32 フランセス母娘の事情
グレアムとウルリーカは魔道具の灯りに照らされた廊下を進む。
工房から続くこのエリアは進入可能メンバが制限されている。工房主のウルリーカとオーナーのグレアムは当然として、ウルリーカの弟子達でも選ばれた数人。あとはジェニファーと幹部クラスのみ入ることができる。
このエリアにはウルリーカが開発した魔道具や研究資料が保管されている。ウルリーカの杜撰な資料管理がムルマンスク侵攻の引き金となった反省からの処置である。
「そういえば――」とウルリーカは振り返った。
「実家の件、ありがとうございました」
ウルリーカは頭を下げた。
「礼ならアマデウスに言ってくれ」
グレアムは肩を竦める。
ウルリーカの実父キーデン。領地の経営を妻のフランセスに任せ、自分は王都で愛人と享楽的に過ごしていた人物である。
そのキーデンがグレアムに書状を寄こしてきた。
曰く、グレアムを奴隷にしてムルマンスクから追放したのはすべてフランセスの独断であり、ムルマンスクの統治は十年以上前からフランセスによって専横されており自分には何の責任もない。自分は既にフランセスと離縁している、と。
どうやらキーデンはグレアムが(結果的に)軍を引き連れてムルマンスクを訪れたことから妙な勘違いをしたようだった。キーデンは王都の神殿で長年、夫婦関係がないことを理由にかなり強引にフランセスとの離縁を認めさせたという。
グレアムはキーデンのくそムーブに眉をひそめつつも、自分を奴隷にした件について何者にも責を問うつもりはないと返信すると、キーデンは愛人とならず者を引き連れてムルマンスクに帰還した。早まってフランセスと離縁したことを焦ったキーデンはムルマンスクの実権を取り戻すつもりだった。
そうして、キーデンはポントス=ヴェリンの侵攻を許したフランセスの無能を責め追放しようとする。それに抗議したウルリーカの姉のベリトとビルギットと共に。
そこを救ったのがグレアムの命令でムルマンスク近郊に空軍基地を建設中だったアマデウス=ラペリだった。アマデウスはフランセスに味方し、逆にキーデンを追放したという。
「ですがアマデウス様の行動を追認してくださったと聞いています。引き続きお母様にムルマンスクを任せるとも」
「まあな」
グレアムは曖昧に返した。フランセス母娘のためというよりも自分の利益のためだ。
フランセス母娘がムルマンクスから追放されたとしても生家のアルムシンシアに戻るだけだ。そうなるとフランセスの兄弟は激怒する。最悪、戦争になる。
要はハワード孤児院が戦火に巻き込まれることを恐れたのである。いっそのこと孤児院をジャンジャックホウルに移築することも考えたが、レナに断りもなく勝手なことをするわけにもいかず、何よりジャンジャックホウルは対ドラゴンの最前線である。逆に孤児院を戦火に巻き込む結果になりかねない。
つまり、現状維持が最適と判断した結果にすぎなかった。であるのでウルリーカに感謝されても居心地が悪い。
「基地の建設でベリトとビルギットには世話になっているからな」
バツの悪さを隠すためにそんなことを口にしたが、実際、大いに協力してもらっていると報告を受けている。
ところが姉妹の名を口にした途端、ウルリーカが眉を顰めた。
「何か悩み事が?」
「いえ、大したことでは。……はぁ」
「相談ぐらいはしてみないか。解決できるかはわからんが」
「……そうですわね。統治の問題になってくるかもしれませんし」
そうしてウルリーカが重い口を開く。
ウルリーカの双子の姉ベリトとビルギット。
二人の婚期が遅れているらしい。
「二十歳を過ぎたばかりだっけ?」
前世の感覚からいえば結婚を焦る年齢でもないと思うが、やはり国や時代が変われば事情が違うのだろう。ましてや異世界である。
(そういえば)とグレアムは思い出す。
前世、中世時代の平民階級の女性の場合、十四歳から十六歳の間に結婚することが一般的だったという。王侯貴族の場合、政略結婚等の諸事情がからんでくるので十代前半から二十代前半と幅が多少広くなる。
それを考えればベリトとビルギットも決して遅いとはいえない気がする。
「二人は男性不信をこじらせてまして」
「あ~」
その理由はなんとなく察せられた。やはり父親が愛人を持つことが許せなかったのだろう。
「統治もせずに遊びほうけるような夫は持ちたくないと」
「え?」
「え?」
「……愛人を持つことはいいのか?」
「それが何か?」
「……いや、何でもない」
この世界では愛人は決して後ろ暗い存在ではない。公然と認められ社交の場や宮廷の中でも目立つ存在だ。純愛主義のマデリーネと話したせいで少し感覚が狂っていた。
(何となく、俺とマデリーネの感覚は似ている気がする)
しかも、前世の感覚だ。
(まさかな)
マデリーネが転生者で前世の記憶を持っている可能性を考えて、グレアムは否定した。これまで彼女にそんな様子は見られなかったからだ。
「……とはいえ、せめて二人の時は別の女性のことは考えないでほしいですわね」
「……」
夫婦関係に関する一般的な意見であろうか、それとも――
グレアムは返事に迷いコホンと咳払いした。
「それでベリトとビルギットが結婚に消極的だと?」
「ええ」
「働き者の男性と結婚すればいい、というわけにもいかないわけか」
二人の容姿ならば引手数多だろう。
「……父も若い頃は働き者だったそうですわよ」
「それは……」
人は変わる。良くも悪くも。今はよくとも将来はどうなるか。だが、それは結婚相手に限ったことではあるまい。
要はベリトとビルギットは男性に失望しているのかもしれない。もっとも身近な男性があれだったので。
「悪いが、力になれそうにない」
グレアムは溜め息とともに答えた。二人の心の傷は二人でどうにかしてもらうしかない。
ところが、そう遠くない未来において、二人の結婚についてグレアムはウルリーカに土下座する事態に陥ってしまうのだった。