chapter9 愛美/コーヒーは飲めないけど、コーヒーミルクは飲める運命
お母さんは運命って信じる?私は信じない方。今まではね。っていうか、こんなことについてお母さんと話したのって今までなかったよね。お母さんが天国に逝っちゃう前に、信じるのか信じないタイプなのか聞いておけば良かったな。
最近はね、就活したり絢ねえと話したりして、なんかよくわかんないけど色んなことを考えるようになったの。なんていうのかな、現実な話、例えば、この牛乳の賞味期限は明日までだった、やべー、何作ろう、シチューとか?じゃなくて、もっと漠然とした全体的にぼんやりした感じのこと。将来のこともそうだけど、今の暮らしについてとか。
絢ねえは基本的に何を考えているのかわからないんだよね。それは、あの椿山荘で初めて会ったときから感じていたことなんだけど。別に苦手ってワケじゃないし、そこまで不思議ちゃんってことでもない。ただ、私と絢ねえが同じものを見ていたとしても、違う形に見えていたり、全然真逆のことを感じているんじゃないかなって思う。時々そういうことない?他の人も自分と同じように見えているのかって不安になるとき。絢ねえといると、ふとそんなことを考えて一瞬不安になるんだ。
別に仲が悪いわけじゃないよ。そこは安心して。っていうか、むしろ仲が良い方に入るんじゃない?でも時々、すごく怖くなって不安になるの。絢ねえが何だか凄いことを考えているみたいで。なんていうか、フィールドが広くて無限な感じのもの?うまく説明できないけど、私には全然思い付かないようなことが、絢ねえの頭の中では企てられているんじゃないかって思うの。そしたら、自分がなんてちっぽけなんだろうって思って、一人ぼっちになった気分ですごく心細い。
ああ、お母さん、ダメだね、私。これから自立しようっていうのに、こんなんじゃダメ。もっとしっかりしないと。
今日の天国はどうですか?天国には雨が降ったりするの?それとも毎日心地よい天候で、体がふわふわ浮く感じなのかな?今日は初出勤です。まさかあんな面接で受かるなんてマジでビックリ。私のどんなところが評価されたのかわからないよ。絢ねえは、そういうダメだった面接ほど案外合格だったりするもんだよ、って言っていたんだけど、それが本当だった。
あんなふざけた面接だったのに、こうやってZ社で働けることに、そう!運命を感じるの。あの面接官のおっちゃん、怖くて逃げ出しそうになったけど、逃げなくて良かった。
そろそろ行くね。こうやってお祈りしていたら、線香の匂いが服と髪についちゃう。今日は初出勤だから、ヘマは絶対出来ないしね。じゃあね、お母さん、いってきます。
店長との待ち合わせは、代官山の喫茶店。昨日「明日からよろしくお願いします」っていう連絡をしたら、店長から「とりあえずお茶でもしながら話そう。駅の東口に出たら、青い看板の喫茶店があるからそこに十時に来て」って言われた。
何だか威圧感は無い口調だったけど、なんていうか、淡々としていてちょっと冷たそうな声だった。っていうか、店長が宅配便のお兄ちゃんみたいに「お届け物でーす!」って熱っぽい声だったら、それはそれで不安になるけどね。でも、とりあえず、あの面接のおっちゃんみたいに存在だけで人を殺せるような人じゃなきゃいい。
この期待感とワクワク感が緊張と不安とでごっちゃになっている感覚が好き。この私がZ社に入社できるなんて!しかも代官山店!
アイにはメールで就職先が決まったことを知らせた。そしたら自分のことみたいに喜んでくれた。「やったじゃん!おめでとう!」って。嬉しくって、思わずそのメールを保存しちゃった。でもまだ美樹には言っていない。何だか言う気になれない。何で?ライバル?なのかな、私にとって美樹って。友達をライバル意識する私って何なの?心が狭いように感じる。でも例え美樹に「Z社に決まったよ!」ってメールしても、アイみたいな返事が来るとはどうしても思えない。きっと、今の私は祝福の言葉しか欲しくないんだ。今のこの期待感を潰す要素を自然と無意識に避けている。お母さんは絶対私を抱きしめて、自分のことのように涙を流しながら、「おめでとう、良かったね」って言ってくれるはずなのに。きっと美樹にメールしないのは、絢ねえの反応が微妙だったっていうこともある。絢ねえは一通り「おめでとう」って言ってくれたけど、それは洗濯物を干しながらで、本当に一通りって感じだった。採用の連絡がきて、はしゃぎまわっていた私の気分を一気にクールダウンさせた。どうして、喜んでくれないんだろう。っていうか、むしろ絢ねえは自分のことに関してもあんまり喜んだりしないもんね。あの今受けてる化粧品の会社から面接の連絡がきても、「あぁ、そうですか」って感じで本当にクールだった。でも別に心底興味がないってわけでもなさそう。ただ、特に期待とかはしていない感じ。一度社会に出た人ってそうなるのかな。それとも性格の問題?つくづく、絢ねえがわからない。
五月に入ってから、四月の季節風みたいな強い風はそのままだけど、気温がぐんと上がって時々汗ばむ。せっかく綺麗にアイロンした髪が風に煽られて顔全体にまとわりついてウザい。何度も耳に髪をかけても、髪はあっち行ったりこっち行ったりで落ち着いてくれない。この耳に髪をかける作業が、どんどん緊張感を高めていってる気がする。
「上野愛美さん?」
「あっ、はい!」
「待たせちゃってごめんね。俺が店長の松村。とりあえず、入ろうか」
髪の毛は明るいフローリングみたいな軽い茶色で、少しくたっとした白いシャツにジーパン姿。シンプルな装いだけど、明るい髪色はしっかりとワックスできまっている。
男の人が鏡の前でワックスを手に取って、しっかりと手先に馴染ませ、髪の毛をセットしている姿ってちょっと苦手だったりする。そんなにカッコ良くなりたいのかよ。そんなにモテたいのかよ。今の時代、ぶっちゃけ男女の美容戦争が勃発しすぎだと思う。綺麗になるのは、女の特権として取って置いて欲しいのに。
でも松村さんは、痩せた色白で、顔にはたくさんの皺があって、笑うとクシャってなる。完全なる年齢不詳。二十八?三十二?いや、案外、三十六歳とかまでいっているかも。
「コーヒーでいい?」
「はい」
「すみません、コーヒーふたつ」
こんな昔ながらの喫茶店に入ったのって初めて。このえんじ色の重厚なソファ!堅いんだか、柔らかいんだか。
「すごいキョロキョロしてるね。緊張してる?」
「あ、すみません・・・少し緊張しています」
「ウチの店には来たことあるの?」
「渋谷店には二回くらい行ったことあります」
「へー」
「コーヒーお待たせしました」
「ここのコーヒー、うまいから」
すみません、店長。私、コーヒー苦手なんです。なんて初っ端からは言えない。とりあえず、ミルクでカバーするしかない。
「でも、上野さん、すごいよね」
「え?何がですか?」
「だって、あの小池さんの面接を突破したんでしょ?」
「はい、まぁ・・・」
「あの人に泣かされた子は何人もいるよ。俺だって、あんな面接されたら泣きそうになるもん」
「私も泣きそうでした。っていうか、怖くて逃げ出したかったです」
「ははは」
笑っているのに、熱がない笑い。
「小池さんって、そんなに厳しいんですか?」
「去年から中途で入ってきた人でね、今は人事の部長。前はどっかの大手で働いてたらしいんだけど、ウチの社長がヘッドハンティングしてきたわけ。だからあんなに美容業界っぽくないんだよね」
「最初見たときビックリしました」
「俺も最初はビビったけどね。でも一昨年から上層部がガラリと変わって、今までとは色々違う感じになってきたんだ。前は完璧にネイルだけだったんだけど、ウチの代官山店みたいに美容室もしたり、他の業態にも手を出したりね。あ、今度の横浜にできる新店にはカフェもやるらしいんだ。まぁ、今は会社が変わる時期ってこと」
「そうなんですか」
気が付いたら、目線は天井を見ながら松村さんの話を聞いていた。ミルクたっぷりのコーヒーは意外とうまい。
「本部は色々社風が変わったけど、現場はそうでもないから安心して。みんな、ほのぼのとして良い奴らばっかだから」
安心して・・・。逆に何か不安になる言葉。
「上野さんはあれでしょ?ヘアメイクの専門にも行ってたんでしょ?」
「はい、×××専門学校のヘアメイク科卒業です」
「それで何でネイルなの?」
はっと一瞬、美樹の顔が浮かんだ。でも、美樹は忙しそうにバタバタと走ってどこかに消えて行ってしまった。
「ヘアメイクの就活がうまくいかなくて。でもネイルも好きだったので、卒業後は資格取得の学校に通って二級まで取りました」
「ふぅん。まぁ、人生色々あるからね。でも、ヘアメイクの知識もあるなら、ちょっとその辺も手伝ってもらおうかな」
「あの、働きながら一級を取るのってキツイですか?」
「まぁ、それは上野さん次第だね。でも、ウチのスタッフで働きながら二級と一級を取ったやつもいるから、そいつに色々アドバイスしてもらえばいいよ。とりあえず、仕事は自分から積極的に動いてやってみて」
また天井を見てしまった。
「じゃあ、そろそろ、店に行こうか」
今は会社が変わる時期って、一体どういうことなんだろう。会社が変わると私はどうなるの?変わったから、私は採用されたの?松村さんの言い方だと、変わることがあんまり良いことではなさそう。じゃあ、私が今まで見てきたZ社はもうないってこと?何だか期待感とワクワク感はどっかに消えちゃった。今、あるのは現実と、それに対する不安と疑念だけ。