2 グレアムと田中二郎
グレアムは誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
東の窓に目を向ける。もうすぐ夜が明けそうだった。
グレアムは一つ小さなアクビをすると、他の子供を起こさないようにそっと部屋を出た。
物置から背負いカゴを引っ張り出し孤児院から出る。
夜も明けきらぬうちから目指す場所は、ムルマンスク郊外の森だ。
そこで薪を集める。それが孤児院でのグレアムの仕事だ。
グレアムの前世の記憶が甦ったのは五歳の時、今から三年前だ。
ある日、唐突に何の前触れもなく、自分が田中二郎という名前の日本人であったことを思い出したのだ。
(異世界転移、いや転生というやつか?)
知り合いの影響でその手の知識を持っていた田中はさほど混乱することなく、その状況を受け止めた。
だが齢二十九の精神は、グレアムを取り巻く状況を好ましくないものと判断した。
まずグレアムの住処はムルマンスクという中規模程度の街の孤児院だ。
赤ん坊の頃に捨てられたので、グレアムの両親の顔と名前を知らない。
(ふむ。おかしいな? 異世界転生もののお約束なら貴族、最低でも中流階級に生まれるものだろ?)
と思うものの、現実はこんなものかもしれないと妙に納得してしまう。
それとも、読んだものの中に恵まれない状況で生まれた話がたまたま無かっただけで、もっと悲惨な状況、例えば奴隷の身分で生まれたものもあるかもしれないのだ。
知り合いの中村から勧められたものだけなので、それほど多くも読んでいないのだ。
(まぁいいか。それよりも生活だ)
孤児院の財政状況は良くない。
食事はほとんど夜だけの一日一食。
硬いパンに薄いスープ。一握りの木の実に、たまに干した果物がつく程度だ。
なので孤児院の子供達はいつも腹を空かせている。
ここで異世界転生した主人公ならば、前世の知識を活用して孤児院の財政を改善し、子供達に腹一杯食べさせることもできただろう。
だが、グレアムこと、田中二郎にそんなことができる知識はない。
正確に言うなら、学生時代に知識は持っていたのだが、十数年の社会人生活の中でほとんど綺麗さっぱり忘れてしまったのだ。
学生時代、中村に「異世界転移部」なるものに無理矢理入部させられた。
「何をする部なんだ?」
抵抗を諦めた田中は、目の前に座る中村に訊いた。
「前に君に言われて気づいたんだ。異世界に転移したところで、有用なスキルを与えられるとは限らないだろ?」
「まぁな。スキルなんてものが存在しない世界に転移も考えられるしな」
「だったら与えられるスキルに期待せず、知識を持ち込めばいい。現代の知識や概念はそれだけで充分チートになりうるんだ」
「なるほどな。マヨネーズは言うに及ばず、スリバチ状に成形することで爆薬の貫通力を上げるモンロー効果。知っていれば有用な知識は確かに多い」
「『異世界転移部』は、異世界で役に立つ知識を身につけ、"来る日"に備えることを目的とした部なんだ」
「……"来る日"っていうのはトラックに轢かれる日か? 通り魔に刺される日か?」
「痛いのは嫌だから強制召喚希望」
「死亡コースなら神様のガイダンスを受けられそうだがな」
「強制召喚コースならスキルが付きそうじゃないか」
「スキルがなくても大丈夫なように有用な現代知識を身につけるのがこの部の目的だろ」
「知識はあって困るものじゃないよ。トレーニングだってその目的と意味を知ってやったほうが効果的なんだ。スキルだってきっとそうさ。現代知識に基づいてスキルを使ったほうが何倍も効果を発揮すると思わないか」
「まぁ、確かに。お前から借りた本にもそういう話はたくさんあったな」
「だろう?」
「だが、いくつか問題がある気がする」
「なんだい?」
「こんな頭のおかしい目的の部をだな、生徒会が申請を通すのか?」
「そこは、うまくやるさ」
その言葉の通り中村はうまくやり、同好会という形で「異世界転移部」は発足した。
「ちなみに中村。現代日本よりも高度な文明を持つ世界に転移したらどうするんだ?」
「……………………、あっ!」
ちなみにこの世界の卵は、おいそれと手に入らない高級品で、火薬は存在しなかった。