55 ヘリオトロープ 1
『ヘリオトロープ。私のことはそう呼んでくれたまえ。早速で悪いんだが、君さあ、バカじゃないの?』
グレアムの目の前にある通信用魔道具。開口一番、男とも女ともつかない無機質な声で面罵されたグレアムはこの場を整えたドッガーこと帝国諜報員ドレガンス・エレノア中尉の顔を見ようと振り返る。
ドレガンスは皺だらけの顔を横に反らしていた。
ヘリオトロープと名乗るドレガンスの上司の上司という立場にいる正体不明の人物に、いきなり罵られる覚えは……
「覚えは……、ありすぎて困るな」
例えば、ジョセフ殺し。この国の最高権力者を殺して、さらには宣戦布告までしてしまったことで王国は引くに引けなくなってしまったのだ。もう少しスマートがやり方があったかもしれない。まあ、今となっては後の祭りであるが。
『いや、それじゃなくて』
「……俺がスライム使いだとバラしたことか?」
グレアムはジョセフ襲撃時に自分が【スライム使役】スキル持ちであることを明かしている。あの場にいた近衛兵の生き残りによってそれが伝えられたようで、王国航空部隊とベイセル軍はスライム除けの香料を大量に使用していた。
おかげで王国軍の周りにスライムはいなくなり、躊躇なく王国軍に<炎弾>の雨を降らせることができた。グレアムが使役するスライムが一体でも敵中にいれば、グレアムは攻撃を躊躇ったかもしれない。
もちろん、王国軍からスライムで盗聴できなくなったが、そもそも移動する軍から盗聴するのは現実的ではない。何万体もいるスライムの中から、軍の高官が機密情報を喋っている時と場所をピンポイントで割り出すのは実質不可能である。
『スライムのことはどうでもいい……。君は、この世界の清水宗治になりたいのか?』
(清水宗治? ……確か羽柴秀吉と戦った毛利の武将だったかな?)
「……ああ。言いたいことはわかった。すごいな、あなたはクサモの地形まで把握しているのか?」
『中尉は優秀だよ』
主から直々に褒められたドッガーが少し誇らしげに会釈した。
『今後も好きなように使ってくれ』
「その代わり、こちらの情報がそちらに流れるのは見逃せと?」
『…………』
「まぁいいだろう。実際、中尉のおかげで助かってるしな」
『それならよかった。で、どうする? 東方の雄ヘイデンスタム公爵軍を中核とした一万がクサモに向かって出撃した。諸侯の援軍と傭兵の雇用で最終的な戦力は一万五千に達すると見られている。その地で迎え撃つつもりかい?』
ベイセル軍に比べれば亀の歩みだが、確実にクサモに近づいている武装集団の存在はグレアムも把握している。薬裡衆の情報によれば攻城兵器も揃えているという。
(本腰を入れてきたということか)
今回ばかりは犠牲者無しでは済まないだろうという予感があった。策は弄したが、それでも数人、いや、数十人は死ぬかもしれない。
団員達に対して、幸せになるなら勝手になってくれとは思うが、グレアムのせいで不幸になるのは辛い。いっそのこと逃げようか。今の敵の行軍スピードならクサモに着くのは冬の終わりギリギリである。雪崩にさえ気をつければ山越えできるかも――
「グレアム。イリアリノス連合王国が滅びた」
「!?」
イリアリノス連合王国。人類大陸と竜大陸を結ぶアッシェント大地峡帯、その人類大陸の玄関口に位置する複数の国の連合によって形成された王国である。人類大陸へのドラゴン侵入を防ぐ防波堤の役割を担い、人類最高峰の戦力が揃えられている。
オーソンとグレアムの師ヒューストームも諸国行脚の旅の途上でイリアリノス連合王国において、ドラゴンと戦ったことがあるという。
「正確に言うなら滅びたかもしれないだ。数日前からイリアリノスからの定期連絡が途絶えている」
平静を装っていたがグレアムの内心は激しく動揺していた。もし、イリアリノス陥落が事実ならば、グレアムの計画は破綻することになる。
◇
『最悪だ。君からの報告書を読むたびに、嫌な予感はしていたんだ』
そう言いながらも主の言葉に嫌悪感はない。むしろ、主の機嫌はかなりいいとドレガンスは思った。先ほどの会談でも主には珍しく、こちらから一方的に情報を提供するなど随分と甘い対応をしていた。
「前世でご縁が?」
『ああ、確信した。あの斜め上な思考と言動。間違いなく彼だよ。これも腐れ縁というのかね』
グレアムが主と同じ別世界からの転生者であり、タナカジロウというエンジニアかもしれないと暗号文書で知らされていた。
『計画を見直す必要があるね』
「……グレアム殿一人のために、そこまで必要なのですか?」
主は長い年月をかけて人類大陸制覇の計画を立てた。後は実行に移すだけで十年足らずでこの大陸は主のものとなるはずだった。
『計画は彼が敵になった場合の想定をしていない。彼と戦えば敵対側はたいていロクなことにはならないんだ。その性質は現世でも健在みたいだし』
王都では謎の病が蔓延しつつあり、王位を巡る両王子の争いは激しさを増して戦火は王都から広がりつつある。王国と敵対するグレアムにとっては朗報だが、それがすべてグレアムのせいといえないのではないかとドレガンスは思う。
『彼は運が強いんだ。いっそ呪詛といっていいレベルかもしれない。私は運で百パーセント決まるゲームで彼に勝てたためしがないよ。もっとも、彼は自分の幸運を信じないタチだから、例えばカードのような駆け引きが介入するゲームとかなら勝ち越していたけどね』
自慢気に語る主。もし、グレアムと主が戦うことになれば、自分はどちらに味方すればいいのか。立場を忘れて、そんなことを考えてしまうぐらいにはドレガンスはグレアムに入れ込んでいた。よくない兆候だと思う。
「……イリアリノスの件は事実なのですか?」
イリアリノスを一言で表すならば、流刑地である。
犯罪奴隷や凶悪犯、流民に棄民、そして、強力だがその代償が大きなスキル持ちが送られる。
イリアリノスの価値基準は『強さ』。
ただそれだけである。どんな犯罪もドラゴンさえ倒せば赦される。
『そんな修羅の国が抜かれたとなると、人類に残された時間は思ったよりも少ないのかもしれない』