116 終わる世界 42
マデリーネ・ヘイデンスタム。
アリオン=ヘイデンスタム公爵の長女にして二代目"聖女"である。
二七三年前、初代聖女アマンダとオスカー=ジルフはマーナ教を設立し、オスカーはアマンダを王妃に迎えてジルフ王国を建国する(後に神器を得て、オスカーの子孫はジルフ・"オクタヴィオ"と改名しアルジニア王国となる)。
かように一国を創り上げる聖女の存在は、同時に国を滅ぼす危険性をも孕んでいる。ジョセフによる暗殺を恐れたアリオンはマデリーネを王家から秘匿した。神の代理人たる天使すら殺害するジョセフである。アリオンの懸念は正しかったといえるだろう。
そして、ジョセフ殺害という世紀の大事件を契機にマデリーネはグレアムのもとへ身を寄せる。グレアムが王国を掌握する可能性を考えたアリオンの意図もあった。無論、アリオンはヘイデンスタム公爵軍を中核とする第二次グレアム討伐軍との戦いに巻き込まれてマデリーネが死ぬ可能性も考慮している。
だが、ジョセフが消えても王家がマデリーネの生存を許す可能性は低いとアリオンは見ている。一方で蟻喰いの戦団が王国に対抗するには聖女たるマデリーネの存在は必須である。結局、マデリーネが生きるにはグレアムのもとしかないのだ。
歪ではあるが、そんなアリオンの親心をマデリーネは正確に理解していた。そして、戦団との戦いで父が負けるであろうことも。戦に敗れたアリオンは貴族としての矜持を守るため自害しかねないと考えたマデリーネは父を説得するため、従軍神官としてクサモに残ることにした。
従軍神官とは敵味方を問わず負傷者の治療や戦死者の弔いを行なう非戦闘員である。神殿での修業経験と、自分自身に"神霊術"を付与することで治療魔術が使えるようになったマデリーネに神官服を着る資格は十分にあった。
しかし、中立である従軍神官を害することはこの王国では重罪であるが、戦場でどのような不慮の事故が起こるかわからない。神官を誘拐しようとする不届き者もいる。クサモを離れジャンジャックホウルに退避するように周囲が促すのも当然だった。
それを頑固に固辞するマデリーネに対してグレアムは仕方がないと、防御塔の一つに隠し部屋を作りそこで戦闘が終わるまで待機させることにした。そんなグレアムのマデリーネへの恩情がロードビルダーへの対抗策として返ってくる。
「"見ろ"、と? 例の状態で? これからやってくる銀色のドラゴンを?」
生き残った敵兵の治療を終えて、護衛達と一休みしていたマデリーネは副司令からそう告げられる。
「ああ、見るだけでいい。それ以上のことをする必要はない。ただ、最後まで目を離さないでくれと」
「……わかりました」
すっかり水の引いたクサモの街。護衛の少女二人が操るデス・キャンサーに乗ったマデリーネは、リーの指示で討伐軍が掘った空堀に身を潜めた。他の団員達も続々と空堀に身を潜める。
「団長の指示はよくわかりませんね。見るだけいいなんて」
グレアムの秘書であるスヴァンが首を捻る。マデリーネによって"神霊術"を付与された彼も従軍神官としてクサモに残る選択をしていた。
ちなみにマデリーネから"神霊術"を付与されたのはスヴァンだけである。希少な治癒魔術が使える上にスキルと違い他人に譲渡可能という特性からマーナ教団の黎明期に神官の誘拐が多発した歴史がある。同じ轍を踏まないように"神霊術"の付与をグレアムは禁じたのだ。
余談だが教団は神官を守るためという名目で武装するようになり一大軍事勢力となる。各地の神殿が保持する軍事力は、ダイク=レイナルドが解決するまで百年以上も王侯貴族の頭を悩ます大問題となった。
「グレアム様には何か深いお考えがあるのでしょう。それよりも、王妹殿下と共に戦場を離れたグレアム様がなぜ上級竜と戦う事態になっているのでしょうか」
「あ~、まあ団長ですからね」
マデリーネの言葉に棘を感じたスヴァンは曖昧に濁した。
「……王妹殿下と今もご一緒なのでしょうか?」
「ど、どうでしょう」
冷や汗が出てきた。助けを求めるように護衛の少女達に視線を向ける。彼女達はもとはマデリーネが書くマンガの大ファンだった娘達で、その縁からマデリーネの従者のような立場にいた。
「捕虜の話によれば、ティーセ様は団長対策として王宮から派遣されてきたそうですよ。
死闘を繰り広げる二人の間にやがて芽生える愛。そんなことになってたら素敵ですね~」
空気を読まない娘の発言に護衛の片割れが信じられないものを見るような顔をする。
ピシリ、と空気が凍った音をスヴァンは聞いた。
「ま、まあ団長が無事で何よりです。心配するなと言われていてもやはり不安でしたからね」
「……ええ、そうですね。グレアム様の無事を喜びましょう」
マデリーネの顔が少し柔らかくなる。
魔導兵装オードレリルがあるとはいえ、それだけで十分といえるかは未知数だ。グレアムは自分が不在でも団員達が戦えるようにいくつも入念な準備を行っていた。一方でグレアムが自分自身の強化のために用意したのはオードレリルだけである。マデリーネにはグレアムが自身を軽んじているように感じられるのだ。
スヴァンは先ほどまでの凍てつくような空気が雲散霧消したことに安堵すると同時に少し心配になった。
(聖女様、けっこう嫉妬深いな)
歴史に倣うならグレアムはマデリーネを娶ることになるだろう。
(団長、苦労するんじゃないか)
まだ、短い付き合いではあるが、スヴァンは自分より年若い二人を敬愛している。二人の結婚生活が穏やかで幸せなものであることを願ってやまない。
(まあ、まずは自分なんだがな)
スヴァンには最近、いい感じの女性ができた。美人で気立てのいい彼女にこの戦いが終われば結婚を申し込むつもりであった。
(『――きたぞ。聖女様、準備を』)
スヴァンが幸せな未来を夢想しているとリーから連絡が来た。
既にマデリーネは立ち上がってスキル発動のため瞑目していた。その直後、マデリーネの全身が黄金色に輝く。
マデリーネのスキル【コールゴッド】。
それは女神マーナを一時的に身体におろし神の力の一部を行使することが可能になる。
グレアムがマデリーネに頼んだのは女神を身体に下した状態で"ロードビルダー"を「見る」ことであった。
◇
「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験がある。一時間後に原子核崩壊する可能性が50%の放射性物質と、放射線を感知すると青酸ガスを噴出する装置と、生きた猫を鉄の箱の中に閉じ込める。そうすると、原子核崩壊と猫の生死は完全に連動していることになる。原子核崩壊はミクロの世界の現象であるため猫の状態も重ね合わせになる。つまり、猫は箱の中で「原子核崩壊が起きて死んだ状態」と「原子核崩壊が起きずに生きている状態」が半分ずつ重ね合わせになっていることになる。
この「シュレディンガーの猫」のパラドックスを解決する説が「多世界解釈」である。この説では「猫が死んだ世界」と「猫が生きている世界」が同時に存在する。猫が箱の中に閉じ込められた瞬間に世界は分岐し、そして蓋を開けて猫の状態を観測した瞬間に世界は収束し一つとなると考える。
もし、ドラゴンが移動する世界がこれと同じ、もしくは類似した理屈で発生するならば、その封じ方法はいたってシンプルだった。
箱の中を――、世界を観測すればいい。
ただし、その観測者は世界の中にいてはだめだ。箱の中に生きた猫が二匹いて猫同士が互いに互いを見ていてもそれは観測しているとはいえない。「二匹の猫が死んだ世界」と「二匹の猫が生きている世界」が同時に存在するだけである。閉じた箱の外にいて、箱の中身が見える存在に観測してもらう必要がある。
そんなことができるのは超常の存在――神だけであろう。聖女マデリーネ・ヘイデンスタムを神の端末として、神にこの世界を観測してもらう。
それがグレアムの"世界線移動"封じであった。