すべきことがある。
ハワード孤児院を守る。
グレアムが生まれ育った場所も建物も、"魔女"の襲撃によって変わっていることは知っている。
それでも、ミリーにとってそこは守るべき"聖地"だった。
◇
「リックさん。今日は天気がひどく崩れそうです。子供たちを遠出させないようにしましょう」
孤児院長代理タイッサの夫リックに朝食の席でそう提案する。
「本当かい、エミリー? こんなに天気がいいのに」
リックは半信半疑ながらも絶大な信頼を寄せるエミリーの忠告に従った。
そうして、それは朝食後、しばらくたって起きた。
パシュ、パシュ
ミリーの鋭敏な耳が聞きなれた魔銃の発射音を捉える。
血と煙の臭いもあちこちから流れてきた。
「リックさん! 子供たちを孤児院の中へ! 野盗の襲撃です!」
「なっ!?」
実際に本当に盗賊の襲撃かはわからない。建物の中に避難させるための方便だ。だが、効果は劇的だった。野盗に襲われたせいで親を失った子供も多い。野盗が来たと聞いて庭で遊んでいた子供たちは孤児院の中へ駆け込んでいく。
「タイッサ!」
リックが出産のため、神殿に泊まり込んでいる妻のもとへ走ろうとする。
「待ってください! 神殿ならここより安全です!」
神殿への襲撃は重罪だ。さらに領主の騎士と兵士が常駐している。
「……そうだな」
ミリーとリックは外に残っている子供がいないことを確認すると、正面玄関の扉を閉めてその前に家具を積み上げる。その直後――
ドォン!
外から激しく扉を叩く音が響いた。
「リックさん! 子供たちを食堂に集めて!」
ミリーはそう指示しつつ、自分は裏口へ走った。正面玄関のバリケードを破るには時間がかかる。敵は裏口に回ると予想した。だが、敵は既に裏口から侵入し、子供達を外に連れ出していた。
(動きが早い! やはり、統率された兵士!)
ミリーは走りながらスカートを捲り上げ、太ももに括り付けていた短剣を二本抜く。子供を抱えて外に連れ出そうとしている敵兵士の背中に飛び掛かった。
グサッ!
首の急所に一撃。
「なっ!?」
驚く別の兵士に向かってもう一本の短剣を投げつける。眼窩を正確に射抜いたそれは兵士を絶命させた。
さらにミリーは倒れこむ兵士の魔銃を奪って発砲。
バシュ!
<炎弾>が三人目の兵士の首を貫通した。
これで今、孤児院内にいる敵は排除できた。だが、裏口の外にはまだ大勢の敵の気配。異常を感じ取った兵士が裏口を覗き込んできた。
すかさずミリーは発砲したが、これは外れる。自由になった子供達が射線を塞いでいた。
「こっちへ! 早く!」
それでも牽制になった。慌てた敵が頭を引っ込めている間にミリーは子供達に退避を促した。
だが、子供の一人が蹲ったままだ。どこか怪我したのか、それとも怯えて動けないのか。
ミリーは子供に向かって走る。
その間、裏口から左右に二人の敵が魔銃を向けてきた。
一人は引き金を引く前に魔銃で片づける。だが、もう一人は無理だ。
ミリーは魔銃を捨てると自身の運と体の小ささを信じて、滑るように突っ込む。
バシュ!
敵兵士の<炎弾>はミリーの頭上、指二本分の距離をあけて通り過ぎた。
蹲る子供の襟首を掴むと同時に短剣を投げつける。
その結果を確認もせず、子供を抱えて近くの部屋に走る。次弾が撃てる二秒はとっくに経過していた。投げた短剣で仕留めたか、あるいは牽制できたか。いずれにしろ追い撃ちなく、近くの部屋に飛び込めた。
「はぁはぁ」
ミリーは息を整えつつ子供の無事を確認する。見たところ怪我はない。怯えて動けなかっただけのようだ。
ミリーの手に魔銃と短剣は既にない。キャサリン少尉から奪ったマジックバッグに武器はいくらでもあるが、郊外の森に埋めてあり掘り出す時間がなかった。きっとすぐにでも残りの敵が飛び込んでくる。それに対し、ミリーは無手で子供達を守りながら戦わねばならない。連れ去られた子供も取り返す必要がある。
それでもミリーは絶望していなかった。帝国にいた頃はもっと酷い戦いを経験している。
ミリーは極限まで集中し、同時に自分の存在感を消していく。そうして、静かなる殺戮を開始する――その前に――
"ドッドッドッドッ!"
彼女の耳は、彼女が最も信頼する存在が発する音を捉えた。
かつて、もう一人の裏切者ヘンリクを殺すためにミリーが放った<炎弾>が、ヘンリクの身代わりとなった崇愛する彼を貫いた。
その衝撃が、皮肉にもミリーの彼に対する"最適化"を完成させた。放たれた<炎弾>が彼に着弾すると確信した瞬間、ミリーの脳裏にいくつもの過去の記憶が駆け巡った。
それはミリーに極限の集中をもたらし、その集中力は<炎弾>が彼の肩に食い込み、そして抜けるまで、彼が発するすべての音をミリーの耳に届けた。
それ以来、どんな騒音の中においても彼の心音と呼吸音を聞き分けられる。
"ウルリーカ。あの連中は――俺がもらう"
もちろん彼の声も。
その声音に多分の怒りが込められていることを察したミリーは沸き上がる歓喜と共に、孤児院の天井裏に駆け上がった。
<パラライズ・クラウド>の黄色い霞がムルマンスクを覆ったのはその直後だった。