20 ドラゴンの腹 1
ナッシュは懐から時計を取り出して時刻を確認した。
(そろそろか)
時計の数字は真夜中の二時を示していた。
この時計という魔道具は時刻を正確に知らせるためのもので、ブロランカからの古参組には全員に、新参組でもリーやミストリアといった隊長格に配られていた。
思えばナッシュが貴族の生活に夢見るようになったのは時計が切っ掛けだったのかもしれない。一年が三五一日というのは、ナッシュもどこかで聞いて知ってはいたが、その一日が時間という単位で二五に分割でき、さらに一時間は分という単位で六〇に、一分は秒という単位で六〇に分割できるというのは知らなかった。
ナッシュが時間を知る術は太陽の昇降とそれに合わせて鳴らされる神殿の鐘だけである。つまり、朝と正午と日没。それだけがナッシュの知る時間の単位であったのだ。ところが、脳筋だと思っていたオーソンは一日が二五分割できるということを知っており、あまつさえ時計を普段使いにしていたという。ジャックスもまた職業上の理由から、時計自体は所有していなかったが時間という単位を知っていた。オーソンは元男爵で、ジャックスは元衛兵である。つまり支配階級側にいる者は例外なく時間を知っていたことになる。
口で伝えれば事足りるので、文字には興味は持てなかった。現に貴族階級でも文字を知らない人間は多いと聞く。だが、時間は別だった。
信心深い方ではないが、一応ナッシュは神様の存在を信じている。そしてこの世界は神様が作ったということも。その神様が作った世界を、時間という杓子定規にあてはめて分割する行為に傲慢さを感じ、その傲慢さに興奮を覚えたのだ。
それは降り積もった新雪に最初に足跡をつけるような快感に近いものだったのかもしれない。そして、その足跡をつける側に自分もなりたいとナッシュは思った。思ってしまったのだ。そのためには支配者側に立つ必要がある。もちろん、ジャックスのような使われるだけの衛兵ではなく貴族となって自分でルールを決める立場になりたい。
だから、ナッシュはグレアムを王国に売ることにしたのだ。
◇
「ほ、本当にやるんですか?」
青い顔をして震えるヘンリク。
クサモ領主の寝室。そこにグレアムは今、眠っているはずである。その寝室の前にナッシュとヘンリクはいた。
グレアムの警備は基本二人体制で三交代。その二番目にナッシュとヘンリクは今夜、立候補していた。
「お、俺たち二人だけで? ほ、他に仲間はいないのですか?」
無茶を言う。ナッシュの見たところ、ブロランカからの古参組は大なり小なりグレアムの信奉者である。他に漏らせば、たちまちグレアムやオーソンの耳に入る。万が一、ミリーの耳に入れば、<炎弾>がナッシュとヘンリクの頭を貫くことは間違いない。
「獣人どもは? 百人もいるんだ。グレアムに反感を抱く奴がいたって不思議じゃないしょう?」
「どうだろうな」
獣人は大抵、オーソン以上の脳筋である。グレアムに命を救われ、美味い飯をたらふく食わせてもらえる。王国航空部隊を壊滅させることで、勝てる強いリーダーであることも示した。そして、昼間の大勝利である。全員がミリー並の信奉者になっている可能性の方が大きい。
「リーはどうです? あいつはまだ加わって日が浅い」
元傭兵にして元王国八星騎士という異色の経歴を持つリー。悪い人選ではないとナッシュも思う。奴の【危機感知】スキルは便利だし、何より他の連中と違ってリーはグレアムを警戒しているフシがある。だが、ナッシュはブロランカを脱出した夜のことを思い出す。
『おい、ちょっと待て! そんな面倒なこと俺に頼むな!』
ヒューストームが白炎を防ぎきった後、意識を失う直前にリーに何かを囁き、囁かれたリーはそう返していたのをナッシュは聞いた。
当初、グレアムへの言伝かと思ったが、それだけで「面倒」という言葉を使うだろうか。現にグレアムと合流後、リーがヒューストームの最後の言葉をグレアムに伝えている様子はなかった。ナッシュの勘ではヒューストームからの「面倒な頼まれごと」とはグレアムに関することではないかと思っている。あの白炎が起きる前にヒューストームとリーがグレアムについて話をしていたからだ。内容までは聞き取れなかったが。とにかく、その「面倒な頼まれごと」の内容によってはリーがグレアムを裏切ることはないかもしれない。リーという男は義理堅いとナッシュは見ている。ヒューストームに命を救われて、その最後の頼みを無下にするだろうか。
いずれにしろリーを仲間に引き込むのは博打である。何より分け前が減るのがいただけない。それにだ――
「問題ない。俺たちだけで十分やれる」
オーソンは【気配感知】スキルでグレアムの命を狙ってきた暗殺者を何度も撃退している。オーソンはいわば最強の護衛者だ。だが、仲間までオーソンは警戒するだろうか。ましてやグレアムの今夜の警護にナッシュとヘンリクがいることはオーソンも知っている。まず、間違いなくスルーする。
そして、さらに――
ナッシュはグレアムの寝所への扉をそっと開けた。扉の隙間からグレアムの様子を伺う。まるで死んだように眠っていた。
グレアムはクサモの町に入ってから不眠不休で作業していた。朝は魔銃の射程距離を伸ばす魔道具作成に没頭し、昼は町の打ち捨てられた鍛冶場でドッガーと車輪のような何かを作り、夜はオーソンを伴って町の外で"地雷"を埋めていた。ろくに眠っていなかったに違いない。目の下のクマがひどかった。そして、王国軍に勝利した今夜、グレアムの気は完全に緩んでいる。泥のように眠っているのがその証拠だ。今夜が最大のチャンスなのだ。
次の交代まで残り三十分をきった。
「やるぞ。お前は誰かこないか見張っていろ」
「だ、誰かきたらどうするんです?」
「そんなもん便所だとでも言え」
気の利かない相棒に苛つきつつ、音もなくナッシュはグレアムの寝所に入る。
ナッシュの影がグレアムの頭を覆う。本当によく眠っている。
グレアムが犯罪奴隷としてブロランカに送られることになったのは、眠っている傭兵を殺したからと聞いたことがある。ならば逆にグレアムが眠っている時に殺されても文句はいえまい。
("因果応報"というやつか? まぁいい。悪く思うなよ。俺の出世のためにお前の首が必要なんだ)
ナッシュは振りかぶった斧をグレアムの首に叩きつけた。
◇
「よう。何か異常でもあったか?」
「何も。静かなもんさ」
「まぁ、そりゃそうか。暗殺者でもくれば、いつぞやの夜のようにオーソンが飛び出してくるだろうからな」
「全裸で」
「あれは傑作だったな……、どうした、ヘンリク? 顔色が悪いぞ」
「ああ、どうやら風邪をひいたみたいでな」
「おいおい、ガキなのに夜更しなんかするから。警備は大人に任せておけよ」
「それを言うなら我らがリーダー様もそうだろ」
「ははっ。あの人は見た目はガキでも中身はドラゴンだ」
「そのドラゴン様も流石に堪えたらしい。もうぐっすりで、いびき一つ聞こえてこない」
「……そうみたいだな」
「俺たちも疲れた。休ませてもらうぜ。ほらいくぞ、ヘンリク」
グレアムの寝所を離れたナッシュとヘンリクはその足で館の外に出る。グレアムの二階の寝所の窓の下に来ると、ナッシュがカーテンを引き裂いて作ったロープで窓から下ろした荷物を見つけだした。
シーツに包まれた丸い物体。シーツを解くと、そこからグレアムの首が出てきた。