2 グレアムと田中ジロウ
グレアムは、誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
東の窓へ目を向ける。もうすぐ、夜が明けそうだった。
グレアムは小さくアクビを一つすると、他の子供たちを起こさないよう、そっと部屋を出た。物置から背負いカゴを引っ張り出し、孤児院をあとにする。
夜も明けきらぬうちから目指すのは、ムルマンスク郊外の森だ。そこで薪を集める――それが、孤児院でのグレアムの仕事だった。
* * *
グレアムに前世の記憶が甦ったのは、五歳の時。今から三年前のことだ。
ある日、何の前触れもなく唐突に、自分が田中ジロウという名の日本人であったことを思い出した。
(異世界転移、いや、転生というやつか?)
知り合いの影響でその手の知識を持っていた田中は、さほど混乱することもなく、その状況を受け止めた。
だが、齢二十九の精神は、グレアムを取り巻く状況を「好ましくない」と判断した。
まず、グレアムの住処はムルマンスクという中規模の街の孤児院だ。赤ん坊の頃に捨てられたため、両親の顔も名前も知らない。
(ふむ。おかしいな? 異世界転生もののお約束なら、貴族か、最低でも中流階級に生まれるものだろ?)
そう思うものの、現実はこんなものかもしれない、と妙に納得してしまう。いや――読んだ話の中に、恵まれない境遇から始まるものがたまたま無かっただけかもしれない。もっと悲惨な、たとえば奴隷の身分で生まれる主人公だって、どこかにはいるのかもしれないのだ。
(まぁいいか。それよりも、まずは今日の生活だ)
孤児院の財政は、芳しくない。
食 事はほとんど夜だけの、一日一食。硬いパンに薄いスープ、一握りの木の実、たまに干した果物がつく程度。だから孤児院の子供たちは、いつも腹を空かせている。
ここで「異世界転生した主人公」ならば、前世の知識を活かして孤児院の財政を立て直し、子供たちを腹一杯にしてやることもできただろう。
だが、グレアムこと田中ジロウに、そんな芸当ができる知識はない。
正確に言えば、学生時代には持っていた。だが数年の社会人生活のうちに、綺麗さっぱり忘れてしまったのだ。
* * *
そういえば――と、田中は学生時代を思い出す。
あの頃、田中は中村という同級生に、「異世界転移部」なる珍妙な部活へ、無理矢理入部させられていた。
「何をする部なんだ?」
抵抗を諦めた田中は、目の前に座る中村に訊いた。
「前に君に言われて気づいたんだ。異世界に転移したところで、有用なスキルを与えられるとは限らないだろ?」
「まぁな。そもそも、スキルなんてものが存在しない世界に飛ばされる可能性もある」
「だったら、与えられるスキルに期待せず、知識を持ち込めばいい。現代の知識や概念は、それだけで充分チートになりうるんだ」
「なるほどな。マヨネーズは言うに及ばず、すり鉢状に成形することで爆薬の貫通力を上げるモンロー効果……知っていれば役立つ知識は、確かに多い」
「『異世界転移部』は、異世界で役立つ知識を身につけ、"来る日"に備えるための部なんだ」
「……"来る日"ってのは、トラックに轢かれる日か? それとも通り魔に刺される日か?」
「痛いのは嫌だから、強制召喚を希望する」
「死亡コースなら、神様のガイダンスが受けられそうだがな」
「強制召喚コースなら、スキルが付きそうじゃないか」
「スキルがなくても困らないように、有用な現代知識を身につける――それがこの部の目的だろ」
「知識は、あって困るものじゃない。トレーニングだって、目的と意味を理解してやるほうが効果的だ。スキルだって、きっとそうさ。現代知識に裏打ちされた使い方をすれば、何倍も効果を発揮すると思わないか」
「まぁ、確かにな。お前から借りた本にも、そういう話はたくさんあった」
「だろう?」
「だが、いくつか問題がある気がする」
「なんだい?」
「こんな頭のおかしい目的の部を、生徒会がすんなり申請を通すのか?」
「そこは、うまくやるさ」
その言葉どおり中村はうまくやり、「異世界転移部」は同好会という形で発足した。
「ちなみに中村。現代日本より高度な文明の世界に転移したら、どうするんだ?」
「……………………、あっ!」
――ちなみに、この世界の卵は、おいそれとは手に入らない高級品で、火薬は存在しなかった。
* * *
そんな益体もない記憶を反芻しているうちに、グレアムの足は、見慣れた森の入り口にたどり着いていた。
東の空が白み始めている。目覚めた時に感じた、あの呼び声は、まだ微かに尾を引いていた。
(……気のせいか。それとも――)
グレアムは小さく頭を振って、その感覚を脇へ置いた。今は、やるべき仕事がある。
そして、この森でのグレアム――田中ジロウは、ただ薪を拾うだけの孤児ではなかった。




