8 王国逃避行3
「くしゅん!」
グレアムはくしゃみした。季節は秋に差し掛かった頃である。それと同時に温暖なブロランカから北に移動しているため、大きな気温変化の影響で体調を崩しつつあるのかも知れない。グレアムは蟻喰いの戦団メンバーに暖かくして眠るように伝えることにした。夕食も暖かく精のつくものにしたい。目的地はまだ遠い。ここで風邪でもひかれては困るのだ。
実は治癒魔術の<病治癒>は風邪には効果がない。
魔術は科学のような技術体系の積み重ねである。伝説の魔法のように望めば何でもできるようなものではない。病の治癒にはその原因を特定し、それに適した魔術式を作成する必要がある。
例えば麻疹であれば、その原因となるウィスルは一つなので、その対応魔術式も不変で済む。だが、風邪の場合、原因となるウィルスの数が多すぎるのだ。およそ数百種類、さらにウィルスごとに百種類いるという。
また、インフルエンザウィルスのように変異しやすいものもアウトである。
「あー。前世では毎年、インフルエンザウィルスのワクチン打ってましたからね」
「ワクチン? 何じゃそれは?」
ブロランカにいた時、ヒューストームから治癒魔術について講義を受けていたときにそんな会話をしたことをグレアムは懐かしく思い出す。ウィルスや細菌のような病原体の存在は古代魔国時代に発見されたが、ワクチンというのは初めて聞いたそうだ。
聡明なヒューストームはすぐにその概念を理解し、弱毒性のウィルスをわざと感染させて、体内に抗体を作るという考えに感銘を受けたようだった。<病治癒>は、その原因となるウィルスや細菌を消失させる。病にかかったことを無かったことにするのである。
「なるほど、では<病治癒>では病原体を全て消さん方がいいというわけか。そうすれば体内に抗体ができ、同じ病気にかかる心配がなくなると。うーむ、抗体を魔術でコントロールできないか研究してみたいのぅ」
「そうしていただければ助かりますね。前世では花粉症に悩まされましたからね」
「む? また、知らん単語じゃ。なんじゃそれは?」
グレアムは抗体が暴走することで過剰に体の防衛機構が反応して、かえって体を傷つける現象があることを説明した。
「むぅ。まだまだ、世の中には知らんことが多い。これはまだまだ死ねんのぅ」
そう言って笑っていたヒューストームは、ブロランカから脱出後、一度も目を覚ますことなく眠り続けている。
◇
<魔力変換>
ある特定のものを魔力に変換する魔術である。その魔術式は<白>にも組み込まれ、古代魔国で<白>が暴発した際に、被害を拡大させた要因である。
ヒューストームたちがブロランカからディーグアントに乗って脱出したあの夜、<白>の炎は彼らにも容赦なく襲った。それに対し、ヒューストームは一人、敢然と立ち向かう。
広範囲に展開した<魔術消去>で白炎を防いだのである。だが、ヒューストームは王国によって魔力のほとんどを封印され、残った少ない魔力も昼間、幻影魔術の行使で消費していた。
それを補うためヒューストームは<魔術消去>と同時に<魔力変換>を展開する。変換元はヒューストーム自身の生命力である。
見る見るうちに消耗していくヒューストームに、もう駄目だとリーが思った瞬間に白炎は止んだという。
九死に一生を得た彼らは、倒れて意識を失ったヒューストームを抱え、グレアム達と合流したのである。
◇
「では、頼む」
眠り続けるヒューストームに毛布を追加で被せた後、ヒューストームの世話をしてくれている獣人の女性達にそう言ってグレアムはテントを出た。
(やはり、うまくいかなかった)
完璧な計画など存在しない。必ず不測の事態が起こる。だからこそ、グレアムは脱出計画のみ遂行しようとしていたのだ。グレアムが同行していれば、ヒューストームに命を削るほどの魔術を使わせることもなかったはずだ。
だが、ティーセと出会ったことで、ジョセフを殺した後も無事に戻れる保証ができた。彼女なら無限回廊を通過できるし、【妖精飛行】で素早く王国軍のいない場所にグレアムを運ぶことができる。
ジョセフを殺したいという欲望に負けたグレアムは、結局、すべての計画を実行に移すことにした。
それがこの結果である。
誤算はまだある。『暗部』の存在だ。グレアムの<魔術障壁>をかいくぐって四肢を切断する攻撃など想定外だったのだ。もし、何かの間違いで首を落とされていたら、そこで終わっていたかもしれない。
「……首か」
グレアムは自分の首を触る。首を切断されても即死することはないという話だが本当だろうか。ギロチンで首を落とされたとある学者は即死説を否定するため、切断後も可能な限り瞬きを続けると宣言し、実際に一分間は瞬きを続けたという。
都市伝説っぽいとグレアムは思う。脳に酸素の供給が数秒止まるだけで意識を失うのだ。首を切られれば失血のショックで急速に意識を失い、そのまま死に至るような気がする。
ちなみに『暗部』に四肢を切断されてもグレアムがショック死しなかったのは、ヤマト達が即座に治癒魔術をかけ血の流出を最小限に抑えてくれたからだ。ヤマト達は亜空間にいたので展開した魔術式を見られることなく、秘密裏に魔術を行使できた。
『暗部』はグレアムが完全に無力化されたと思い込み、ジョセフとソーントーンの戦いに意識がいっているその隙に、グレアムは謁見の間の影に潜ませていた毒スライム達に毒を放出するように命じたのだ。
(やはり、今思うと結構ギリギリだったな)
かなり運に助けられたようにも思う。軍トップのレイナルドはブロランカに行き不在。一部の王国軍精鋭も帝国を警戒し国境に張り付いていた。もし、彼らが揃っていればグレアムは生きて戻れなかったかもしれない。
そう思う根拠はジョセフである。彼はヒューストームやオーソンがブロランカで生き延びることに執着していなかったように思う。二人が死ねば、彼らのスキルが使えなくなるにも関わらず。
スキルだけ見ればジョセフにとってヒューストームやオーソンは失っても痛くない人材だったのかもしれない。他の有用なスキル持ちがまだ王国には控えている。それがレイナルドや一部の王国軍精鋭だった可能性がある。
"王国、恐るべし"
それがグレアムが王国と実際に戦って得た感想であった。