68 嘆きの妖精 1
―― 三ヶ月前 王国王宮某所 ――
「ありがとう。グニー」
グニーと呼ばれた女性は"妖精王女"こと王妹ティーセ・ジルフ・オクタヴィオ付きの侍女である。彼女は偉大な仕事を完遂した主人のために、彼女の好きなヴィルジニアのお茶を淹れたところだった。
ティーセは香りをしばし楽しんだ後、一口飲んでホッと息を吐いた。
「ようやくここまで来たわ、グニー」
ティーセの二人の兄、ケネットとクリストフの間で起きた王位継承を巡る争い。彼女はそれを食い止めるべく奔走した。二人の兄の陣営、後宮の母や祖母、王国の長老連をはじめとした複数の有力貴族の間を文字通り飛び回り、ようやく明日、ケネットとクリストフの間で会談が設けられることになったのだ。
「もちろん、明日の話し合いだけですぐに和解すると思っていないわ。でも、今の王国の状況は内戦ができる状況じゃない。ケネットお兄様とクリストフお兄様だって本音は戦なんてしたくないと思っているはず……」
それはどうだろうか、と男爵夫人でもあるグニーは思う。あのケネットが今の王国の状況を正確に把握しているとは思えない。クリストフにしても、ここまでのことをしたのだから既に覚悟はできていると考えるべきだ。
クリストフがケネットの屋敷を襲撃し取り逃がした後、クリストフは王城を占拠しようと動く。だが、あのアシュター第一王子が王城の跳ね橋を上げクリストフの占拠を阻んだのだ。無論、ケネットとクリストフは王城を明け渡せと使者を送ったがアシュターは頑として聞き入れなかった。
それからケネットとクリストフの二人はお互いを牽制しあい兵が集まるの待つ。この小康状態を維持している間に何とか穏便に解決しようと、ティーセとアシュターを始めとした王族や貴族、官僚が事態の収拾に動く。いつしか彼らはケネット派とクリストフ派いずれにも属さない良識派と呼ばれるようになり、グニーの夫もそこに所属している。
「…………」
見ればティーセはうつらうつらとしていた。良識派幹部としての激務で寝不足気味なのだろう。
「少しお休みください」
「……大丈夫よ。これぐらいでへばっていたらあいつに笑われるわ」
ティーセの言う「あいつ」とは言わずとしれたグレアム・バーミリンガーである。彼女の父ジョセフを単身王宮に乗り込んで殺害し、その首を晒して王国に不敵な宣戦布告を行った大罪人。
ティーセ自身は気づいていないようだが、最近のティーセは何かとグレアムのことを口にする。だが、その口調は父を殺した憎い仇に向けるものとは少し違うようにグニーは感じるのだ。
あのグレアムに一太刀浴びせて(政治的な理由からそういうことになっている)ジョセフの首を取り戻して王城に帰還してきたあの夜、ティーセを称賛する周囲に比べて明らかに本人は沈んでいた。
「お父様は、ずるいわ」
ポツリとこぼしたティーセの言葉をグニーははっきりと聞いた。意味は分からなかったが、聞こうとは思わなかった。親子の間には感情のもつれが起きるときがある。一方が亡くなれば、残された方が自力で解決するしかない。そのために必要だと思えばティーセが自分から話すだろう。自分の好奇心などとるに足らぬことだった。
それからしばらく、ティーセは王宮で大人しく過ごす日々を続けた。趣味の傭兵稼業を自粛し、本を読んだり神殿で祈りを捧げる姿に、ティーセの幼い頃から世話をしているグニーは目頭が熱くなるのを感じた。
せっかくだからと淑女の嗜みも勧めようとしたところでいらぬ横槍が入る。先王テオドールが八万からなるグレアム討伐軍の総大将にティーセを任命したのだ。
突然のことにティーセは戸惑って返事を保留していたが、王国元帥アイク=レイナルドからグレアムを生け捕りにすることを目的としていると聞いて受けることに決めたそうだ。もちろん、グニーはこの時も、なぜ「生け捕りと聞いて受けた」のか訊くことはしなかった。寝た子を起こす結果になりかねないと思った……。
だが、事態は急転直下を迎える。レイナルドとテオドールの暗殺である。
悲嘆に暮れるティーセにさらなる凶報。それがケネットとクリストフの争いであったのだ。
これに対しティーセは健気にも涙を拭い、二人の争いを止めようと尽力した結果が明日の会談へと繋がったのである。
「無理をしては明日の会談に差し障ります」
「……それもそうね。明日の会談は何としても失敗できないもの」
だが、そこに飛び込んできた者がいた。
「大変です!」
「どうしたのです? ヤン」
それは他ならぬグニーの夫ヤン=ラルフであった。良識派に属する彼が血相を変えて飛び込んできたということは、ただならぬ事が起きたに違いない。
「ケネット様とクリストフ様の兵が――」
「ティーセお嬢様!」
ヤンの言葉を聞き終える前にティーセは窓から飛び出していった。
◇
「どうしてこうなったの?」
薄暗い私室でティーセはヤンに問う。
半月前、王宮の窓から飛び出したティーセが見たものは王都の至るところで兵士や傭兵、さらには魔術師までが争い、炎に包まれる王都の姿であった。
『やめなさい!』
必死に呼びかけるティーセ。だが、ケネット派の徴である黄色を身につける者も、クリストフ派の徴である黒色を身につける者、いずれもティーセに従う者はなかった。結局、ティーセにできることは、逃げ惑う王都の民を誘導し戦火から守ることだけだった。
「レイナルド家の跡目争いが発端です。レイナルドの正統後継者を自称する者たちがポーション製造工場を手に入れようと戦い、それが呼び水となったようです」
レイナルドのポーション製造工場は王国のポーションの四割を供給するレイナルドの主要な財源である。大量に安定してポーションを供給できる工場など他に類を見ない。自称後継者の中で目端が利く者達が工場を占拠しようとし、それぞれ多数の傭兵を送り込んだ。工場の敷地内で鉢合わせた彼らはそこで戦いを始める。時季は冬である。職員が暖をとるための火が争いの最中に飛び火し燃え広がる。
剣戟の音と炎と煙に王都の各所に駐在していたケネット派とクリストフ派の兵はそれぞれ相手が攻撃を開始したのだと勘違いした。ケネット派の魔術師がクリストフ派の在所に<火球>を撃ち込み、クリストフ派の騎士が魔道具で総攻撃の合図を送った。
かくして王都に戦火は広がり、ティーセが駆けつけた時には収拾がつかなくなっていた。もちろん会談など吹き飛んだ。アシュターが率いた騎士団が動かなければ王都が全焼していてもおかしくなかった。王都での戦闘は止んだが、その代わりに戦火は王国中に広がるばかりであった。
ボロボロに崩れていく王国。
ティーセは今、それを直に感じていた。
どうすれば、この国を救える? そう、自問するが答えはなかった。
「いいかな?」
「アシュターお兄様?」
そんな悩むティーセの元に訪れたのは、今や良識派の筆頭と見なされているアシュターであった。