50 マデリーネ 2
湯上がりの火照った体を夜の冷気が冷ましていく。
クサモの町の一角に設けられた大浴場。この地方、特有の豊富な水資源とグレアム所有の魔道具によって毎日、湯が沸かされる。
元々、神殿での集団生活の経験があるマデリーネだった。平民と同じ湯船に浸かることに抵抗はない。それに特殊な浄化の魔道具を使っているのか、お湯はいつも綺麗だった。
だが、それ以上にマデリーネの心を掴んだのは泳げるほと広い湯船だった。天井を見上げながら足を伸ばせる入浴がこれほど気持ちいいとは知らなかった。
充分に温まった後の風呂上りにはよく冷えたエールや果実水が用意されている。一息に煽ると、それらが歓喜とともに体中を駆け巡るようだった。
そして、休憩所ではスライムベッドが置かれ、コントローラーで操作すると書類仕事で固まった肩や背中に適度な振動を与えてくれる。
マデリーネが蟻喰いの戦団に来てから一週間。大浴場はすっかり彼女のお気に入りだ。
あまりの快適さに今夜もつい長居してしまい、一緒に来たメイシャとエステルには呆れられて置いてけぼりをくらってしまうほどだった。
何でも、風呂に入る習慣がほとんどない戦団メンバーに風呂に入らせるためにグレアムが工夫を凝らした結果らしい。
風呂嫌いだったメンバーに感謝しつつ夜の道を歩くマデリーネだった。
(グレアム様か……)
彼が有能であることは大浴場建設の件でも分かる。おまけに働き者で、彼を見かけるたびに彼は何か仕事をしていた。
さらには意外にも驚くほど容姿が整っていた。貴族の服を着せれば、どこかの貴公子だと言われても納得してしまう。
才能があって勤勉で器量良し。
なるほど、戦団メンバーの独身女性達が騒ぐ理由がよく分かる。
だが、マデリーネはグレアムが怖かった。
単身王宮に侵入し、当時の国王ジョセフ他、百名以上の近衛兵を殺害。さらには王国航空部隊にベイセル軍合わせて四千名以上を返り討ちにしている。
父アリオン曰く、戦えることこそが貴族の証明である。その言に従えばグレアムはもっとも貴族らしいとも言える。
だが、同時に貴族は王家に忠節を誓う。言いかえれば王家に有形無形様々な形で首輪を付けられており、貴族だからといって安易にその力を振るえるわけではないのだ。
グレアムはいわば首輪の付いていない猛獣である。気に入らない相手は容易に首を飛ばせてしまえる。
マデリーネという存在は、ある目的を持った人間にはこの上ない価値を有する。だが、今更ながら、グレアムが自分の価値を認めるのか疑わしくなってきてしまった。彼は既存の常識や概念には囚われない。
グレアムに嫁ぐと息巻いてきたものの、マデリーネはグレアムという異常すぎる存在に臆病風に吹かれていたのだ。
(いけない)
首を振って弱気を振り払う。明日こそグレアムにアプローチをすると決意しても気は重かった。そもそも、同年代の男子と話したことなどないマデリーネである。アプローチといっても何をすればいいのか。
(…………)
気分転換にとマデリーネは厩舎に足を運んだ。ヘイデンスタムの公都からクサモまでマデリーネとペル=エーリンクを運んでくれたヒポグリフ二体を預けている。戦団に自由に使わせる代わりに彼らの世話をしてもらう契約をしているが、それでも一日に一度は彼らの様子を見ることにしていた。
グリフォンほどではないにしろヒポグリフも獰猛な幻獣である。慣れない者に世話は難しい。マデリーネ達が訪れる前から、戦団では一体のヒポグリフを運用していたからあまり心配はしていないが、マデリーネにとって彼らは大切な友人でもある。
「キュルルル」
ヒポグリフの機嫌の良さそうな鳴き声と魔術の光が厩舎の外に漏れている。耳をそば立ててみると中で誰かが作業しているようだ。
そっと中を覗いてみる。
フォークで干し草を持ち上げているのは亜麻色の髪を持った男性でーー
「グレアム様!?」
「ん? 君は確かペル=エーリンクと一緒に来たマデリーネだっけ?」
驚いた。まさか顔と名前を覚えられているとは思わなかった。
「はい。……あの、グレアム様はここで何を?」
「この子たちの世話」
「キュルルル」
グレアムが首筋を撫でるとヒポグリフは気持ち良さそうな声を上げた。
「担当が忘れているのかサボりか知らないが、まだ餌も上げていないようだったから」
「はあ」
だったら担当者を呼び出してやらせればいいのでは? 組織のトップがすべきことではない。
そんなマデリーネの思いを察したのかグレアムは「担当者を待つ間に腹を空かせたままは可哀想だろ」と当然のように言う。
「…………」
言うべきことは済んだとばかりに黙々と作業するグレアム。作業用の前掛けとピッチフォークが絶望的に似合っていない。
居心地の悪さを感じたマデリーネは「あの、私も手伝います」と申し出る。
「ん? いや、いいよ。風呂上りだろ」
「この子たちは私の友人なんです。子供の頃から知っていて、私を乗せて飛んでくれたのもこの子たちが最初で。ぜひ、手伝わせてください」
「それなら」とグレアムは二種のブラシをマデリーネに渡した。
鳥の上半身と馬の下半身をそれぞれのブラシですいていく。
まだ、空を飛ぶ羽根も未熟で前脚にかぎ爪も生えていない頃にもこうしていたことを思い出す。
マデリーネが修行が辛くて泣いていた時、彼らはそっと寄り添ってくれた。
この子達とグレアム様は少し似ているかもしれない。そう思うとグレアムへの怖さは薄れていく気がした。