5 ルイーセ
グレアムがソーントーン伯爵の執務室に入ったのは、屋敷に着いてから二時間後のことだった。
伯爵の屋敷にはスライム避けの香料があちこちに配置してある。
これはグレアムの『スライム使役』を警戒してのことではなく、農村ではよくあることだった。
野良スライムは食料庫の食料と道に撒かれたゴミの見分けはつかない。
貴重な食料をスライムに食べられないために、スライム避けの香料を置いておくのだ。
だから、グレアムは伯爵の屋敷に盗聴用のスライムを配置していない。
だから、グレアムは伯爵に呼ばれた理由がわからないのだ。
孤児院を狙っていたデアンソも食料も扱っていれば、当然スライム避けの香料を置いていたことだろう。
そうであれば、あれほど詳細にデアンソたちの動向を掴めなかった。
そんな益体もないことを考えていると、家令が執務室に入るように促した。
室内には、神経質そうな初老の男とグレアムと同じぐらいの年齢の少女がいた。
初老の男がソーントーン、少女は初めて見る。
透き通るような白い肌に背中まで伸ばした髪はサファイアのような艶と輝きがあった。
「あとはそれに聞いてください」
ソーントーンはグレアムを一瞥すると少女にそう話しかけた。
「わかった」
少女も短く返す。
伯爵と少女の間に流れる空気から、二人が決して友好的な間柄でないことがわかる。
「ついてきなさい」
少女は硬い表情でそう言うと部屋を出ていく。
グレアムは気づかれないほど小さくため息を吐いた。
説明が欲しかったが奴隷のグレアムに質問する権利はない。言葉を発することすら許可なしでは、できないのだ。
伯爵に一礼すると、グレアムは少女の後を追った。
少女はまるで一分一秒でもこの屋敷にいたくないとばかりに足早に屋敷を出る。
「……」
少女が先行し、それを追うグレアム。
二人の間に会話はなく、グレアムはその小さな背中を観察する。
エイグが着けていた鎧とは比べ物にならないくらい精巧な作りの鎧は、かすかに青い光を放っている。何らかの魔法がかかっているのだと思われた。腰に下げた剣も鞘の作りからして相当の業物が収まっているのだと予想できた。
ソーントーンが少女に敬語を話していたところを見ると、上級貴族かそれ以上の階級に属するのではないかとグレアムが推測する。
いつの間にか、二人は海が見える丘にたどり着いていた。
少女は海をしばらく眺めていると、
「お父様の大馬鹿野郎!!! 伯爵のくされXXXXXX!!!」
聴くに絶えない罵詈雑言を叫び始めた。
嫁入り前の女の子が吐く言葉ではない。
ここは自分の耳を塞ぐべきか。
それとも少女の口を塞ぐべきか。
五秒ほど考えて、グレアムはそのままにした。
何やら少女はその小さな背中にそぐわない大きな荷物を背負っているように感じたからだ。
気休めでも吐き出したほうがいい。
そうしてグレアムに見守られた少女は一通り叫び終わると、すっきりした顔で振り返る。
そこでグレアムを見つけ、顔を赤くした。
「い、いたの!?」
回答を求めていると判断したグレアムは言葉を返した。
「ついてこいと言われましたので」
「そ、そう」
「……」
「忘れて」
「努力します」
「名前は?」
「グレアムです」
「歳は?」
「十二です」
「なっ!? わ、私と同じ!?」
「何か驚くことが?」
「……あなたが二の村に来てから二の村では誰も死んでいないと聞いたわ。優秀なリーダーなのでしょう?」
「それは違います。来た当初に一人殺してしまいました。半年前も一人」
「半年前の彼は老衰だと聞いたわ。それを除けば、三年間一人も死なせていない。そんな偉業を成し遂げている人間が私と同い年だから驚いたのよ」
「……」
偉業などと誉められるようなことはしていない。
年齢だって、前世の年齢も加算すれば四十を超えるのだ。
むしろ、この少女やレナのほうが立派だと思う。彼女たちは十二や十三であるにも関わらず、しっかりしていると思う。
この世界の少女たちは皆、早熟なのだろうか。
「私は名前はルイーセ。一の村の防衛長よ」
グレアムの背中に嫌な汗がじっとりと浮かんだ。
嫌な予感が当たったかもしれない。
「質問よろしいでしょうか?」
「かまわないわ」
「防衛長とは? そのような役職はありましたでしょうか?」
「さっき、できたところよ」
「エイグの防衛隊長と違うのですか?」
「村の防衛を第一に行うことを目的にしているわ。本当はエイグを首にして私が防衛隊長になりたかったんだけどね」
「失礼ながら、それは無理でしょう。島の防衛隊のほとんどはエイグの傭兵団の部下です。部下たちが納得しない」
「伯爵も同じことを言ったわ」
「それで村の防衛長ですか」
「ええ。あなたのように、もう一人も殺させない。彼らの多くは農奴にされる理由なんてないわ!
ましてや生贄なんて!」
一の村、二の村にいる人間の多くは、地方領主の課した人頭税が払えなかった平民、もしくは孤児院に入れなかった戦災孤児だ。
そんな人間たちを奴隷商人が捕まえ、この島に連れてきた。
そして、過酷な農作業に適さないと判断された者は一の村、二の村どちらかに配置される。
ディーグアントの生贄にするために。
グレアムには一の村まで見る余裕がない。
グレアムは罪悪感を抑え、一の村の人間を見捨てる覚悟を三年かけて固めた。
であるのに、ルイーセの"もう一人も殺させない"という言葉はグレアムの覚悟を揺るがした。
揺らいだ覚悟はグレアムに動揺をもたらし、言わなくてもいいことを言わせた。
「あなたでは無理です」
「な!? 無礼な!」
ルイーセは再び顔を赤くした。
「謝罪します。失言でした」
グレアムは頭を下げた。
だが、ルイーセは追求をやめなかった。
「思わず本音が出たといった感じね。私があなたより劣るとでも言うの?」
「いいえ、決してそういうわけで言ったわけではありません」
「じゃあ、どういう意味で言ったわけ」
「……あなたに彼らの絶望は理解できない。理解したとしてもどうしようもできないからです」
「それこそ理解できないわ。私が防衛長のなった以上、彼らに絶望なんてさせない。あなたは知らないかもしれないけど私はドラゴンさえ単独で倒したことがある。もちろん、岩竜のような中級竜じゃなく上級竜よ。竜大陸ではディーグアントは竜のエサと聞くわ。そんな私がディーグアントになんて負けるはずがない」
やはり理解していないとグレアムは思った。
これは個人の武勇の問題ではないのだ。
「……いいわ。あなたに協力を頼むつもりだったけど、やめる。私だけの力で彼らを救ってみせる!」
そんなルイーセにグレアムは、
「ご武運をお祈りしています」
本心から、そう言うのだった。