112 愚者の願望 7
「とりあえず、お二人のことは私に任せてください」とマルグレットがグレアムに囁く。
"大丈夫なんだろうな?"
マルグレットに口を抑えられたままなので目線で訴える。
「ええ、きっちり説明しておきます。悪いようにはしません」
(…………)
グレアムは若干の不安を覚えたが、その言葉を信じてマルグレットに任せることにする。グレアムが渋々といった感じで頷くと、マルグレットはグレアムの口から手を離した。
「ところでさ~」とサウリュエル。
「君だったんだね~。サウリュエルを解放してくれたのは~」
前のサウリュエルは無限回廊内でジョセフに殺された後、別の姿を持って蘇生するが無限回廊から脱出できずに十年以上、閉じ込められたままだったという。
そんなサウリュエルを無限回廊を破壊して解き放ってくれたのがグレアムだと【追憶】の権能で彼の記憶を覗き見たことで分かったのだ。
「ただの偶然だ」
「それでも感謝するよ~。お礼に~そうだな~。うん。スライムだして~」
「なんでだ?」
「いいから~」
グレアムは亜空間からフォレストスライムのヤマトを出す。嫌がる素振りを見せたらすぐに戻すつもりだったが、ヤマトは大人しくサウリュエルの手の中に収まった。
「あ~。やっぱり~。君が感じていた違和感の正体がわかったよ~。この子たち、ほんのちょっとだけ"世界線移動"を感知できるみたい~」
グレアムとヤマトは思念波で常時、密接に繋がっている。"世界線移動"に対するヤマトの感知をグレアムが違和感として受け取ったのだという。
「だったら~」
「「「!?」」」
サウリュエルはヤマトに顔を寄せると、そのプヨプヨした表面に口づけをする。
「て、天使様!? 何を!?」
神の代理人たる至高の存在が、魔物に、しかも最も劣悪な存在に口づけしたのだ。アロルドやマルグレットはもちろん、スライムにあまり嫌悪感を持たないティーセでも衝撃は大きかった。
「はい~」
そんな三人の様子に頓着せず、サウリュエルはグレアムにヤマトを返す。
「何かしたのか?」
「保険ってやつだよ~。何をしたかは~、まぁ、いずれわかると思うよ~」
「そうか」
まあ、ヤマトに害がなければ別にいいか。
グレアムは自分に<飛行>をかけなおすと、"ロードビルダー"のブレスで溶解した岩壁に移動する。そこからボロボロになったアダマンタイトスーツを回収した。防具としては使うには厳しいが、まだ使い道はある。
「じゃあ、俺はいく」
「う、うむ。頼んだぞ!」
「妹の仇をお願いします」
「グレアム。どうか無事で」
三者三様の言葉を背に受けてグレアムは西に向けて飛び去った。
◇
"ロードビルダー"は人類によって名付けられた通称である。
真名は"ネイサンアルメイル"という。
三百年ほど前、この世界に誕生した際、"竜の巫女"によって名付けられた。
竜大陸の中心地には竜の神の亡骸――ナムネストがある。
その首の鱗の一枚がナムネストから剥がれ落ちると、瞬く間に小さくなって丸い球となった。それは虫けらのように小さな巫女の、その掌に収まるサイズだった。
『"ネイサンアルメイル"と名付ける。強くなれ。他のどんな存在よりも。私よりも』
ネイサンアルメイルは光輝く卵の中で巫女の祝福を受け取った。
その後、巫女の家畜である竜信仰者どもの手によって、速やかに竜大陸の外円部に運ばれる。
竜大陸の中心地には最盛期のネイサンアルメイルが百体いても敵わない存在がいる。中心地でそのまま孵化すれば、ネイサンアルメイルはまさに虫のごとく潰されたことだろう。
その事実にネイサンアルメイルは怒りを覚え、その怒りをもって孵化した。その際に家畜が何匹か潰れたようだが気にも留めない。家畜は空気中の魔素をまだ効率よく体内に取り込めない間の栄養補給品でしかない。
家畜を一通り食い尽くした後、邪悪の女神の使途どもが襲い掛かってくる。家畜どもは魔物と呼んでいた。
若竜の最初の試練である。この試練で命を失う竜は多い。生まれたばかりの竜は魔法をほとんど使えないからだ。自分の爪と牙を使って襲いくる魔物を引き裂き噛み殺す。
『人間の神に気をつけろ』
巫女の言葉を思い出す。
(ふん。何ができるというのか)
ネイサンアルメイルが重力魔法を習熟した後は魔物などものの数ではない。ましてや、たかが虫どもに劣化魔法を授けたぐらいで、このネイサンアルメイルをどうにかできるとでもいうのか。肉体を失った虫どもの神は、この世界に直接的に干渉することはできない。よしんばこの世界に干渉できたとしても、竜の神の眷属であるこの身に傷一つ負わすことはできない決まりとなっている。それを破れば今度は肉体どころか存在すら消滅することになる。
それよりも、ネイサンアルメイルの最大の脅威はネイサンアルメイルと同じドラゴンだ。
ネイサンアルメイルの本能が、魂が、中心地に戻れと訴えている。上洛してナムネストと邂逅せよと命じている。
だが、わずかでも他の竜の縄張りに踏み込めば即座に襲い掛かってくる。それでネイサンアルメイルが命を落としかけたことは一度や二度ではない。
(力が必要だ)
そう決意し竜大陸の外円部で力を蓄えること二百年。
万全を期して上洛戦を挑み、そして――敗れた。
大きく力を失い、再び竜大陸の外円部に押しやられる。そこに追い撃ちをかけるように襲い掛かってきたのがバールメイシュトゥアシアだった。
バールメイシュトゥアシアもまた上洛戦に挑む力を蓄えるために広い縄張りを欲していた。
三日三晩による激闘の末、左腕を食いちぎられ、そして命まで奪われようとした時、現れたのが竜の巫女だった。ネイサンアルメイルにとっては三百年ぶりの再会である。
竜の巫女は二頭の竜に停戦を命じる。
『巫女よ、なんのつもりだ?』
巫女が竜同士の争いを仲裁するなど異例のことであった。
『既に決着は着いている。これ以上の争いは無意味だ』
『無意味なものか! 今、息の根を止めねば奴は我の命を脅かす! 違うか、ネイサンアルメイル!』
『いいや、違わぬ! 左腕を奪われたこの屈辱は決して忘れぬ! 必ず貴様の血でこの汚辱を雪いでくれる!』
『お願いしているのではない。止めろと命令している』
巫女から強力な威圧が放たれる。
『『…………』』
『ネイサンアルメイル。ここはお前が退け』
『退いてどこへいけというのか!?』
『邪悪の女神、封じられし大地へ』
『ふざけるな! 力を失った老竜のごとく、この大陸から出ていけというのか!』
本能が断固として否と訴える。上洛戦とバールメイシュトゥアシアとの戦いで大きく力を失ったが、まだこの大陸から追い落とされるほどではない。
『ネイサンアルメイル。お前だからこそ提案している。お前は他の竜に比べて本能を御せるだけの理性を残している。その地で力を蓄えよ。たった五百年。それだけで、貴様はナムネストに届く。竜の巫女たる私の見立てを信じよ』
『…………』
竜の巫女といえど容易には受け入れ難い提案である。種族的本能ともいえるナムネストへの引力はそれほど強い。
『……なぜだ? 巫女はいかなる竜にも肩入れしない。なぜ、そのルールを曲げる』とバールメイシュトゥアシア。
『曲げてはいない。私が動くのは竜族のためだ』
『ネイサンアルメイルが彼の地に赴くことが竜族の利になると?』
『私の"竜眼"が彼の地で不穏な影を感知している。それは竜族全体を脅かす影だ』
『その影を取り払うために貴様はドラゴニストとかいう家畜を飼っているのではなかったか?』
『ドラゴニストといえど、所詮、人間でしかない。圧倒的に力が不足している』
『そのためにネイサンアルメイルを彼の地にやろうと? なるほど、興味深い。よかろう。バールメイシュトゥアシアは巫女の提案を受け入れよう。ただし! ネイサンアルメイルの縄張りはあのあの山の向こうだ! ネイサンアルメイルは疾く去ね!』
最後にそう言い残し、バールメイシュトゥアシアは姿を消す。その場に残された竜の巫女はネイサンアルメイルに向き直った。
『お前の目的は上洛しナムネストに邂逅することであろう。この地に留まり続け力を消耗すれば、それも叶わなくなる』
『…………』
『それとも、竜眼に写った影に怖気づいたか』
『ふざけたことをことをぬかすな! 彼の地に虫どもの神が顕現しようとも、我が嚙み殺してくれるわ!』
『よろしい。期待しているぞ。ネイサンアルメイル』
そうして、史上初めてほぼ力を保ったままのドラゴンによる人類大陸への侵攻が始まった。