chapter5 絢/会いには行くけど、去ることはできない。
志望動機。私が、この会社を、志望、する、動機。
言い換えれば、どうして私がこの会社で働きたいのか。それを言葉にして書けばいいだけ。なのに、何も思い付かない。
就活の時は、五十社くらいに履歴書やらエントリーシートやら書いていたのに、あの頃自分がどうやって書いていたのか思い出せない。書いていたのか、うん、書けていた、とは思わないけど、書いてはいた。五十個の志望動機があったのに、今じゃ一つも書けないなんて。こうやって、ボールペンを握り締めて硬直している自分にビックリする。
御社の製品が好きです。御社の経営に貢献させて下さい。御社の社会貢献に感銘を受けています。御社で働かれている人達が生き生きとしていて私もそのような環境のところで働きたいと思いました。
御社、御社、御社・・・あーわからない。
この会社の商品は好きでよく買っている。特にアイシャドウ。パッケージも可愛い。しかも安い。プチプラ。店内も白を基調としていて清潔感もある。
じゃあ、なんで志望動機が書けないんだろう。そんなのはわかっている。この会社で私がやりたいことがないからだ。本末転倒も甚だしいよ。
だからと言ってインテリア業界は?って聞かれても、もうインテリアに興味が湧かない。っていうか、前の会社でやり切っちゃった感がある。人材教育の部署までいっちゃったっていうのもあると思うけど。
結局、今の私って何がしたいんだろう。
パチャはおりこうさん。こうやってドッグカフェに来ても、他の犬に吠えたり、店員さんやテラスから見える通りすがりの人を見ても、眺めるだけでじっと伏せのポーズをしている。私が店員さんとやり取りをしている間も、じっと私の方を見てカクカクと首を左右に傾ける。そんなパチャを見て、「可愛いですねぇ」って言わない人は今まで見たことない。
「パチャ、お母さん、遅いね」
振り向いたパチャの首元からちらりと見える新しい淡い緑色のリードがよく似合っている。パチャの栗色のカーリーヘアと淡い緑。アースカラーで目に優しい。
はぁ、今日はダメだな。志望動機書けない。家に帰ってもう一度この会社のことをネットで見てから書こう。
「絢!ごめんね、遅くなって。地下鉄が人身事故で止まっちゃってさ~タクシーにしたんだけど、これまた渋滞で。本当申し訳ない」
「大丈夫だよ。今、履歴書書いてたとこだったし」
「あら。どこ受けるの?」
「A社。化粧品の」
「どんな仕事の応募?教育?」
「ううん、販売員。最初はアルバイトから」
「え?何でアルバイトなの?」
「アルバイトからでも良いと思っているから」
「何で?絢、きちんと正社員の方にしなさいよ」
「正社員でもアルバイトでもどっちでもいいの」
「絢、あの事件でショックを受けているのはわかるけど、これからはあなたの人生を自分自身で歩まなきゃいけないのよ。有名私立大も出ているんだし、職歴もきちんとあるんだから。そんなんじゃ、天国のお父さんが悲しむわよ」
天国のお父さんは、悲しまないと思う。むしろ、私の気持ちを言葉にする前に解ってくれると思う。だから私はお父さんとお母さんが離婚するときに、お父さんの方に付いて行った。
お母さんは自分が選ばれなかったことに最初ビックリしていたのは確か。え?なんで?っていう顔をしていたもの。子供は母親が親権を持つ、っていう一般的なイメージが一気に覆されたから。そして、多分自信があったんだと思う。絢は、母親である私を選ぶって。
離婚は私が十二歳の時。原因は不倫でもなくDVとかでもなく、性格の不一致らしい。本当か嘘かわかんないけど。ただ私はお見合い結婚だけはしたくないって、この歳から思っている。お見合いして結婚したのに、性格が合わないから離婚するなんて、正直ナンセンスだと思う。だったら、性格や価値観が合う相手を見つければ良かったのに。
お父さんは口数が多い方ではなかったけど、阿吽の呼吸って言うのかな、子供ながらにそういうのが合う人だって思っていた。
運動会のときの「頑張れ」もここぞ!というときにお父さんの声が聞こえてきたし、ピアノの発表会も「上手だったわ」と言うお母さんとは違って、「絢らしい弾き方だったよ」って言ってくれた。私が欲しいと思う言葉をベストタイミングで言ってくれるのがお父さんだった。
「正社員でもアルバイトでも、絢が直感で良いと思ったことをしたらいい」
お父さんならきっとそう言ってくれるはずなんだけどな。これは私の予想だけど、きっとお母さんはこう言うはず。「教師になったら?」って。教師になる、というか、お母さんみたいな教師ってこと。
「まぁまぁ、とりあえず注文しよっ。お腹空いちゃった」
犬用の人参ケーキを見て、パチャは最初首を傾げていた。「このオレンジものはなぁに?」って言う風に。今は上のクリーム部分をペロペロ舐めたし、端から齧ったりして、ようやく自分に与えられた食べ物として理解したみたい。
食欲、がない。どこで読んだか言われたか知らないけど、命あるものは、自分が置かれた環境にある程度適応できるようになっているって聞いたことがある。それは確かにそうだと思う。寒いところにいる動物は冷えから身を守るために脂肪を蓄えるし、アリクイの舌は蟻の巣の中に入れるため細くて長い舌をしている。生きるために、その環境に適応していけるよう進化していく。
なのに、私はその辺が欠乏している。苦手な人、圧倒的なパワーを持っている人とこうやってご飯を食べるとなると、ほとんどと言っていいくらい食欲がなくなる。さっきまでお腹がペコペコだったのに。何かに緊張している、根負けしている。目の前にいる母親ですら。母親はどちらかというと、圧倒的なパワーを持っているタイプ。生きるエネルギーに満ちているというか、もし今隕石が吹っ飛んできて地球が粉々になっても一人生き残りたいと思うタイプ。私はその真逆だな。残されるのが嫌だからみんなと一緒に死んでしまいたい。きっとお父さんもそう思うはず。
「こんなに頼んだの?」
「だって絢、お腹空いてるって言ったじゃない」
「シーザーサラダ、エビの香辛料焼き、マルゲリータ、カルボナーラ・・・一体何人前よ?」
「まぁまぁ、食べれるだけ食べればいいのよ。はい、まずはシーザーサラダ」
相変わらず盛り方が雑な人。ドレッシングが皿から零れ落ちそうになっている。
「それで、絢は最近ビックニュースないの?」
「ビックニュースねぇ・・・あ、修司と別れたよ」
「え?」
えぇ?お母さんの手が止まった。さっきまで勢いよくバリバリとレタスを食べていたのに。目をまん丸にしてこっち見ている。このリアクションからすると、修司と結婚するものだと思っていたのかも。
「先週別れたの」
「どうして?付き合って長いじゃない!」
「どうしてって・・・やっぱり環境の変化ってやつ?」
「環境の変化って・・・むしろ絢が仕事辞めて良くなったんじゃないの?絢が修司君の予定に合わせてあげられば問題ないじゃない」
「もちろん、私が働いていた頃よりは会える機会は多くなっていたし、私は修司の予定に合わせていたんだけど・・・会えば会う程お互い変わったなって感じちゃって」
「変わった?」
「大学の頃はお互いキャッキャッしながら好きなこと出来ていたけど、仕事すると自分のキャパが広がって大切なものとか価値観とかが増えていくでしょ?私と修司もお互い仕事で色々変わって、前のようにはいかなくなっちゃったの」
綺麗な言葉で並べるとそういうことになる。でも本当の言葉を用いると、もう修司は私を必要としていないし、私も今までの甘い大学生の頃の自分達に縋り付いていたから。
「そんな・・・残念だわ。てっきりもう絢は結婚するものだと思っていたのに」
「ごめんね、お母さん」
私、何で謝っているんだ?
「修司は大学の頃の甘い思い出として取っておくから」
私がニコっと笑っても、お母さんは腑に落ちない様子。
「あ、あとね、陣野香織から手紙が届いたの」
「え?どうして?」
「まぁ、手紙の内容を要約すると、謝って許してもらえるなんて思ってもないけど、反省はしています。ごめんなさい。って感じ」
「そうなの・・・彼女も落ち着いたのかしら」
「多分そうだと思うよ。自分がやったことの重大さとか、これからの人生とかを考えると相当辛いでしょ」
「でも辛いって言っても人殺しは人殺しよ」
「お母さん、それでね、私、陣野香織に会いに行こうと思っているの」
またお母さんの目がまん丸になった。ピザのチーズがどろっと無情に皿の上に落ちた。
「手紙をよこして来たんだから、まともに話せると思うんだよね」
「会って、どうするの?」
「話すの」
「何を?」
「何をって、事件のことよ」
「ねぇ、絢、今日はね、大切なことを言おうと思ってランチに誘ったの」
「何?」
「絢、お母さんと一緒に住みましょう」
私は今どんな顔をしている?戸惑っている?キョトンとしている?それとも馬鹿馬鹿しくてうっすら笑っている?お母さん、突然何を言い出すの?
「お父さんがね、死んでしまってからずっと考えていたことなのよ。私は教員だし生活も安定しているから、絢もゆっくり就職活動が出来ると思うの。それに、いつまでもあの家に居たら、あの事件のことがなかなか頭から離れないでしょ?」
「あの家を離れたからと言って、あの事件が忘れられるとは思わないわ」
「でもね、絢、環境を変えるべきよ。あの家に居れば色んな残像があるでしょう?だから陣野香織に会いに行くなんて言うのよ。絢は頭も良いし、容姿だって頂けないってわけじゃないわ。お母さんと一緒に住んで、もう一度新しい人生を歩みましょう」
「じゃあ、愛美はどうするの?」
愛美とパチャをあの大きな家で残して去ってしまえって言うの?
今、わかった。今私の顔はきっと怒りで煮え滾るような形相をしているはず。
「愛美ちゃんは・・・お父さんがいるでしょう?」
お母さんは、私を自分が担任をしている生徒一人として考えている。そして、挙句の果てには愛美は隣のクラスの生徒って感じ。隣のクラスは隣のクラスの先生任せで、愛美がどうなろうと関係ない。母親の顔と教師の顔がごっちゃになっている。
「愛美は絶対お父さんのとこなんていかないと思うよ。だって、美代子さんとお父さんが離婚した原因は、お父さんの不倫だよ。あんな綺麗で優しい美代子さんがいるのに、他に若い女をつくっていたんだよ。愛美はそれで傷付いているし、お父さんをもう自分の父親として見なしてないから」
「絢!他人のことよりも自分の幸せを考えてなさい!」
何かが、頭の中が弾けた感覚。パチンって。
「自分だけ逃げるように楽な道に進むことが幸せだなんて思わない!愛美とパチャをあの家に置いて行けない」
寝ていたパチャがこっちを向いたのが視界に入った。そしてまた首を傾げている。「呼んだ?」って風に。
「お母さん、ごめんね。お母さんが私のことを考えてくれているのは感謝しているよ。でもお母さんと住むっていう選択肢は、今の私にはないんだ」
さすがのお母さんも食が進まなくなってしまった。ごめんね。こうやって言ってくれることは悪い気分じゃない。本当にそう思う。実の母親と住むより、赤の他人と住む方を選択するってちょっとどうかしているけど。
でも今はそれが正しい気がするの。