1 黒い太陽
評判の悪い過去回想はなるべく無いようにします。(二章も改稿時に修正します)
といいながら、また過去回想からです。すみません。
「はぁ、はぁ、はぁ」
伊藤沙亜夜は大きな岩にその小さな背中を預けた。少女の体から流れる汗で岩はたちまち湿りを帯びる。
少女は空を見上げた。
(ここはどこなんだろう?)
少女が生を受けてから七年、それは一度も見たことのない空である。
灰色の空に、決して沈むことのない黒い太陽が天空を支配し、暑くもなく暖かくもない陽射しが岩と砂だらけで起伏の富んだこの場所に降り注いでいる。
少女は気づいたらこの場所にいた。そして、ある大人の男に出会う。
「運が悪かったな」
グレーの背広にネクタイを締めたその男はタナカジロウと名乗る。
沙亜夜は恐怖に駆られ逃げた。
…………
ジロウの姿を探すため、沙亜夜はそっと岩陰から顔を出す。
彼が沙亜夜の近くまで来ているなら隠れ場所を変える必要がある。
ジロウの話では、かつてここには沙亜夜以外にも多くの子供たちがいたという。
だが、今は沙亜夜しかいない。見つかれば終わりだった。
(…………いない)
ジロウはおそらく別の方向に探しにいったのだろう。ホッと安心するのも束の間――
「沙亜夜、見つけた」
「!」
沙亜夜の背後から太い男の声がした。
振り返れば、タナカジロウ。少女の沙亜夜よりも倍近い身長。その大きな体をジロウは――
沙亜夜に背を見せて一目散に走り出した。
「ああん、もう!」
それを追って沙亜夜も岩陰から飛び出して走り出す。だが、少女の足で大人の男に追いつくのは難しい。たちまち距離が離される。
やがて、ジロウは所定の場所に置かれていた石に触り「沙亜夜、ぽこぺん!」と叫んだ。これで沙亜夜の負けが確定する。
沙亜夜と田中二郎が遊んでいたのは「ポコペン遊び」という一種の缶蹴りである。鬼の役を一人決め、鬼が目をつぶって百数えている間に他の子供たちは隠れる。数え終わった鬼は子供たちを探し、見つけたら見つけたことを宣言し、所定の位置に置いてある石に触って「〇〇、ポコペン!」と叫ぶ。これで見つけられた子供は捕虜となる。ただし、「ポコペン!」と叫ばれる前に、石を蹴るか投げ飛ばせばセーフとなる。
正式なポコペン遊びとはいくつか違う点があるが、参加者が二郎と沙亜夜だけの二人だけでも遊べるように改変した結果であった。
「もう! ジロウさん、もっと手加減してよ!」
「む。すまない。つい……」
二郎はバツが悪そうに自分の頬を掻いたのだった。
◇
沙亜夜と手を繋いだ田中二郎は対岸が見えない大きな川が流れる土手に移動した。
そこに二人、腰を落ち着ける。
二郎はお菓子とジュースを思い浮かべると、それらが手元に現れる。まだ、欲しいものをうまく思い浮かべることができない沙亜夜に渡すと、少女は美味しそうにそれらを食べ始めた。
つくづく不思議な世界だなと田中二郎は思う。
田中二郎がここに来てから結構な時間が経ったと思う。太陽は沈むことなく、それほど腹が減るわけでもなく、眠たくなるわけでもないので正確な時間を計ることはできないが、体感としては半年ほどだろうか。
その間、田中二郎は子供達のように消え去るわけでもなく、川を渡ることもなく、ここに留まり続けている。
ここで知り合った知人の話では、現世では大きな川は「サンズの川」と呼ばれ、ここは「サイの河原」というらしい。
「三途の川」、「賽の河原」。なるほど、ここは地獄の入り口というわけか。
現世で命を落とした亡者達は三途の川の向こう側にいる閻魔様に裁かれ、親より先に命を落とした子供たちは賽の河原で石を積む。
ただ、地獄も人手不足なのか、本来、子供達が積んだ石を鬼たちが崩すのがお約束なのだが、鬼は時々しか賽の河原に現れず、なぜか田中二郎に子供達の世話を任せる始末である。
とはいえ、世話といってもそれほどの手間がかかるわけでもない。先ほど述べたように腹はあまり減らないし、怪我をしてもすぐに直ってしまう。親と死別して寂しさで泣く子供達を慰め、気を紛らわせるのがせいぜいであった。
そして、それも永遠に続くというわけでもない。時折、賽の河原は暖かい光に包まれ、気づいた時には子供達はいなくなっている。
知人の鬼は教えてくれないが、もしかするとあの光が地蔵菩薩による救済なのかと察すると、自然と田中二郎は手を合わせたくなる気持ちが芽生えた。
そして、沙亜夜がやってきたのはその地蔵菩薩の救済直後のことである。もう少し早ければ皆と一緒に逝けたかもしれない。少女の運の悪さに田中二郎は少し同情するのだった。
◇
「さ、沙亜夜か?」
二郎と違う大人と男の声に沙亜夜が振り向くと、沙亜夜は「ひっ!」と恐怖の声を上げた。
沙亜夜は二郎にしがみつき、その小さな体を震わせる。
二郎は自分よりも頭一つ分大きいその男に対峙した。
「誰です?」
「おまえこそ誰だ!? 俺はその子の父親だ!」
今でこそ沙亜夜は二郎と仲が良いが、当初の沙亜夜は二郎を恐れた。二郎が沙亜夜を決して傷つけない存在と分かってくれるまで結構な時間を必要としたのだ。
その原因を二郎は理解したように思った。
「そうですか。それで、この子に何か用ですか?」
「沙亜夜、一緒にいこう! それで、沙亜夜とお父さんは仲良くやっていたと言ってくれ!」
二郎の頭に「虐待死」という言葉が浮かんだ。
この男は今更、死なせた子供に自分を弁護させようというのか。呆れた面の皮の厚さである。
「無理です。この子はあの川の向こうに逝けません。逝くなら一人で逝――」
二郎の目の前に星が飛んだ。殴られたのだと気づくのに数秒かかる。体格からして生前は格闘技でもやっていたのかもしれない。
「うるせぇんだよ! 俺のガキを俺がどうしようがお前に関係あるか!」
バキャ!
男の追い打ちに二郎は地面に倒れた。それを男は踏み越え、沙亜夜に手を伸ばす。
「さぁ、沙亜夜。一緒に――」
男の足が止まる。二郎が鼻から血を流しながら、男の足を掴んでいた。
「邪魔すんな!!」
「グフッ!」
男の大きな足が二郎の胸を踏み潰す。肋骨が何本も折れる音が響いた。生ある世界ならば絶命していたかもしれない。男の躊躇のないその一撃に、男は暴力の世界に日常的に身を置いていた人間だと二郎は理解した。
激痛に二郎は悶えたが、男の足だけは離さなかった。
「ぶっ殺されてえのか!?」
「あほ。殺すも何も俺たちはとっくに死んでいる」
その言葉が完全に男に火をつけたようだった。
情け容赦のない暴力が二郎に降り注ぐ。それでも命と意識を失わない二郎は、なるほど、この苦痛がほぼ永遠に続くかもしれないなら、この男も必死になるなと妙に納得する。
男の暴力に二郎はただ耐えた。生前ならば何らかの方法で逆襲の方法を考えたことだろう。だが、今の二郎は子供達の世話係で、二郎の怖い姿を沙亜夜に見せたくなかった。
それに、もっと怖い存在が、ここにはいる。
「何をしているタナカジロウ?」
「…………遅いですよ、暁さん」
馬の面を側頭部にくくりつけ、腰まで届く長い黒髪をポニーテールにした美女が、いつの間にか二郎と男の傍に立っていた。
美女の突然の出現に一瞬ギョとした男は、暁の相貌を確認すると途端に顔を崩した。
黒い着物を着崩してはだけた美女の肩は、まるで上質の絹のようで触れれば得も言えぬ快感を感じられることだろう。
「地獄に仏ってやつか!」
無造作に男が暁の胸に手を伸ばす。だが、その手はグシャっとまるで腐ったミカンのように彼女によって握り潰された。
「は? はぁぁぁあああ!?」
失った手の先を見つめ男が悲鳴をあげる。
「お、おめえ、何しやがる!?」
男は前蹴りを放つ。暁は片手で男の足を難なく掴むと、まるで男が藁か何かでできているかのように男を振り回し地面に叩きつけた。
「ごぶ!」
さらに暁は二度、三度と叩きつける。
完全に男が抵抗の意思を見せなくなると「さっさと渡れ」とポイと川の方に投げ捨てた。
「ぐふっ! て、てめぇ。俺を誰だと――」
「知らん。さっさと逝け」
氷つくような表情で男に告げる暁。その言葉に呼応したかのように川から無数の黒い手が伸び、男を掴んだ。
「へぁ?」
間抜けな声を上げる男を黒い手が川に引きずりこんでいく。
「い、いやだ! お、俺は地獄なんかにいきたくねぇよ!」
「それを決めるのはお前ではない。何、地獄もそう悪いところではない。お前が永劫に苦しむ姿を地獄の獄卒が見守っている」
「ああああああああ! いやだぁぁぁぁあああ!」
絶叫とともに男は三途の川に沈むのだった。
◇
「助かりましたよ。暁さん」
二郎は暁に礼を言った。怪我はしばらくすると自然に全快した。
彼女は地獄の極卒――馬頭鬼の暁である。馬の面を頭にくくりつけただけで馬頭鬼と呼んでいいのか二郎は大いに悩むところであったが、あの世にはあの世のルールがある。ここは大人の対応が必要だろうと二郎はスルーすることにしている。
「ふん。別に貴様を助けたわけではない。彷徨い歩く亡者を導くのもわらわの務めよ」
それよりも、と暁が目線を川に向ける。
「ああ、はい」
二郎は未だにしがみついて震える沙亜夜を暁に託し、三途の川に近づいた。
しかし、一定の距離からどうしても進むことができなくなる。恐怖で足が止まるとか二郎の心理的な理由ではない。まるで見えない壁があるかのように何かに阻まれ進むことができなくなるのだ。
これは暁の手を借りても同じことだった。当初、暁は二郎の言葉を信じず、無理やりにでも川を渡らせようとした。結果、潰れた死体ができただけであったのだ。
以来、こうして田中二郎は地獄にも極楽にも逝けず、この賽の河原に留まり続けている。
「まったく、どうなっているんだ!」
憤慨する暁。それこそ二郎が訊きたい。
「亡者が川を渡れないなど、そんな前例、聞いたことがない! お前、一体、何をした!?」
「うーん。何でしょう?」
確かに生前、良いことしかしなかったわけではないが、それでも地獄すら生温い罪を犯した覚えもない。――はずである。
「はぁ。まぁいい。今いる子供はこの子だけか?」
「はい」
沙亜夜を暁が抱き上げる。まるで羽毛でも持ち上げるかのように重さを感じさせない。聞けば、地獄の極卒に人間はいかなる方法でも傷つけることはできず、極卒から与えられる傷はいかなる方法でも防ぐことができないという。
「ちゃんと積み上げたのだろうな?」
「もちろんですよ」
二郎は暁を伴って土手から砂地に移動する。そこには長方形の石が縦横に三つずつ交互に積み上がったタワーがあった。長方形の石は二郎が思い浮かべて出した。それを沙亜夜と二人で積み上げたのだ。
「よし」
暁はそっと沙亜夜を地面に下す。大人の女性に抱きしめられたからか、いつの間にか沙亜夜の震えは止まっていた。
暁は静かにタワーに近づくと、真ん中の長方形の石を指でそっと押し込む。すると反対側から押し出された石をそっとつまみ、一番上に置いた。
積み石ジェ〇ガである。
二郎と沙亜夜も同じようにして石を抜いて、上に積み上げていく。
しばらくして、沙亜夜と二郎よりも不器用な暁が石を崩してしまう。
「これで百二十八連敗ですね」
その言葉に暁は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
◇
そうした二郎と暁の奇妙なつき合いは、そこそこ長いものになった。その間、子供達の顔ぶれは何度も入れ替わる。それでも二郎だけは、どこにも逝けず賽の河原に留まり続けた。
それはある日のことである。ふとしたタイミングで二郎と暁の二人だけになった。
いつものように土手に座り川面を見つめていた二郎は、隣に座った暁に呼び掛けられる。
振り向いた二郎の唇に暁が唇を押し付けた。
当然、ただの人間である二郎に鬼の仕業を避ける術はない。否、そもそも避ける気も起きなかった。
二郎はそっと暁の背中に両手を回した。思ったよりも小さな背中に二郎の心に愛おしさが込み上げてくる。
重なり合う二人を黒い太陽だけが見ていた。