~蝶~
雨は一晩中降り続いた。
目覚めると肌寒いくらいの空気が開け放った窓から入ってきて、
朝だというのに今ひとつスッキリとしない気分を象徴するかのように
薄グレーの雲がべったりと空に貼り付いていた。
私は母が用意してくれた服に着替えると、いつものように新聞を
取りに表へ出た。“お父さんの車がある!”私は嬉しくなって
急いで家の中に入るとリビングへと駆けて行った。
「茉莉、おはよう。」
父は私を見るなりそう声をかけ、差し出した新聞を受け取ると
すぐに私を膝の上に乗せ、愛しそうに私を見つめた。
「お父さん、昨日遅かったの?お父さん疲れてない?
そんなに仕事ばっかりやって疲れたでしょ。あ、もうスイカ食べた?
茉莉は食べたよ。甘くておいしかった。」
父が目を細めながら私の話を黙って聞いていると、そこに兄が現れ
「お父さんおはよう。」
と父に近寄ってきた。兄は私の姿を見るなり
「茉莉、お父さんは疲れてるんだぞー早くどけよっ」
と言って私の手を引っ張って父から引き離そうとすると
すかさず父が
「おいおい、危ないぞー。女には優しくしないとな。」
と言いながら兄の頭を優しく撫でた。
父は私たちに本当に優しかった。むやみやたらに怒ったりせず、
何があっても必ず理由を聞いてから諭すようにしてくれた。
だから私たちも隠し事などしたりせずに、どんな悪いことをしたとしても
正直に話していた。そんな父のことを、私はもとより兄は、誰より
好きだったし尊敬していた。
「まあ朝から何?賑やかねぇ。」
母は朝食のお皿を手に一旦立ち止まり、こちらに目をやってから
それをテーブルに並べていった。
兄は母の姿を見るとそそくさと定位置に着き、何も言わず
下を向いて食事が始まるのを待っていた。
「さぁいただきましょう。」
母は料理を全て並べ終えると皆んなにそう声をかけ、
「茉莉ちゃん、ほらっお父さんが食べられないから
もう自分の席に座りなさい。」
と私を促すと自分もエプロンをとって席に着いた。
幼い私にはこれが何らいつもと変わらない朝の光景に見えていたが
実は、大好きな人たちの人生のほころびの始まりであったのだと
ずいぶんと後になってから気づくのだった。
「お父さん昨日ね、お兄ちゃんと裏庭で遊んでね、蝶々捕まえたの。
被っていた帽子でね、花に止まったところをパッと捕まえたの。」
「おおそうか、すごいな〜。何の花に止まったんだい?」
「うーん、名前はわからないけどオレンジ色の小さな花。
小さな花がたくさん集まってひとつの花になっているの。」
「茉莉ちゃんそのお花、紫陽花みたいなお花じゃなかった?」
「そうそう、紫陽花みたいだった。」
「じゃぁそれはきっとランタナね。あの花は色を次々と変えながら咲くのよ。」
「へぇ〜」
母は植物が好きで、兄と私の名前の由来もそこから来ていた。
「柊吾は何して遊んだんだい?昆虫採集でもしてたのか?」
さっきからずっと黙ったままの兄に父がそう声をかけた。
「うん、そうだね虫を取ったり、してた。」
「柊吾は優しいから、きっと茉莉の面倒を見てくれてたのよね。」
母がそう口を挟むと兄は
「別に、そうじゃないよっ」
と面倒臭さそうに言った。
「ねーお父さん、今年はどこに行くの?家族旅行。どこに連れて行って
くれるの?」
私がそう尋ねると
「海に行こうか…やっぱり海がいいんじゃないか?…バーベキューしたり
夜は花火をやったりして。楽しいだろ?」
「うん!茉莉それがいい。」
私はふざけてご飯を口いっぱいに頬張りおどけて見せると、父と母は
呆れながらも声を上げて笑った。
「あ、ほら二人共もう時間、今日は学校に行く日なんでしょ急がないと。」
母は時計を見上げ、慌ててそう言った。
「ごちそうさまでした。」
と呟くと兄はすくっと立ち上がり、父の方を見て
「行ってきます。」
と背中を向けた。
「あっ待ってぇお兄ちゃん。ごちそうさまでしたー」
私もそう言って立ち上がると
「行ってきます。」
と兄に続いた。
玄関を出てしばらくすると
「茉莉、終わったら図書室で待ってろよ、迎えに行くから。」
兄は急に立ち止まり私にそう言った。
私は兄を待っている間、昨日捕まえた蝶の種類について図鑑で調べていた。
蝶の種類も本当にいろいろあって、見ているだけでもまるで庭にいるような
そんな錯覚さえ覚える程、色とりどりの蝶に見入っていた。
「茉莉、」
兄に声をかけられ、やっと頭を上げた私に
「何を見てたんだ?」
と兄が近寄ってきた。
「お兄ちゃん見て 、これ昨日捕まえた蝶々。ほらモンキチョウ、アゲハ、
あとこれ、これは知ってるよねモンシロチョウ…あとこれも、これもいたよね。」
私は夢中になってそのページをしっかりと手で押さえ、兄に見せた。
兄はひととおり眺めると
「そろそろ帰ろう、茉莉。」
と呟いた。
「うん。」
私は図鑑を棚にしまうとランドセルを背負い図書室を後にした。
「お兄ちゃん今日も裏庭で遊ぶ?」
兄の背中にそう語りかけると、兄は少し考えてから
「…いいよ。」
と返事をした。
昼ごはんを食べ、宿題を済ますと帽子を片手に兄の部屋へ行き
「お兄ちゃん行こう。」
とドアの前で大きな声を出した。
すると兄はキャップ帽をしっかりと頭に押し付けながら出て来て
「行こ。」
と言った。
母に遊びに行く旨を告げ、家を出ると兄はしばらく行ったところで
「茉莉はお母さんのこと好き?」
と唐突に尋ねてきた。
「好きに決まってるでしょ、そんなの。」
と私が答えると兄は
「そう…俺はお父さんの方が好き。」
と言って足を速めた。
「ちょっと、ちょっと待ってよお兄ちゃん…」
私は兄の後を駆け足で追いかけ、離れないように必死でついていった。
ひとしきり遊んだ後、裏庭を抜けて広い通りが見えてきた、
その明るく照らされた道に見覚えのある車が目の前を走り去るのが見えた。
「あれ?お兄ちゃんさっきの車、叔父さんの車に似てなかった?」
「え?」
兄は小走りで通りまで出ると辺りを見回した。
私も急いでついて行き、同じように辺りを見回したが
叔父さんのものらしき車は見えなくなっていて、
「おかしいなぁ…確かにあれ、おじさんの車だったと思うけどな〜
だってあのかっこいい車、叔父さん以外あまり乗ってないと思うよ。」
と言うと兄は何も言わず、車が行き来するのをただ見つめていた。
「ただいまー。」
私たちが家に辿り着くと母は奥から駆けて来て、タオルで手を拭きながら
「お帰りー、お帰りなさい。」
と微笑みながら私たちを出迎えた。私が靴を脱いで家に上がろうとすると
何か花のようなとてもいい匂いがして
「あーいい匂い。何これ?お母さん何かいい匂いがする。」
と母の方に顔を近づけると
「お花の匂いじゃない?さっき活けたばっかりだから。」
と言ってそそくさと奥へ入って行った。
花ではなかった。確かに新しい花が玄関に飾られてあったが
その花の匂いとは全く別の匂いが母の身体から漂っていた。