35 レイナルド家の毒婦 2
「おかえりなさい! あなた!」
アイクを満面の笑みで迎えたのはアイーシャ。アイク=レイナルドの妻である。
「ただいま、アイーシャ」
アイクは彼女の笑顔を見るだけで、疲れが吹き飛ぶような気がした。戦の天才などと持て囃されているが彼女がいなければ王国元帥という重圧に耐えられなかっただろう。
「お食事はどうします?」
「すまないが」
帝国侵攻とグレアム討伐の件で、今夜も王宮で徹夜になることだろう。そのために今から仮眠を取るつもりだった。
「スープだけでもどうでしょうか? 本日は奥様が作られたのですよ」
メイド長がそう勧めてくる。
家事をしないことは上流婦人のステイタスシンボルである。であるにも関わらず、アイーシャは自ら包丁を振るう。もちろん、それはレイナルド家が貧しいからというわけではなく、むしろレイナルド家は王国でも五指に入る富豪である。
アイクの祖父、ダイク=レイナルドは稀代の軍略家であると同時に有能な実業家でもあった。ダイクはポーションの大量生産と安定した品質化に成功し、今では王国で流通するポーションの四割はレイナルド産である。
女主人として料理長の背後に立ち味を見るぐらいなら貴族でも珍しくないだろうが、アイーシャは食材の調達から下拵え、調理に配膳までする珍しい女性だった。アイクは当初、彼女の実家の教育方針かとも思っていたが、これはアイーシャの趣味みたいなものらしい。そして、アイーシャの料理はアイクの舌によくあった。彼女が作ったスープならアイクに断る選択肢はない。
「早く食堂に行きましょう。マイクもあなたを待ってるわ」
「……そうだな」
マイクとはアイクとアイーシャの息子である。来年十三になる……。
◇
アイクは食前の祈りを大地母神に捧げる。その際に親指に嵌めた指輪で中指の指輪にそっと触れた。親指の指輪はかすかに光り、中指の指輪が生きていることを示す。
中指の指輪は毒無効の魔道具であり、親指の指輪は触れた物が魔道具であることを示す魔道具である。グレアムの<魔力消去>により、前王ジョセフは身につけている魔道具が無効化されていることに気づかず毒に犯された。そのことに対する教訓から、アイクは何かを口にする前に毒無効の指輪が生きていることを確認する習慣をつけていた。
「マイク! また、好き嫌いして! ちゃんと食べないと大きくなれませんよ!」
アイーシャは歳の割に背の低い自分の息子を心配していた。彼女が料理を趣味としているのはそれが起因しているのかもしれない。マイクが来年、軍の幼年学校に無事、入学できるかが今のアイーシャの最大の懸念事項となっていた。
アイクは斜め横のアイーシャを挟んで座るマイクに目をやるとアイーシャに優しく声をかけた。
「マイクは頭のいい子だ。体は弱くとも入学に支障はなかろう」
「いじめられないか心配だわ。マイクは大人しくて優しい子だから」
「レイナルド寄子の子弟も来年、何人か入学する。彼らによく言っておくさ」
「ありがとう、あなた! 頼りになるわ!」
アイーシャに感謝され、アイクの心にじわりと暖かいものが広がる。この幸せを守るためなら何でもしてやると思うのだ。
「まぁ、マイク! よく食べたわね!」
いつの間にかマイクの皿が空になっていた。
「坊ちゃまも日々、成長なさっているのでしょう」
マイクの背後に控えていたメイド長が優しい目でアイーシャに言う。
「そうね。あなたもいずれお父様の後を継がなければいけないのだから、いつまでも子供のままではいられないのね」
そう言ってアイーシャはマイクの頭を優しく撫でた。
どこにでもあるような一家の団欒。それを破る怒声が突如、屋敷に響き渡る。
「アイク! アイクはどこ!?」
「…………」
アイーシャは咄嗟にマイクを抱き寄せた。
「……何事ですか? 姉上?」
食堂に姿を見せた年配の女性。彼女の名はオリハ・レイナルド。レイナルド家が抱える薬裡衆の管理者である。
薬裡衆は元はダイク=レイナルドがポーションの製造方法を守るために組織した集団である。
だが、ダイクがポーション販売で得た財源をもとに軍備を整え、軍事的成功を収めていくにつれ薬裡衆の役割も拡大していく。
今では王家の『暗部』のように暗殺、間諜、後方撹乱、情報操作、破壊工作等、汚れ仕事を専門に扱う集団となっている。
そして、幼い頃より有能だったオリハは父により薬裡衆の管理を引き継がされた。いわば、アイクがレイナルドの光ならばオリハはレイナルドの影である。
通称はレイナルド家の毒婦である。