8 ムルマンスク事変6
グレアムに抱えられムルマンスクの上空に飛んできたウルリーカ。そこで彼女はポントス=ヴェリンの軍勢であるテオドス軍に蹂躙されるムルマンクスを目の当たりにした。悲鳴と怒号、そして所々で建物が激しい炎をあげている。略奪を受けているのだと一目でわかった。
兵士の詰め所も傭兵ギルドも既に敵に制圧されている。建物の外に出された兵士と傭兵は、魔銃を突きつけられて頭の後ろに両手を回して地面に跪いていた。
「くっ! ヴェリン!」
グレアムに抱きかかえられていることも忘れ悔しそうには歯がみするウルリーカ。デネブのいう通り既に状況は絶望的だった。これでは母と姉二人もどうなっているかわからない。
「――どこだ?」
「えっ?」
「孤児院はどこだと聞いている?」
グレアムの言葉で思い出す。移転した孤児院の場所を教えるために無理矢理同行したことを。
トレバー孤児院があった場所は兵士の詰め所になっていた。そして、新しい孤児院は領主館のすぐ傍にある。
ウルリーカが指し示したその建物に、ヴェリンの兵士達が押し入ろうとしていた。
ドォン!
巨大なハンマーが木製の扉に叩きつけられる。
そのたびに建物の中から子供達の悲鳴が聞こえてきた。
たまらず裏口から逃げようとした子供達の一団を奴隷商人らしき男を連れた兵士が待ち構えていた。髪を掴んで子供を引きずりまわす。子供の泣き声に興奮したのか兵士達が下卑た笑い声をあげていた。
「なんてことを!」
「ウルリーカ」
「え?」
ぞっとする底冷えする声音。それがグレアムの声だと一瞬、認識できなかった。
(え? え? え?)
混乱する。
自分の故郷が蹂躙されている怒りと悲しみも忘れた。
自分が今、何に抱きかかえられているのか?
グレアムだ。この国の新たな支配者になるかもしれない男。
そのはずなのに――
ウルリーカはまるで得体の知れない何かの化け物に抱えられているような――そんな錯覚を覚えた。
「あの連中は――俺がもらう」
「え?」
「<パラライズ・クラウド>」
グレアムがそう短くそう呟いた瞬間、それは起こった。
グレアムの足元直下の地面から霞が生まれ、螺旋を描きながらムルマンスクの街に急速に広がっていく。
『? ――っ!? ―が!?』
それまで楽しそうに財貨を運び出していた侵略者達の顔が皆、一様に歪む。
黄色味がかった霞に触れた途端、一歩も身動きできなくなったからだ。
<パラライズ・クラウド>
指定した場所を中心に半径五メイルに一時的に体を麻痺させる雲を発生させる魔術。
グレアムはその範囲を二百倍にして発動した。麻痺の雲はムルマンスクを守る防壁にまであっという間に広がっていく。
「な、なんてことを!」
唖然とするウルリーカ。確かにこれなら敵は一様に無力化できる。だが、それは――
「み、味方まで麻痺してしまいますわ!」
ウルリーカの言う通り、眼下ではムルマンスクの兵士や住民、ギルドの傭兵まで麻痺の雲に触れて固まってしまっていた。
「問題ない。後で味方と判明したやつだけ解除する」
「火事もおきてますのよ! このままでは焼け死んでしまいますわ!」
グレアムへ抱いた恐怖心を押し殺し、必死に叫ぶ。
「それも考えてある」
「え?」
街中に広がっていた麻痺の雲が体積を増していく。今まで横に伸びていただけの雲が今度は縦に伸びてムルマンスクの街を厚く厚く覆っていく。やがて黄色味の霞はムルマンスクで最も高い塔の鐘楼まで達した。
「…………」
唖然とするウルリーカ。しばらくして霞が晴れると、火は僅かな煙だけ残して消えていた。
「ま、麻痺の雲の水分で、火を消すなんて……」
恐るべき魔力量と魔術演算速度、そして何より既成概念にとらわれない奇抜な発想だった。
凡百の魔術師では彼には到底、敵わない。王国より魔術が発展しているという聖国でもグレアムに匹敵する存在はいるだろうか。
ラビィット家でトレバー孤児院を保護していてよかったとウルリーカはつくづく思った。実は早い段階からジョセフ王殺害犯のグレアムがムルマンスク出身者であることを母のフランセスは気づいていた。母の側近は孤児院を街から追放するように進言したが、母は頑として受け入れなかったのだ。
(お母さま、ナイス判断ですわ!)
街ごと麻痺の雲に包む常識知らずだ。孤児院を追放していればグレアムはムルマンスクをどうしていたかわからない。聡明で慈悲深い母をウルリーカは生涯、尊敬することにした。
◇
パシュ!
独特の音を出してポントスが嵌めていた指輪の一つが光った。その瞬間、ポントスの硬直が解かれる。麻痺状態を解除する魔道具がその効力を発揮したのだ。
(ま、まさか、今のは<パラライズ・クラウド>か!?)
ポントスは窓に駆け寄る。敵味方問わず人は皆、硬直していた。そして、激しく燃え上がっていた火は鎮静化している。
(<パラライズ・クラウド>に含まれる水分が火を消し止めたのか?)
だが、それはこのムルマンクス全体を魔術の雲で覆ったということだ。
そんな馬鹿げた規模の魔術を使う者など――
パシュ!
その音に振り返るとナッシュの硬直が解かれていた。ナッシュが持ち込んだウルリーカの研究資料には状態異常を解除する魔道具も含まれていた。複写して在野の魔道具師にでも作らせていたのかもしれない。
(抜け目のないやつだ)
ナッシュへの警戒を強めつつ、この場で唯一まともに話せる存在に疑問をぶつける。
「おい、これはどういうことだ?」
問われたナッシュは青い顔をして――
「へへ、そんなの決まってるでしょう。あのバケモノがきたんですよ」
「バケモノ?」
「グレアム・バーミリンガー」
「!?」
「こんなバカげたことができるヤツなんか、あいつしかいない」
「ま、まて! なぜ、グレアムがこんな片田舎にやってくる!?」
「さあ? なんの理由できたのか知りやせんが、里帰りにでも来たんですかね?」
「里帰りだと!? まさか、グレアムはムルマンスクの出身なのか!?」
「ここの孤児院の出だとか」
ポントスの顔がサッと青くなる。
兵士達に略奪の許可を出している。もし、兵士達が孤児院を襲っていたとしたら……
「ぐ、グレアムにとって、その孤児院はどんな存在なのだ」
「さあなぁ。少なくとも大金を出しても惜しくないくらいに思ってるのは確かだな。ブロランカにいたころから結構な額を寄付していたようだし」
グレアムはペル=エーリンクを使ってトレバー孤児院宛てに多額の金を送金していた。その際、匿名で、決して送り先がグレアムだと悟られないように念押ししていた。
「この傷の礼代わりに、ちょっとした嫌がらせのつもりだったんだがな。俺ももってねぇなぁ。いや、持ってないのはあんたか」
「き、貴様!? 自分の復讐に私を利用した――!?」
ナッシュが身を翻した瞬間――
ピシュ!
風切り音。
トスッ
一本の矢がポントスの胸を貫いた。
「……ああ、そりゃあんたらも持ってるよな」
ナッシュの視線の先には撃ち終えたクロスボウを持つフランセスがいた。状態異常を無効化する魔道具の一つや二つ、貴族なら持っていてもおかしくはない。
「悪いが俺はここいらで退場させてもらうわ。縁がありゃまたな」
両膝をついたポントスが憎々しげにナッシュを見上げる。
フーフーと苦し気に息を吐くポントスは懐から何かを取り出した。
「そいつを使っちまう? まぁ、それしかないわな。じゃあな。そいつがあいつに通じることを俺のためにも祈ってるぜ」
ポントスが取り出したのは希少な複数の魔物の強化種と変異種の素材によって作られた円形の魔道具だった。胸を貫いた矢を無理に引き抜くと、その傷口にそれを押し当てる。
「ぐっ!? ぐぁあああああああ!」
ポントスの体が変容していく。体中の筋肉が盛り上がり服が弾け飛ぶ。それでもなお増幅を続け、やがてポントスの頭は館の屋根を突き破った。