85 終わる世界 19
話は一時間前に遡る。
地上より数千メイルの空中で、ティーセはグレアムに抱き締められながら懊悩していた。
(ああ、ごめんなさい、お母様、グニー。私はお嫁にいけない体にされてしまった)
何せ二度も口唇を奪われてしまったのだ。かくなる上はグレアムと添い遂げるしかない。
(ああ、しかしグレアムは――)
王国に敵対する集団の首領であり、対して自分は王国の王妹である。
まるでどこぞの物語詩のような二人ではないか。
あの物語は悲恋に終わってしまったが、自分達もそうなるのではないか。
不安に陥りそうなティーセの心を感じ取ったのか、ティーセを抱くグレアムの腕により力が込められる。
「グレアム……」
ティーセの心に暖かいものが広がった。
ティーセは両腕をグレアムの背中にまわす。
「大丈夫よ。きっと私たちは――」
「なんだ? あれ?」
「え?」
グレアムは信じられないものを見るような顔つきで、地上を見つめていた。
振り返るティーセ。
山が、割れていた。
◇
トラロ山脈。
王国から、人類大陸と竜大陸を結ぶアッシェント大地峡帯へと至る天然の要害。
五〇〇〇メイル級の山々が連なり、グレアムが冬季の踏破を断念した山脈だった。
そこに、まるで見えない巨人の手によって引かれたかのように一本の線が北東から南西に伸びていく。
<視力増加>で見れば、それは幅数百メイルはある道だった。
数千メイルの山を構成していた草木と土砂、岩石がどこかに消え失せ、瞬く間に平らな道が出来上がっていく。
山を住処としていた虫と鳥が空に飛び立ち、獣たちは出来たばかりの道の上に次々と落下していく。
それはさながら旧約聖書にあるモーセの海割りの山脈版であるかのようだった。
「なんだ? あれ?」
何が起きている? 自然現象? 陥没?
目の前の信じ難い光景に混乱するグレアム。
この世界に転生して十三年。
魔術や魔物など前世にない色々なものを見てきたが、こんなものは初めてだ。
「まさか!? "ロードビルダー"!?」
「なんだ、それ?」
「ドラゴンよ! それも上級クラスの!」
「……あれを、生き物がやっているというのか?」
どんな魔術やスキルであれをやっているというのか。自然をあれほど急速に、かつドラスティックに変えられるものなのか。
「上級ドラゴンが持つ環境改変能力よ!」
ティーセが指差した先に灰色の小山があった。
否、山と思えたその物体は、出来上がったばかりの道の上を四つの足で歩いていた。
長大な首と尻尾が巨大な胴体に繋がっている。その姿はブロントサウルスと呼ばれる恐竜に酷似していた。だが、そのサイズは比べ物にならない。頭から尾の先までの全長はおよそ二十キロメイル、高さは二千メイルに達するかもしれない。
こんな巨大なものが生きて動いているという事実だけでも信じ難かった。
「だから"ロードビルダー"?」
あの巨体では山を登ることなど到底できないだろう。
だから、道を作っているのだと理解した。
自分が歩くための平坦な道を。
「ドラゴンは進化しない生き物よ。
遥か古代、それこそ神話よりも古い時代からその姿を変えていないと言われている」
それは変わる必要がないから。
「自分が生きやすい環境に世界を変えるから」
「なんだ、そりゃ?」
生き残るために変化に適応するというダーウィンの進化論を真っ向から否定している。
生物は環境の変化に合わせて自分を変えるのだ。
それとは逆に、自分の生態に合うように自然を、環境を、世界を、変えているというのか。
「それがドラゴンという生き物よ。
この世界の、最強生物」
まさに暴君――、人類の敵――
ティーセは鬼気迫った表情でそう呟いた。
―― 一年半前 ブロランカ島 二の村 ――
「ドラゴンのこと、グレアムに伝えたのか?」
深夜一人晩酌を楽しむ大賢者ヒューストームのもとに訪れたオーソン。
賢者の愛弟子が腕をふるった酒の肴のご相伴にあずかりつつ、かねてから気になっていることを訊いた。
「ほんのさわりだけな」
「それで大丈夫なのか?」
ドラゴンに関する詳細な情報は王国のごく一握りの人間に制限されている。平民が抱くドラゴンのイメージは魔物よりも強い幻獣ぐらいの認識でしかない。
「実際に見たほうがよい。奴らの非常識さはな。それにじゃ――」
ヒューストームは胸に湧いた苦いものを飲み下すかのように杯をあおった。
「今はいかにしてジョセフを排除するかのほうが重要じゃ」
オーソンは自分の盃にそそがれた酒を見つめた。
「ジョセフ王。なぜ、あのような愚か者になってしまったのか……」
もとより享楽的なところはあったが、それでもかつてのジョセフには政治に対する情熱と才覚は人一倍あった。
それが、奴隷を生贄にディーグアントを使って魔物を排除するような政策を嬉々として推し進める愚王と化してしまったのだ。オーソンにはこんな政策がうまくいくとは思えなかった。
ブロランカのような限定的な環境ならばうまくいくこともあるかもしれない。だが、それを大陸にまで波及させて、果たしてディーグアントを制御できるのか。
「酔狂じゃよ。うまくいけば御の字。失敗してもどうでもよいと思っておるのじゃ」
ふぅとヒューストームは悲しむように息を吐いた。
「まぁ、正直、やつの気持ちも分からんでもない。人類が生き残るために、ドラゴンなんて馬鹿げた存在を相手にせねばならんのだ。自棄にもなろう」
「しかし、だからといって――」
「ああ、そうじゃ。この国を奴と無理心中させるわけにはいかぬ。人類がドラゴンに勝利するためにも早急にジョセフの排除が必要じゃ」
「勝てるのか?」
ジョセフにではない。既にジョセフを殺す算段は整っている。あとはグレアムが決断すればよいだけの段階だった。
オーソンが問うたのは「人類の天敵」にである。
「こればかりはワシでも分からぬ。だが、鍵はグレアムが握っておるとワシは思っておる」
隆盛を誇った古代魔国崩壊の原因は<白>の暴発――つまり自滅だと信じられている。
だが、ヒューストームはドラゴンによる攻撃だと考えていた。
当時の古代魔国は竜大陸を人類の手に取り戻すべくアシェント大地峡帯を超えて侵攻していた。
そして、竜大陸の地において上級竜と会敵したのだ。
人類の天敵といえど魔術が通じない相手ではない。
古代魔国の魔術師達は互角以上にドラゴンと渡り合ったと確信している。
だが、そこで何かが起きたのだ。
ヒューストームの予想が確かなら――、そして、ジョセフもまたその真実に気づいたのだろう。
「自分の都合のいいように自分以外を変えていく最強種ドラゴン」
これに勝つには古代魔国とはまったく別のアプローチが必要だ。
例えば――
ヒューストームは足元にいたスライムを拾い上げる。それは突然変異で生まれたというサンダースライムだった。
「ドラゴンとは真逆の存在。変化に応じてその有り様を変えていく最弱種スライム。それをぶつける、とかな」
ヒューストームとて確証があるわけではない。
一種の賭けである。
望みは極めて薄い。
仮にうまくいったとしても、今度はスライムが新たな人類の脅威となる可能性がある。
忘れがちだがスライムもまた"心無き神"によって作られた魔物なのだ。
それでも賭けるしかないほどに人類が追い詰められているのも事実であった。