~花の秘密~
コポ、コポ、コポ…と雨の重なる音がした。
我先に流れ出ようとする雨粒が地面を這い、側溝に落ち、渦を巻いていた。
カエルだかコオロギだかの虫たちが、人間が姿を消した安全な世界で
自分たちの営みを伸び伸びと繰り広げていた。
「お母さん待ってぇ…待ってよぉーお母さーん…」
雨の音はいつの間にか私を眠りにつかせていたらしく
私は自分の声で目を覚ました。
母はいつも自分を見せない人だった。何が本当で何が本当でないのか、
植物以外何に興味があって一体自分の人生、何の為に生きているのか。
いつも身綺麗で笑ってはいるけれど何に情熱を傾けているのか、
ただ父や私たちの帰りを待っているだけのような日々で、本当にそれで
楽しいのだろうか?と疑問視する時もあった。
だが、夢の中に出てきた母は私たちを一瞥すると、きれいな花柄の
ワンピースの裾を翻してくるっと向きを変えると風の中に消えていって
しまった。
私は目覚まし時計に手を伸ばし、時間を確かめると枕元の灯りをつけて
上体を起こした。机の引き出しにしまっておいたあの桜の模様のボタン
のことが気になり、そっとまた引き出しを開けて“一体なんだろう?”と
灯りにかざし見入っていると、そこへ突然大きな 物音がして「キャー」
という声が聞こえた。
私は恐怖と驚きでいっぱいになりながらも恐る恐る部屋のドアを開けると
意識を耳に集中させた。するとガタンともう一度物音がして、いよいよ
我慢しきれなくなった私は勇気を出して部屋の外に出た。
階段の方を見ると階下に明かりが見え、私は一歩ずつそちらの方へ
近づいて行き、階段の手すりに手をかけ、そして耳を澄ました。
「お母さ、ん?…」
私は気になっているもののやはり怖くて、その場から一歩も動くことが
できず、結局また部屋へと戻ってしまった。
翌朝、少しの心配を抱えながら下へ降りて行くと、母は
いつもと変わらぬ声で「おはよう」と言った。
“なんだ何も心配することなんかない、何もなかったんだ”
と自分を安心させテーブルに着いた。朝ご飯を食べている間
何度かチラチラと父や母の様子を伺ったが、特段いつもと
変わった様子はなく、胸を撫で下ろしていると
「旅行は来週の連休に決まったぞ。二人共ともいいな、」
と父が言った。
「えっ本当?うん、ヤッター。」
私はさっきまでの心配も忘れてはしゃいでいた。
「ねえお母さん、花火やるでしょ、今日買いに行こうよ。
それからスイカも。向こうでスイカ割りするの、いいでしょ。」
「スイカ?スイカはもっと後ででもいいだろ?」
父が私をたしなめるようにそう言うと、皆んなはクスクスッと笑った。
出勤する父の後を追って
「ねぇお父さん、今日も早く帰って来てね。」
と声をかけると
「ああ、わかったよ。茉莉の為に早く帰って来るから。」
と父は私の頭を撫でて靴べらを手渡した。
「いってらっしゃい。いってらっしゃーい」
私はサンダルをつっかけて外へ飛び出すと車の中の父に手を振った。
父はそれを見ると窓を開けて嬉しそうに手を振り返し微笑んだ。
私は上機嫌で家に戻り、自分の部屋へと駆け上がり、
旅行で着る服をあれこれ物色していると洋服箪笥の引き出しから
一通の封筒が出てきた。
「何これ?」
私は興味津々で中を覗き込むと封筒を逆さにしてトントンっと
底を叩いた。すると床の上にスーッと何かが落ち、拾い上げて
見るとそれは押し花にした桜の花びらだった。
確か2年位前に皆んなでお花見をした時に桜の花びらがひらひらと
降りてきたのを見た母が
「綺麗だから押し花にすれば?」
と言って持ち帰ったものだった。
“そういえばあの時は確か叔父さんも珍しく参加していたなあ”
母は数ある花の中でも桜の花が大好きで、その季節になると
いつも嬉しそうにしている様子が印象的だった。
「桜…」
私は花びらを手のひらに乗せ、思い出に浸っているうちに
忘れていたあのボタンのことをふと思い出した。
「桜…さく、ら」
「茉莉ちゃーん」
ぼんやりと二つの桜のことを考えていると母の声が聞こえ、
私はまた慌てて押し花を封筒に戻し、引き出しの中に入れた。
「茉莉ちゃん、花火買うんでしょ、あと一時間くらいしたら
買い物に出かけるから、その前に宿題でも済ませちゃいなさい。」
母はドアを開けると私にそう言った。
「早く、早くぅ」
私は笑ってついてくる母を尻目にスタスタと花火コーナーまで
早歩きで行くと、すぐさま花火を物色し始めた。
「ねえお母さんこのくらい大きいの持って行こうよ。せっかく
だから…それに」
「探し物はあったかい?」
私は突然かけられたその言葉に反応して声のした方を見た。
「叔父さん?…」
なんとそこに立っていたのは智叔父さんだった。
「叔父さんどうしたの?」
とそこへ母がやって来て、私が母の方に視線を移すと叔父さんも
振り返り母に会釈をした。
「…智さん…」
母は一瞬戸惑っているようにも見えたが、すぐさま
「智さん、こんにちは。」
と挨拶をした。
叔父さんは挨拶を交わすとまたすぐに私の方に向き直り
「花火やるの?叔父さんが買ってあげるよ、どれがいいの?」
と言った。
「智さんそんないつも…」
「花火くらい可愛い姪っ子にプレゼントさせて下さいよ。」
叔父さんはそう言うと笑った。
叔父さんから花火を手渡され、お礼を言うと
叔父さんはその時、母を見て
「してくれているんですね。」
とポツリと言った。私は意味がわからず母の方を見ると、
母は顔を少し赤くして
「あっええ…」
と言った。
「じゃあ茉莉ちゃん楽しんでね。」
叔父さんは納得したように頷くと今度は私の方に目を向け
私の頭にそっと手を置き、去って行った。
「ねえお母さん、叔父さんっていつもかっこいいね。あっ
この前、叔父さんの車を見かけたこと聞けばよかった。」
私は思わずそう口にすると
「そ…そうね、」
と言って、母は首に巻いていたスカーフを直した。
オレンジ色や黄色の花がとても綺麗な明るいスカーフ。
母にとてもよく似合っていた。
「あれ?お母さんそのスカーフ、ピンで止めてるの?」
そう言って母に近づき、よく見た私は驚いた。
それは桜の形をしたブローチで、しかもその形はこの前机の下で拾った
ボタンの模様とそっくりだったから…
そんな私に母は
「綺麗でしょ〜桜の花の形なの。気に入ってね買ったのよ。」
と微笑んだ。
兄がおかしくなったのはこのスカーフが原因だったとは
この時は全くわからなかった。
この花たちは綺麗だけれど実は秘密を持った花だった。