63 終わる世界 3
「先遣部隊より報告! 蟻喰いの戦団の姿は認められず! 橋も無事です!」
馬上で報告を受けたアリオン=ヘイデンスタムは「そうか」とただ短く応じた。
アリオンが率いる一万五千の第二次グレアム討伐軍はクサモまで残り十日という距離に迫っていた。そして現在地点から半日の距離にリーリア橋と呼ばれる幅一五〇メイルのニワリ川を跨ぐ大橋がある。
アリオンの幕僚達は、蟻喰いの戦団はリーリア橋を落とし対岸にガトリングガンとオルガン砲と呼ばれる連射性能と射程距離を強化した魔銃を並べるのではないかと予測していた。
リーリア橋は大陸の主要街道と同じく古代魔国時代に作られている。<破壊不可>がかかった建築物を破壊するのはかなりの困難を伴うが、<魔術消去>を使うグレアムには容易である。
橋を落とされ渡河に手間取る討伐軍に向け<炎弾>の雨を浴びせる。そのように予測するのは当然と言えた。だが、先遣部隊からの報告では蟻喰いの戦団の影も形もなく橋も無事だという。
「肩すかしをくらいましたね」と秘書のチャイホス。
「リーリア橋で布陣してくれていれば楽だったのだがな」
別働隊が別地点から既に渡河済みである。もし、蟻喰いの戦団がリーリア橋で布陣していれば前後から挟撃できた。
「グレアムは軍の動きを察知できるという噂があります。別働隊の存在に気づかれたのでしょうか?」
そんなチャイホスの疑問は半日後に氷解する。ニワリ川の水量が異様に少ない。川床が見えている箇所すらある。これでは橋を落としたとしても歩いて渡れる。
「なるほど。ここで迎え撃つのは難しいと判断したのでしょうな」
例年なら雪解け水で溢れんばかりのニワリ川も暖冬の影響で雪が降らず川への流入が減っているのだろうとチャイホスは推測した。豊富な雪解け水で稲作を行うというこの地方の農夫達には気の毒だが、まず天の運は主に味方しているとみて間違いないだろう。
だが、当のアリオンは厳しい顔をして視線を川の上流に向けていた。
「……何か気がかりなことでも?」
「……うむ」
顎に手をやり何事かを考えるアリオン。そんな中、先遣部隊から急報が飛び込んでくる。蟻喰いの戦団から使者がやってきたという。
◇
「お久しぶりでございます。ヘイデンスタム公爵閣下」
「よくも顔を出せたものだな。ベイセル=アクセルソン」
太陽は遥か西の地平に沈んで久しい。夜営するアリオンの幕舎に訪れたのは先のグレアム討伐軍総大将ベイセル=アクセルソンだった。
「単身乗り込んでくるとは見上げた度胸ではあるがな。散々に生き恥を晒した人間とは思えんぞ」
「……はて、生き恥とは」とトボけた顔。
「言わんでもわかろう。敵の五十倍の兵力を与えられながら一晩で全滅に近い被害を出し、挙げ句の果てに一人敵前逃亡。さらには敵の軍門に降る愚挙。王国貴族の風上にもおけん」
アリオンの辛辣な言葉と幕僚達の冷たい視線がベイセルに突き刺さる。だが、心まで分厚い皮下脂肪に守られているかのように、そのいずれもベイセルの琴線に触れることはないようだった。
「ええ。敵対したにも関わらず、グレアム殿は私を幕僚の一人として加わることを許してくれました。まさに冠銘王シャクナの再来のごとき慈悲深き心。私の目に狂いはなかった」
「よくもまぁ、いけしゃあしゃあと。呆れたツラの皮の厚さだな。他に選択肢がなかっただけであろう」
ベイセルは行軍中にいくつもの村を潰している。当然、問題にならないはずがない。ベイセルとしてはグレアムさえ討伐できれば帳消しにできると思ったのだろう。おそらくその目論見は外れていない。討伐に失敗さえしなければの話だったが。
「王国に戻ればよくて斬首、悪くて奴隷落ちだからな」
ベイセルは【大行進】という軍団全体に効果が波及する特殊なスキルを持っている。おそらく死ぬまで王国軍でこき使われたことであろう。もちろん最底辺の待遇でだ。
「起死回生の手段としてグレアムの傘下に加わるしかなかった。そうであろう」
「いやいや、これは耳が痛い」
そう言いながらもベイセルに悪びれたところは微塵もない。
「腹を割って話せば、今、閣下が仰ったことは決して否定できません」
「…………」
「ですが、グレアム殿の才に惚れ込んだこともまた事実なのです」
「自分の部下を皆殺しにした男にか?」
「軍を壊滅させたのは私の不徳の致すところ。何の申し開きもできませぬ。私が軍を率いてクサモの町に突入した時、頭の片隅に『罠』という言葉がなかったわけではありません。ですが、我が軍は西部戦線で帝国相手に戦い抜いた精鋭。特に配下の騎士五百名はいずれ劣らぬ猛者ぞろい。かの六武王でさえ撃退せしめた実績は閣下もご存知でしょう。町の中にさえ入ってしまえば多少の罠ぐらい踏み潰してみせる。そう慢心しておりました」
「…………」
「今、思えば焦っていたのかもしれません。いくら王国を守っても、かのジョセフ王は私に領地を与えてくださらなかった。長年、私に仕え支えてきてくれた優秀な部下たちに報いたい。その一心で功を焦った」
「…………」
「その部下たちが目の前で一瞬で全滅させられた私の心境を閣下に想像できますか? 今まで信じていたものすべてが崩れ去るようなあの衝撃を。世界が終わるような絶望を。ええ。私はあの瞬間、何としても生き延びたいと思った。このままでは部下たちが犬死だ。何としても生き延びて、部下たちの死に意味を与えなくてはならない。そう考えたのです」
ベイセルの静かだが力強い口調にアリオンは本心を語っているのだと直感した。ベイセルにはベイセルなりの正義があったのは理解した。だが、その正義は――
「……自分語りにきたわけではあるまい。そろそろ本題に入ろう」
「そうでしたな」
コホンとベイセルは一つ咳をした。
「閣下におかれましては、剣を置きグレアム殿に拝謁することをお勧めいたします」
その瞬間、アリオンの幕僚達から凄まじい罵声と怒号が飛び交った。事実上の降伏勧告である。彼らが怒り狂うのも無理はなかった。
そんな彼らをアリオンは片手を上げて黙らせる。
「検討にも値せぬ。しかも拝謁とはな。グレアムは王にでもなる気か」
「はて? これは異な事を。そのおつもりであのお方をつかわせたのでは?」
ベイセルの言葉に疑問符を浮かべる幕僚達。そんな彼らにアリオンは退出を命じた。
「しかし、閣下!」
「構わん。武器もなくスライム除けの香料を充満させているここで、こやつに何かできるとは思えん。それとも、私がこの哀れな負け犬に後れをとるとでも?」
そう言われては退出せざるをえない。部下達の気配が消えたことを確認したベイセルは口を開いた。
「閣下にもお立場があるでしょう。まずは一戦交え、その後に降伏いたすのがよろしいかと。取り次ぎは不肖、私めが――」
「何を言っているのだ、貴様は」
アリオンはスラリと鞘から剣を抜いた。
「は?」
「マデリーネのことを言っているならとんだ勘違いだな、ベイセル。私はグレアムのもとに馳せ参じるつもりだから娘を奴のところにやったわけではない。むしろその逆だ」
「ど、どういうことでしょうか?」
その時、初めてベイセルの顔に焦りの感情が出る。
「私が勝てばそれでよい。だが、万が一、私が負けたとしても、マデリーネがヘイデンスタムの名を残す」
自分もマデリーネも家のための駒にしか過ぎない。
「そ、それは!? それでは聖女様をいたずらに危険に晒すことになりましょう!」
王国軍と蟻喰いの戦団の争いの渦中にいるのだ。命の危険すらある。
「そんなことは私も娘も覚悟の上だ。既に私は王国を見限り、家の存続ためだけに行動している。どうやら、娘から詳しい話を聞いていないようだな。大方、盗み聞きでもして早合点でもしたか?」
図星をつかれたように悔しそうな顔をするベイセル。
「功を焦るクセは治らなかったようだな。それともそれがお前のスキルの本当の代償なのか?」
そう言いながらアリオンは剣を上段に構えた。
「わ、私を切るつもりですかな?」
後ずさるベイセル。
人払いしたのは、死ぬ間際に余計なことを喚くのを懸念したからに過ぎない。蟻喰いの戦団は軍ではなく逆賊である。彼らの正義もベイセルの正義も関係なく、本来なら問答無用で切って捨てるのが正しい対応だ。敵に降ったベイセルがどんなことを喋るのか興味があったので通したが、本来なら彼らとの間で交渉も取引もありえなかった。
「わ、私を殺せばグレアム殿との和解は成り立たなくなりますぞ! 私を殺した者は必ず殺すとグレアム殿は仰っていた!」
「望むところだ!」
ズバシャ!
ベイセルの左肩から袈裟懸けに切り裂いていく。
「ぐふ!」
「誰ぞ出合え!」
アリオンの呼びかけに二人の兵士が幕舎に飛び込んでくる。
剣を振って血を振り払うとアリオンは兵士達に命令を下した。
その翌朝、街道を進む王国軍の先頭にはベイセルの首が掲げられていた。