バイアール・ド・スインダム
楽屋とは楽器の調整ができて、着替えられる場所と記憶していたが、どうもそうではない場所も存在するようだ。
漂って来る生臭い匂いで嫌な予感はしたのだが、その中は想像を超えていた。
テントの中を見渡すと、これなら外で着替えた方がましだと思えたくらいだ。
スペースのほとんどはゴミで埋め尽くされ、所々に服が置かれているが、それとて、もう着衣としての機能がほとんど果たしていないような物が多いように見えた。
到底衛生的とは言えないようなテントの一角で、ミレスピーがまずしたことは、鶏の骨や、パンの食べかす、菜っ葉の切れ端等を丁寧にどかすことだ。そして、ゴミの無くなった空間に敷物を敷いて荷物を置いた。
「そんなに汗かいて。これに座って。荷物なんてあとでいいからさ。早く!!」
すぐに楽器を拭きにかかりたかったが、よほど疲れているように見えるのか、パンナがしきりに座るよう薦めてきた。
椅子は薄汚れて黒ずんでいる上、少々傾いている。しかし、これから世話になる身なので、私は仕方なく腰をかけた。きっとパンツが多少黒ずんだ事だろう。
それにしても、この匂いは酷い。ゴミの散乱具合もどうにかならないものだろうか?
「ごめんね。汚くて。でも、みんな祭りの方に頭が行っちゃっているから終わるまではどうにもならないの」
ミレスピーの周りを見る目が気になったのか、パンナは申し訳なさそうな顔をこちらに向けた。彼女はこんな集団の中でも、そこそこの衛生観念と常識を持っているようだ。
私もいつまでもゴミの事など気にしてはいられない。
腰に付けた円筒状のケースからアルコ用の弓を取り出し、張りの調整を始めると、パンナがこちらを面白そうな動物でも見るように見ている。
ミレスピーは楽器の腕前を披露するテストに集中していた為、パンナの顔をよく見ていなかったが、落ち着いて見れば、褐色の肌が似合う美少女だった。これはビジュアル的にも将来かなりの踊り子になるに違いない。
パンナが申し訳程度に周りを片付け始めたので、
「こちらは世話になる身だ。周りの環境に何も文句はない。ただ、一杯水を貰ってもいいか?」
「うん!!すぐに持ってくる!!」
パンナは踊り同様軽い身のこなしで、テントの外へと消えた。その外からは大勢の人が何かを運んでいる音や、焼かれた肉のいい匂いが入って来る。
演奏が終わればきっと、老若男女入り乱れての宴が待っているのだろう。
どこからか楽器の音色も聞こえてくる。ギターがメインかと思っていたが、ブラスの音もかなり多い。これは熱い演奏が私を待っているに違いない。
そんな中、ふと横で何かの気配を感じた。よく見れば、テントの奥の方に椅子に座った人がいた。この場に似つかわしくない正装で、真っ黒なスーツに身を包み、黒いシルクハットを被って、皺の入った目尻を伸ばすようにじっと外の様子を観察している。
「こんにちは。私はミレーミニ・レスピーチェ。今日の祭りに?」
ミレスピーが近くまで行って挨拶すると、正装の人物はミレスピーを二度見した。
「ん?その肌の白さ。お前フルジュームではないな。どうやってここに入った?」心底驚いたという声を上げる。
「私は旅のジョングルールだ。私だけの音楽を創る為、世界を放浪している。祭りに参加させてくれと族長に説明したら入れてくれた。あなたこそ、ここにどうやって?」
齢六十は越えていそうな男性は、礼節を弁えているらしく、椅子から立ち上がると一礼した。
「私はバイアール・ド・スインダム。近くのキキヌンという村で村長をしている」
ミレスピーは手を差し出しスインダムと握手をかわした。
「学長さまがなぜこんなところに?」
スインダムは一瞬目を細めてミレスピーを見ると、手を引っ込め、椅子へ腰を戻した。目線をテントの外に移し、一所懸命に舞台装置や楽器に食事をあくせく運んでいるフルジュームの人々を見ながら話し始めた。
「ふむ。我々の社会は様々な政治形態を試行錯誤し、どのようにすれば争いによる略奪がなくなり、市民が平和に暮らせるのかを模索してきた。君は所有権というものを知っているかね?」
「もちろん。私有財産を認めるという画期的な考えだ」
「そう。国民の理性による適切な判断・・・要は民が暴動や略奪を悪と捉える心を持ち、国家に対し服従する事により、国家は軍や法で臣民の安全と財産を守る。その事により領主同士の戦争や小さな闘争自体も減り、略奪行為は相当数減った。こうして、徴税、侵略者、強盗が弱者から財産を公然と奪う行為が当然の行為として受け入れられた時代は過ぎた。そして平和な街は商業や学業が花開き、行政システムが整った事により、人は昔より労働に専念できるようになった」
あとは軍事国家と平和国家が相容れないという現実的な問題があるが、そこは最早、国のトップが解決していくのが現実的だろう。
ミレスピーは大学の講義を聞いているような気分になった。勉強は決して嫌いではないが、自分は理論よりも感情と感性で生きる人間だと思っている。この話しのゴールが見えるまでには祭りが始まってしまいそうな気がしてきた。
そんなミレスピーの思いに気付いたのか、スインダムダムは申し訳なさそうな顔をした。
「ん?ああ、すまない。学長なんていうから、つい講義じみた話しを・・・」
「いや、続けてくれ。最後が気になる」
スインダムは苦笑しながら続けた。
「人が労働に力を入れると、権力者や資本家が力を持つのは当然の成り行きだ。すると、今度は仕事に人が支配されるようになってくる。『人は賃金の為に働くにあらず』とはよく言ったものだが、だからと言って、そんな社会を実現するのは不可能に近い。君のように何かを生み出せる人ばかりだと、世の中うまく回るのだがね」とスインダムは苦笑しながら話しを続ける。
「そこで、私は高度にシステム化された街とは違う形態で、独自の社会をうまく回している人々に興味を持った訳だ。大学を辞めて色々な場所を回ったよ。ただ、その成果をそろそろ文章にしないといけないのと、私も年を取ったのでここらでそれも終わりにしようと考え、キキヌンに移住したのだ。しかしながら村長をやるはめになったばかりか、近くにフルジュームという面白い人々が住んでいてはおちおち休んでもいられない。結局こんなことをしている次第だ」
さすが社会学者だ。村を使った社会実験と、その為の研究をしているとは恐れ入る。数年も経てば、キキヌンは小さな国家さながらの行政、商業が行われるに違いない。
後ろではパンナが宇宙の言語でも聞いているかのような顔で、目を白黒させて立っている。そろそろこの話題を切り上げる頃合いだろう。
「素晴らしい講義ありがとう。キキヌンはどこよりも社会インフラが整った素晴らしい村になりそうだ。そして、私は演奏の準備をしなければいけない」
「ああ、そうか。すまない。話しすぎた」
スインダムはハットを取ると、白くなった髪をきまり悪そうにかいた。
「いや。こんな話しを聞けるとは貴重な機会だった。次に訪れた時は、是非研究の成果を披露してほしい。あ、そうそう。キキヌンでは、フィーシャとサーシャに世話になった。改めてお礼を言っておいてくれ」
「ふふ。分かった」
スインダムに一礼すると、ミレスピーはパンナから水を貰い、テントの奥へと戻って行った。
「祭りはもう始まるのか?」
「うん。誰かが演奏始めたら自動的に始まるよ。ミレーミニさんの出番は村長が決めるけど、きっと最後だよ」
ミレスピーは、シャツを脱いで衣装に着替えながら、怪訝そうな顔をした。
その横では、乙女のいる前でいきなり着替えるミレスピーが、自分を子供扱いしているとむくれたパンナが明後日の方を見た。
「いきなりふらっと寄った私が大取?間違っていないか?」
「ううん。絶対そうだよ。だって村長、私の踊りを本番まで取っておけって言っていたじゃん。私が踊るのは最後の最後だもん」
あのステップと身のこなしはこの集落でナンバーワンだったという事だ。長い事世界を回っているが、確かにあそこまで情熱的で美しい踊りは一度しか見た事がない。それももう二度とは見られない。
「なるほどな。パンナの踊りは神の授けてくれた贈り物だ。大事にしてより踊りを磨けばきっと世界一になれる」
パンナはそんな事を言われたので、破顔一笑しながらミレスピーの方を振り向いた。しかし、運の悪い事にミレスピーはパンツを履き替えている最中だったので、顔を真っ赤にしてまた逆の方を見た。
「せ、世界一って本当に?」
「ああ。間違いない。踊りも色々あるが、クラシックバレエから地域毎の舞踊、難解なポリリズムに合わせて踊るコンテンポラリーなものまで様々な踊りがある。パンナの踊りは、私が見たどの踊りよりも情熱的で美しい。これは保証してもいい」
パンナはそう言われて胸の中で何かが燃えた。このミレスピーという男がお世辞を言う事はまずないだろう。
「じゃあ、そうなるように音楽頑張ってよね!!」
「ふふ。プレッシャーだな。まあ、パンナに合う曲を選曲するさ」
「約束よ!!」
そう言うと、パンナは鼻息荒くテントを出て行った。きっといても立ってもいられなくなって、踊りを練習しに行ったのだろう。
では、私も少し時間はかかるが、より面白くなる準備をしてあげよう。
ミレスピーは荷物の紐を解いた。