chapter8 絢/ 海辺の白過ぎる病院
自暴自棄になっているのは承知の上。やけくそになっているのもわかっている。でもこうでもしなきゃ、今の私のはらわたの煮えくりは治まりそうにもない。目には目を、歯には歯を。って感じで、ショックを受けたらショック療法で治すしかないと思う。
愛美は一人暮らしをして、自立したいと言っていた。今、本当に愛美はそんなこと言ってたっけ?思うくらい自分でもあやふやに感じてしまう。まぁ、それがショックを受けたって言うんだろうけど。愛美が言ったことは、まるで夢のように日々が経つにつれ、その鋭角だった輪郭をぼんやりとしていたのに、自分が母親に言った言葉、愛美とパチャを置いてけない!というのは、逆に日に日に巨大化していって、自分を辱める瞬間が多くなってきたと思う。この反比例は一体どこからやってくるのだろう?
では、あなたにとって愛美さんは家族ですか?と聞かれると、正直迷う。愛美と私を家族として繋げてくれていたのは、お父さんと美代子さんであって、今その間接的な繋がりを埋めてくれる要素は何もない。
自分一人だけあの家を出ることを想像してみても、それはただの想像でしかなくて、現実になるとはどうも思えない。でも、愛美が自立を考えていることはショックだったし、自分が勝手にちょっとでも家族面していたのかと思うと恥ずかしくて仕方ない。ましてや、今この生活を維持しようと思っていたこと自体が、非現実的で情けない。
愛美はきちんと現実を見ているのに・・・私はどこか本線からずれて脇道に入ってしまったみたいだ。
お母さんが言っていたことは、ある意味真実だった。お母さんと一緒に住もう、それを素直に「うん」と答えられる脳味噌が欲しい。
許せない。絶対に許せない。そう、許せないことが今朝もう一つあった。今朝、パチャといつものコースを散歩していたら、お気に入りのススキが根こそぎごっそり刈り取られてしまっていた。あのススキを刈るなんて。極悪非道だ。一体誰が刈ったんだ?
まるでキツネの尻尾みたいにふわふわで、春の温かい、ちょっと強めの風にその身を委ねながらゆらゆらと揺れていた。ん?っていうか、今は春だ。春にススキは生えない。じゃあ、あれは何?よくよく考えれば得体の知れない植物だったけど、私はあのふわふわが幸福に満ちていて好きだった。
白い壁、白い天井、白いドア。全てが白い。窓はない。当然か、ここは重度の精神疾患者の病院なのだから。
千葉の南房総の海辺にあるこの病院は、本当に海辺にある。マジで、冗談なく。目の前は穏やかな太平洋が一望出来て、海岸までは五分とかからないんじゃないかな。ここは春風なんて関係なく、きっと年中海風が吹いていて、人や動物の毛を塩辛くゴワゴワにさせるはず。どんな高級なサロンで買ったトリートメントでも、きっとそのゴワゴワ感には勝てないと思う。
目の前は海で、こんな綺麗な病院にいる陣野香織にムカつきはするけど、それと同時に何だか羨ましさもある。きっと愛美なら彼女本人に対いてムカつくだろうけど、私は彼女よりもこの国の法律、そして自分の運命を呪う気持ちの方が大きい。
人を殺しといて、こんな綺麗な所でぬくぬくと生活しているなんて。最初は病院の施設やサービスなどに苛ついていたけど、私が確認したかったことはそういう物質なことじゃない。陣野香織が今本当にどういう状況なのか、それを確かめたい。人にとっては、こういう完璧な場所ほど孤独を感じたり、やるせない思いになったりするから。こんな天国のような場所だからこそ、地獄のようになることもある。
さっきから待たせられているこの部屋は、白ばっかりで逆に怖い。落ち着かない。ってことは、私は正常なのかな?
目の前には一応ガラスの壁があって、刑務所みたい。でも刑務所ほどの緊張感や圧迫感がないのは、やっぱり病院だからなのかな。
あ、来た。コンコンっとドアをノックする音。
「失礼します」
付き添いの看護師さんに連れられて、陣野香織は俯いたまま部屋に入ってきた。
ほとんど白に近いブルーの病院服は彼女には大き過ぎる。ダボダボ過ぎて彼女がすごく華奢に見える。長い黒い髪は後ろの首筋辺りでキュっと結わえられていて、もちろん、アホ毛なんて一本も出ていない。あれ?うっすらと化粧もしている?
要は、とても清潔にしているってこと。病んでいる人の、独特な負のオーラはない。むしろ、今の狂気染みた自分のオーラの方が病んでいるかもしれない。
終始、俯いているからどんな目をしているのかはわからない。でも、死んだ目をしている感じはしない。普通に、被害者と加害者が面会して、おどおどしている感じ。緊張しているのかもしれない。っていうか、私の方だって緊張しているし。
ショックは新しいショックで埋めようと思ったのに、今の時点ではショックはない。逆に、きちんとしている彼女にちょっと驚いている。
彼女は精神を病んでいて、精神安定剤が合わず正しい判断が出来なくて、アクセルを踏み込んだ。思いっきり。そして、お父さんとお母さんを引き殺した。だけど、予想外。彼女はアウシュビッツみたいな薄暗い病院で、髪はボサボサふけだらけ、顔には垢なんかがたくさんついてなきゃならないのに、小綺麗にしている。
絶対的な安心と安全。私にはないもの。こんな矛盾って許されるの?わからない。
愛美がこんなのを見たら、「許せない!何で?お父さんとお母さんは死んだのに!あんたが殺したくせに!」って叫びながら、このガラス板を割る勢いで叩くんだろうな。このことは死んでも愛美には言わないでおこう。
「こんにちは。上野絢です」
「こんにちは」
か細い声。泡だてた卵白みたいにすーっと消えていくような声をしている。覇気はゼロ。
「手紙、読みました」
「はい」
付き添いの看護師さんみたいな人は、白い壁と一体化しているようにその存在感を消しているけど、目だけがギョロギョロと激しく動いて、私を監視しているみたいでちょっと気味が悪い。そうだ、私にとってここはアウェイなんだ。陣野香織は守るべき患者で、私は少なからず恨みを持つ加害者。ちょっとしたことで立場が逆転して、彼女に復讐しようとする危険者になる可能性もある。
「突然来てすみません。ビックリされましたよね?」
あ、肩が少し震えた。
「はい・・・あの・・・」
何か言ってくる。言おうとしている。
俯いていた目から涙がぽたんぽたんって落ちている。綺麗な涙の流し方。個人的には好きな泣き方。
「すみません・・・本当に・・・すみません」
静かな嗚咽。
「私はあの手紙を受け取って、あなたを許したわけではありません。それは解って頂けますか?」
頷いたのか嗚咽なのかわからない。でもさっきよりは明らかに泣いていると思う。
「あなたが例え死刑になろうが、今後どうなろうが、父と母は戻ってきません。ただ、私は一度あなたに会って、私達姉妹がどう思っているのかを伝えなきゃと思って来ました。あなたが私達に会いたくないと思っていても。そうしないと私達もケジメがつきませんから」
肩の震えはもう既に止まっていて、俯いたまま深々と私の話を聞いている。
「私達はあなたを許しません。一生です。殺すことが出来るなら、父と母が死んだ同じ方法で殺してやりたいくらいです。でも、もうそういう風に考えるのは止めました。私達も生きていかなければなりません。幸せにならなきゃいけないんです。だから、あなたはもうこの世にいないものと考えます。死んでくださいとは言いません。ただ、もう私達があなたに会う事は二度とありません」
泣きじゃくっている。
「言いたいことは言い終わりましたので、失礼します」
「あっ」
陣野香織が顔を上げた。目の周りは涙で充血しているけど、白目はとことん白くって、死んでいる目なんてとんでもない。何?この目は?ちょっと希望に満ちた目をしているじゃない。
「・・・」
何か言いかけたけど、黙ってまた俯いてしまった。きっと何か言おうとしたけど、言わないでおこうって判断したみたい。
「では、さようなら」
やけにコーラが飲みたくて、久々にコーラを自動販売機で買ったけど、コーラってこんなに炭酸強かったっけ?炭酸の爽快感が欲しくて買ったけど、もはやこれは喉をじゅわっと締め付けられるみたいで痛さでしかないよ。
でも、病院の入り口の脇に設置されたベンチで、雲ひとつない青空を見上げながらコーラを飲むのも悪くない。髪が強い海風に吹かれて、左側に寄ってしまうのが面倒だけど。夏のコーラのCMみたいで、気持ちが晴れ晴れとする。
陣野香織の目がちょっと希望に満ちていたのはビックリした。彼女にはとことん絶望していて欲しかったのに。私は人殺しです、あぁ、もうこの先の人生なんてどうでもいい、くらいに。なのに、あの目だもんな、ちょっとショックだった。でも私が求めていたショックの度合いよりは軽過ぎる。もっと強烈な、一生忘れないくらいのショックが欲しかったんだけどな。っていうか、私って他人の不幸っぷりを見て、生きるパワーにしようとしている?結構最低な奴じゃん、私って。
こうやってサラっと残酷なことをする癖が小さい頃からあった。結局、他人との勝ち負けにこだわっていて、自分が相手より幸せだったり、優れていたりするのを心の底でどっぷりとその優越感に浸っていたい性質。こんな自分を腹黒いな、とは思うけど、悪いとは思わない。だって、みんなどこかで他人よりは上でいたいと思っているでしょう?私はその中でもちょっとプライドが高いだけ。
でも今回のは若干卑劣だったかな。陣野香織を使って、優越感に浸ろうなんて。しかも、そんな大した優越感もなかったし。
彼女は今日私と会って、また情緒不安定になったりするのかな。まだ今も泣いているのかな。
タクシーのおじちゃんがさっきからこっちを見ている。明らかに「当然、乗りますよね?」みたいな顔をしている。でもそこまでガっついた感じにはしたくないのか、ちょっとよそよそしくしているのが、逆に違和感がある。いいよ、そろそろ帰るよ。帰ったらA社の面接の作戦を立てなきゃいけないしね。
「剛史さん、すみませんねぇ、本当に。わざわざ送り迎えなんかさせちゃって」
「いいんですよ、おばあちゃん。今日は仕事が早く終わったんで。おばあちゃんが会いに来てくれると香織も喜びます」
剛史さん?おばあちゃん?・・・香織??
杖を付いていて、ひょろっとして眼鏡をかけた男性に背中を支えながら病院に入ろうとする老人。頭は上品な白髪で、首にはフランスで買ってようなゴールドのスカーフをしていて品がいい。ひょろっとした男性も華はないけれど、真面目で優しそう。
「歳を取ると、どこに行くにも不安でねぇ。でも剛史さんがいると安心だわ」
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいですよ」
「香織は幸せだわ。こんな素敵な男性が旦那様になるなんて。剛史さんが側にいてくれるから、香織も良くなっていっているんですよ」
どうして聞きたくないものをいつも聞いてしまうんだろう。コーラなんて飲みながらのんびりしてるんじゃなかった。とっととこのタクシーに乗って帰っていれば、あんなこと聞かずに済んだのに。
陣野香織は結婚する。いつかは知らないけど・・・っていうかそこまで知りたくもないけれど。重要なのは、彼女には優しい婚約者がいて、上品なおばあちゃんがいて、こうやって会いに来てくれる人がいる。恋人がいる。家族がいる。お父さんとお母さんを殺したのに・・・なんてフェアじゃないんだろう。
純白な白目と希望に満ちた黒目は、そうか、将来があるからなんだ。正常になって退院すれば、愛に満ちた人生がまたスタートする。嬉しいワクワクする予感がある。生きていく意味がある。
「お客さん、大丈夫ですか?」
必死に耳を両手で塞いでいるのに、運転手の声までも聞こえてくる。
もう何も聞きたくない。何も知りたくない。