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仔犬とナイフ  作者: 中田辰
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chapter7 上野姉妹/反比例する決意

 パチャの頭上では、太陽の光を充分に浴びた埃がキラキラと舞っている。春の朝の光は、全ての息吹あるものの命をそっと優しく包み込むようだ。もしかしたら埃にも命があるのかもしれない。ううん、春の光によって、命を齎せたのかもしれない。春にはそんな力がある。

 自分の頭の上をゆっくりと弧を描くように舞う埃を物珍しそうにパチャは見つめている。時々首を傾げながら。パチャは少し体が大きくなった。でもトイプードルだから、もうこれ以上大きくならないだろう。後はゆっくりと歳を取っていくだけ。あと十年も経てば、もうおばあちゃん犬と呼ばれてしまう。

 人間はオギャーと生まれて、幼稚園に行って、小学校、中学校、高校、仕事する人もいれば、進学する人もいる。次は結婚して、赤ちゃんがまたオギャーって泣いて、子育てして、中年になって、老人になって、死んでいく。でも犬はオギャーと生まれたら、お母さんのおっぱいを探って、トイレの場所を覚えて、ご飯を食べて、散歩して、そして寝るだけ。明らかに人間の方が、生きる年数が長くてやることが多過ぎる。フェアじゃない。人間と犬の命の歩むスピードは一体誰が決めたのだろう。

 埃を見飽きたのか、次にパチャは庭を眺め始めた。小さな庭。だけど、花壇には薔薇がたくさん咲いている。赤だけじゃない。ミニ薔薇の可愛らしいピンクや黄色や白などが四方八方に咲き乱れている。プランターにもローズマリーやバジルとかが所狭しと並んでいる。

 レモンイエローのモンシロチョウが二羽、ふわふわと軸が定まらないようにじゃれ合いながら花壇の上を飛んでいる。美代子の花園。日焼け予防で割烹着を着て、サンバイザーを被ってせっせとガーデニングをするのが美代子の趣味だった。「この庭をローズガーデンにするの」って言うのが美代子の口癖だった。

 事故以来、庭には新しい種類の花は増えない。ただただ現状維持に徹するだけ。絢も愛美もガーデニングは趣味じゃない。でも、愛美は花を枯らさないように毎日水だけはやっていたし、雑草ばかりが生えてきたら草むしりもした。まるでこの庭が美代子の形見と言わんばかりに。それに、綺麗にしておかないと、パチャがこうやって庭を眺めることもなくなりそうな気がしていた。

 絢も愛美もこの家をなるべく何事もなかったかのように保とうとしていた。お父さんとお母さんは二、三日の温泉旅行で家を空けています、という風に、家の中だけは今までとは変わらない余裕を漂わせようとしていた。しかし、その空間は時々虚しさと孤独感を浮き彫りにし、絢と愛美の背後からそっと忍び寄り、一瞬にして二人を飲み込んでしまった。今までとは変わらない日常を意識すればする程、その振り幅は巨大で、二人を苦しめた。だが、二人ともその辛さを互いに公言することはなかった。絢はそんなことを愛美に言っていいものかわからなかったし、愛美はただ現実的に今やらなくてはいけないことをこなしたかった。

 二人が自然と創り上げたこの家に漂う空間は、遠慮と虚言で一杯になり、次第に現実味が失われていった。春の気まぐれな雨が降れば、まるで軽井沢にある別荘のようにしぃんと静まり、今日のように良く晴れた日は、シャンプーのCMに登場する綺麗過ぎる髪を誇らしげに揺れ動かすモデルがいる煌びやかなセットのようになった。

 花咲き誇る庭を眺めるキョートなトイプードルのパチャ。その姿を眺めると、あの事故なんかなかったかのように一瞬だけ他人事になる。まるでモネの絵みたいに、しっとりとした淡い幸せが縁取られた気分になる。

 ハッハッ・・・とパチャの呼吸が速くなる。

「パチャ、日向ぼっこし過ぎて暑いんでしょう?」

パチャの隣で体育座りをして、同じように庭を眺めていた絢が言った。

「ほら、こんなに鼻も乾いちゃって」

パチャの黒くて丸い鼻をツンと指で触れた。いつもはべちゃべちゃの鼻がカサカサに乾ききっている。パチャはちょっとうざそうに首を横に捻った。

「あーフレンチトースト!」

二階から降りてきた愛美が叫んだ。もう午前十時を回ってからの起床。リビング全体が、卵とミルクとバターの甘ったるい匂いで充満している。

「ちょっとチンして食べた方が美味しいよ」

体育座りのまま、絢はダイニングテーブルの方に振り返って言った。

「絢ねえのフレンチトーストは絶品だもんね~」

 


 「一緒に住まない?」と母に言われた絢は、その日の帰り道に駅前のパン屋に寄って、フランスパンを購入した。食べログでフランスパンが好評と口コミされていた店で、いつか買ってみたいと思っていたが、絢と愛美の二人暮らしでは長いフランスパンを消化出来る勇気がなかった。しかし、その日は何だか自棄くそな気持ちで、「私、いつもフランスパンはここで買うんです」っていう感じで堂々とフランスパンを購入した。でも結局、長くて大きなフランスパンは、今の上野家に来てみると、陳腐な程大きくて絢は一気に嫌気がさしてしまった。ならば、得意のフレンチトーストにしちゃって消化すればいい。現に愛美がこうやって食い付いてくれて有難い。

 愛美はチンしてほかほかの湯気を出すフレンチトーストに、たっぷりのメイプルシロップをかけた。その目は純粋な少女の目をしている。不安も絶望も皆無な目。愛美はいつものアイライン囲みメイクをしない方が、無垢で可愛いらしい。

「ねぇ、愛美がこの前受けた会社、なんだっけ?Z社?あれって絶対圧迫面接だよ」

絢は庭の方を見たまま言った。

「圧迫面接?」

愛美は唇の脇についたメイプルシロップを舌で舐めながら言った。Z社の面接の話よりも、目の前のフレンチトーストの方が重要そうだった。

「無反応タイプのやつ」

「何それ?」

「面接官が面接している人の答えに一切反応しないってこと。ほら、自分が何か話しているときに、相手が頷いたり、こっちを見ていたりすると、あぁ、ちゃんと聞いてくれているって思うでしょ?でも、そういう反応を敢えてしないようにする手法なの」

「ふぅ~ん・・・確かに反応しなかったよ、あのおっちゃん。でも何のためにさ?」

「相手にプレッシャーを与えて、それでもきちんと答えられるかを見ているんだよ。まぁ、よく大手が使う面接テクニックかな」

「プレッシャー、ハンパなかったもん。もう泣きそうだったから、全然答えられなかったし。もはやトラウマの域」

「結果はいつまでだっけ?」

「今日まで。まぁ、絶対無理っしょ」

愛美は一定の速さを保って、フレンチトーストを口に運んだ。

「そういう面接の結果って、意外とわからないもんだよ。ビクビク震えていたときに限って受かる場合もあるし」

「ふっ」

思わず笑ってしまった・・・という風に愛美は反応した。

「そんなの有り得ないって。あの面接が受かったらどんなところにも受かるよ。それより、彼氏さんから連絡ないの?」

「彼氏さん?」

絢は意表を突かれたように、愛美の方へ振り向いた。太陽の光をめいいっぱい浴びていたせいで、目の前が真っ白に映った。ダイニングテーブルでフレンチトーストを頬張る愛美の姿は、輪郭だけ認識できるものの、全体的にはカラオケボックスの壁の白い蛍光色のように人型に白い光を放っていた。

「別れてから連絡ないの?」

ひょうひょうと続ける愛美に絢は混乱した。

「あるわけないよ、何で?」

「ふぅーん、じゃあ、本当に別れちゃったんだ?彼氏さんから、やっぱりヨリ戻そうなんてないわけ?」

淡々と、ひょうひょうと。

「ないよ、本当に別れたの」

「そうなんだ。絢ねえは結婚するもんだと思ってたんだよね。そしたら、私は一人になるじゃん?そのときのことを考えてたら、早く就職して一人暮らしできるようにしなきゃなって思ってて」

愛美はやっぱり自分の父親を頼ろうとはしないんだ、と絢は核心して、心の中でうんうん、と頷いた。

「残念ながら、彼は大学時代に青春をくれたボーイフレンド。結婚までは到達しなかったよ」

残念は残念だ、と絢も愛美も同感だった。ご縁がなかった、という一言で片付けられてしまう程度に過ぎない。

「まぁ、でも私はこの家を出て、一人暮らしするよ。早く自立したいし」

愛美はフレンチトーストの甘ったるさを、ホットストレートティーで押し流した。

「ごちそうさまでした。パチャの散歩行った?」

「・・・まだ」

「パチャ~おいで。お散歩行こう!」

 お散歩、というワードを聞くなり、パチャは今まで暑さでハァハァと言いながら寝ていた体を一瞬で起こして、愛美の足元でぴょんぴょん跳ね始めた。

 玄関先で愛美が鍵をチャラチャラと鳴らしている音と、パチャが興奮して走り回る爪のカチャカチャという音が同時に聞こえてくる。その両方の音を聞きながら、絢はとてつもない孤独感を感じていた。

 愛美は結局この家から出て行く。出て行くのだ。

 ガラス窓に頭をコツンとつけると、体は太陽の光で汗ばむくらいほかほかしているのに、頭だけがひんやりと冷やされていく感覚が絢の脳細胞に伝わってくる。

 「愛美とパチャをあの家には置いていけない!」

 母にそう叫んだ自分は飛んだピエロのように思える。一人だけ大切じゃないものを、大切そうに、大事に大事に抱き抱えているようだ。まるで、子供が肌身離さず持っているお気に入りのぬいぐるみみたいに。あと数カ月もしたら、大事にしていたぬいぐるみなんて見向きもせずに、お母さんに綺麗に洗われてリサイクルショップに持って行かれてしまうのに。

 この今の生活の中で、自分が一番すべきことは、新しい人生を歩むことだ。自立。わかっているはずなのに、何を躊躇しているんだろう。

 二、三軒先からパチャの鳴き声が聞こえる。

ワンワン!

その声すらも、絢には現実味がなく、遠くの異国から聞こえる知らない犬の鳴き声のように思えた。

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