59 彼女の本気 2
―― 十二年前、ヘイデンスタム公爵邸 ――
「間違いないのか? チャイホス」
アリオン=ヘイデンスタムは腹心の部下にそう問いただした。
「はい。旦那様。間違いございません」
石壁一枚隔てた向こう側では氷雪の魔狼が吠え狂うかのように雪が降り積もっていた。魂すら凍らせるような極寒の風がガラスの窓を激しく叩く。
「このことを知っている者は?」
「私と旦那様のみです」
「そうか」
クシャリとアリオンは手元の鑑定紙を丸めると暖炉の火に投げこんだ。
「皮肉なものだな。玉座を諦めた途端にマデリーネが生まれてくるとは」
「せめて、あと一年早く、お嬢様が生まれてきてくだされば……」
それならば、間違いなく王冠はアリオンの頭上に輝いていたことだろう。つくづく自分には運がない。いや、本当に運がないのはマデリーネだろう。その存在を家族と腹心以外には秘匿せねばならない。本当ならば、多くの侍女や家庭教師に蝶よ花よと育てられ、王侯貴族の子女と華やかに交流していくはずであったのに。
「ジョセフ陛下にお嬢様を取り上げられるのを懸念されているのですか?」
「取り上げられるぐらいならまだマシだ。ジョセフならば……、きっとマデリーネを殺すだろうな」
「まさか!? いくら陛下とはいえ、そのような横暴、許されるはずがありません!」
「マデリーネの存在は王権を揺るがしかねない。それほど、あの子が持って生まれたスキルは危険なのだ」
あのジョセフである。最初は面白がってマデリーネを自分の側に置くかもしれない。何せ二六〇年ぶりに顕現したスキルなのだ。だが、マデリーネが生きているだけでジョセフの脅威となる。ジョセフは最終的にはマデリーネを殺すだろう。アリオンがジョセフの立場ならそうする。
「この件は他言無用。今後一切、口にすることも禁じる」
もし、マデリーネのスキルが露見すればヘイデンスタム公爵家は叛意を疑われるだろう。チャイホスは当主の厳命に頭を下げて応じた。
(大地母神マーナよ。私に何をさせるつもりなのだ?)
窓の外に目を向けるアリオン。アリオンの疑問に答えるものはなく暗闇だけが広がっていた。
◇◇◇◇◇
―― 現在、マデリーネとミリーの天幕 ――
「…………」
気づけば寝泊まりしている天幕の中だった。いつの間に戻っていたのかマデリーネには覚えがない。
彼女の頭の中はグレアムの言葉がずっとリフレインしていた。
『素晴らしいな』
『すごい才能だ』
『マデリーネ。小さな子供たち用の教本を書いてみないか?』
マデリーネの作品をそこまで評価してくれた男性はいない。アリオンでさえ、マデリーネの趣味には眉を顰めたのだ。
(グレアム様……)
羽ペンにインクをつけて紙に彼の名前を書き付けてみた。
グレアム
ふと思いたって、隣に自分の名前を書いてみる。
グレアム×マデリーネ
ストンと、パズルのピースがハマるような感覚。
(ああ。そうか。自分はとっくに――)
◇
「日和見どもめ! 時代の趨勢は確実にグレアム・バーミリンガーにあるというのに! まるで分かっとらん!」
グレアムの秘書スヴァンの居室で一時帰還したベイセル=アクセルソンが憤っていた。
はて? スヴァンの記憶では確かベイセルは近隣の領主や土豪に敵対の意思はないことを伝えにいっただけのはずだ。それがなぜ、日和見やら趨勢やらの話になるのか?
「聞きたいか?」
「いえ、結構です」
「つれないな。お悩み相談室とやらを開いておるのだろうに?」
スヴァンは【ロールバック】という死に戻りのスキルを持ち、その代償として他者の秘密を明かせない。グレアムはこの代償の部分だけ公にし、何か悩みがあればスヴァンに相談するようにアナウンスしたのだ。
「ここは一つワシの相談も――」
「あなたの相談を受ける前に、あなたへの相談をどうにかしてください」
「む? やはり、ワシを恨んでおる者がいるのか?」
かつてグレアム討伐軍の将軍であったベイセルは行軍速度を重視するあまり、いくつもの村を潰した前科がある。団員の中にはそういった村の出身者も多い。
「いえ、それは大丈夫です」
俺の顔に免じて許してやってくれとグレアムに言われて大金を渡されては団員も溜飲を下げるしかない。それでも許せない者は団を離れた。補償金を元手に聖国で一旗あげるつもりだと言っていた。
「それよりも、あなたの食べ方が汚いとクレームがきてますよ」
ベイセルは肉でも果物でも一口かじれば床に落とすのだ。おかげでスライムからは好かれているようだが……。
「……なぜ、お前のところに?」
「一応、元貴族様ですからね。直接、言うのは憚られると思ったのでしょう。私も前から思ってましたけど悪癖ですよ。矯正してください」
「むぅ。ワシの貴き行為がわからぬ無知蒙昧どもめ。むしろ、綺麗に食べ尽くすことのほうが強欲なのだ」
「……どういうことです?」
「例えば、リンゴの実が一つ成っているとする。それを猿が見つけて食っても綺麗に食べきることはあるまい。むしろ、一口かじって捨ててしまうこともあるだろうに」
「まぁ、そうですね」
「捨てられた残りの実は無駄になるか? 否、他の動物の糧となる。猿が取って食い尽くさずに捨てるからこそ、他の動物がご相伴に預かれるのだ。大地母神も言ってるだろう。恵みは分けよとな」
「はあ、そうですか。団長に受け入れられるといいですね。その屁理屈」
「待て待て。グレアム殿に伝えるのか? 秘密の厳守はどうした?」
「相談者は相談内容まで秘密にしませんでしたよ」
そうしてグレアムに伝えられた相談内容はグレアムが積極的に解決に動いた。解決が難しければ、その理由と見解を相談者が特定されないように掲示した。
『フィードバックが重要なんだ』とグレアムは言った。
相談を受けたなら何らかの形で返さなければ、無視されているのだと思われてかえって不満がたまる。逆に積極的に解決に動いていることを見せれば組織全体に相談しやすい空気ができあがる。
「風通しのよい職場で結構なことだ」
「ええ。ですからただの愚痴や悪口はご勘弁を」
コンコン
「はい。どうぞ」
ベイセルと軽口をたたきあっていると一人の少女がやってきた。
スヴァンの記憶が確かなら冬の初め頃に戦団にやってきて事務方に入り、なかなか優秀だと評価されている少女だった。
「夜遅く申し訳ありません。ご相談、というかお願いがありまして」
「承知しました。さぁ、ベイセル殿。もう帰ってください」
「むう。つれないやつめ」
少女とすれ違い部屋から出ていこうとするベイセル。そこで足を止め振り返った。
「はて? お嬢さん、どこかでお会いしたことは?」
「……いえ、初対面のはずです」
「そうか。いや、知人の奥方にとてもよく似ておられたのでな」
そう言い残しベイセルは何かを考える素振りを見せて部屋から退出した。それを見届けたスヴァンは少女に椅子をすすめる。
「で、どうしました?」
「実は――――」
マデリーネの話を聞くにつれ、スヴァンの顔には戸惑いと困惑が表れていった。
「それは……、証明する方法はありますか? あなたがそうだと」
「鑑定紙を……、いえ、実際にやってみましょう」
「え?」
―― 三十分後、クサモ郊外 ――
「はあ、はあ」
スヴァンは地面に這いつくばり、全身から滝のように汗が流れていた。
「こ、こんな……」
「大丈夫ですか?」
少女の呼びかけにビクリと顔を上げるスヴァン。大きな月を背に立つ少女を夢うつつのように見上げた。
「お願いがあります。私をグレアム様の側仕えにしていただけませんか?」
ゴクリと生つばを飲み込むスヴァン。敬虔とまでは言えないが、それでもこの世に生を受けてからの二十二年間、マーナ教徒として生きてきた。そんな彼に少女の頼みを断る選択肢など存在しなかった。
「はい。すべて仰せのままに。聖女様」