第二部 〜祭り〜 少年ユハース
その弐 〜祭り〜
岩肌に囲まれてはいるが、そこはすり鉢状の盆地で、開けた原っぱでもあった。斜面もほとんど平面と変わらない程度なので、羊と山羊が気持良さそうに草を食んでいた。牧羊犬を従えた白いローブの少年が、杖を持ってその羊達をじっと見ている。と、思ったが、少年は立ったままゆっくりと船を漕いでいた。これでは見張り番にもならない。きっとここに来るときの疲れが取れきっていないのだろう。餌だらけなので羊も山羊も逃げる心配はない。気をつけなければいけないのは狼と熊だけだが、こうして外から見知らぬ人が来ることもある。牧羊犬だけが、外部侵入者に過敏に反応して、グァウグァウ!!と吠え始めた。
ようやく現世に戻って来た羊飼いの少年が目の前に立つ私を認識した。あまりに驚いたのと、叱られると思ったのだろう。集落の方を首がねじ切れそうな勢いで振り向いた。誰も見ていないことを確認すると、安堵のため息を漏らして私を見た。
「どうも。少年よ。ここはフルジュームの集落で間違いないか?」
「あ、あんた誰?」
震える声で、どう見てもまともではない旅人を品定めするように少年はミレスピーを見る。
「私はミレーミニ・レスピーチェという旅のジョングルールだ」
「え?みみーちぇ?」
「まとめてミレスピーと呼んでくれ」
恰好からして怪しい上、名前もまともに覚えられないとあって少年はいよいよミレスピーを警戒し始めた。牧羊犬をいつでも飛びかからせるように、杖を若干構えた事からも間違いない。
ギョロッとした大きな瞳をミレスピーに向け「で、そのミレスピーさんはここに何をしに来たの?」
「ああ。これからここで祭りが開かれると聞いてな。それを見物しに来たのだ」
こんな辺鄙なところに祭りを見に来る人物など聞いた事もない。少年は首にぶら下げた角笛にも手をかける。
危うく集落にいる大人達を呼び寄せられるところだった。少年がそれをなんとか止めたのは、ミレスピーが眼にも留まらぬ早業で少年に賄賂を見せたからだ。
こんな山奥で生活をしていれば甘いものを食べる事などまずない。それが甘い砂糖をコーティングされたバターたっぷりのロールパンともなれば、食べられる可能性など天文学的な低さだろう。仮にそんな物が集落に入ってきたとしても大人に取られて、この少年がそれを食べることなどないと断言出来る。
「ええと・・・その・・・何で・・・その・・・お祭りなんか・・・・・・・・・」
最早ミレスピーが危険なのかはどこかに行ってしまい、目は甘いロールパンに釘付けになっている。牧羊犬がどうするんだよ?と主人を見上げても、「待て」の手の平が返ってすら来ない。
「ふむ。その話しをする前におやつなどどうだ?」
少年はもう一度後ろを振り向き、誰もこちらを見ていない事を確認した。
「あの・・・これ・・・本当に・・・・・・・・・」
疑り深い目をミレスピーに向けたが、期待の為に今にもパン目掛けて手が飛んできそうだ。
「あとで口を拭くのを忘れるなよ」
ミレスピーが少年の手にパンを預けた瞬間。少年は味わうという行為を恐れたかのような速さであっという間に平らげてしまった。
「くふぅ!!こんな・・・こんな美味しいものがこの世にあるなんて!!」
涙まで流しながらミレスピーに感謝の言葉を述べるこの少年は、しばらく幸福の絶頂から抜け出せなかった。
隣では、一向に主人から指令の来ない牧羊犬が、主人がまったくのふぬけなので、本来の仕事を始めてしまった。一匹の羊がとことこと群れを離れそうになったのだ。
「美味しかったか?改めてこの集落のことを少し教えてほしい」
「もちろんさ!!俺はユハース・マーテー。羊飼いだ」
ユハースは指を舐めながら、最後の最後まで甘い砂糖の味を思い出しているようだ。
「ユハースか。名字がまんまだな。で、この集落の長は誰だ?」
「ああ。族長はヴィオレルさんだよ。あそこの一番大きな馬車にいるよ」
「なるほど。どんな人か教えてくれ」
「結構年で、多分もう七十歳近いんじゃないかな。いっつも眉間に皺を作って苦虫を噛み潰したような顔をしているけど、客人には礼儀正しいよ。きっとミレスピーさんなら内容次第では話しを聞いてくれるよ」
この族長だからスインダムの話しを聞いてくれたのかもしれない。いや、スインダム程の人物だ。きっとそれを知っていて、ここの族長に話しを聞きにきたのだろう。貿易のためではなく社会学の研究の為とみて間違いない。こんな特殊な環境に住む人々はそうそう存在しない。
まあ、それはそれだ。私にもやらなければいけない事がある。
「ここの祭りについても大まかでいいので説明してくれ」
「うん。お祭りは今日の夜から明日の朝までずっとやるんだ。ここの神様に捧げる歌をずっと歌って、踊り子が踊って、最後に一番元気な山羊を神様に奉納してお終いだよ」
私は楽器の袋からバスのヘッドを出して少年に見せた。
「その音楽に参加してもいいのか?」
ユハースは、真っ黒だが何かをコーティングして光沢を出した美しいヘッドを驚いた表情で見ながら「技量があれば族長が大丈夫って言うと思うよ。だって他部族からも演奏者が沢山来ているしね。それなんて楽器?僕見た事無いよ」と言った。
楽器の全容を見たそうな目はきらきらと輝いている。
「ああ。これはスティックという楽器だ。ギターとベースを掛け合わせたような楽器で、タッピングという弾き方で鳴らす」
「うへえ。何言っているのか一つも分からないよ。あ、やべっ!!そろそろ羊を小屋に入れないと。お兄さんありがとうね!!」
そう言うと、ユハースはようやく牧羊犬に指令の杖を向け、羊を小屋に入れる作業に入った。牧羊犬はやれやれという顔で羊を追い込み始めた。
十数匹の羊が面倒そうに集落方向に進むのを横に見ながら、ミレスピーは村長のいるという一際大きな幌馬車の方へと進んだ。そこには必ず見張りがいるはずだ。
祭りにむけて最後の準備が進められているのだろう。時折怒号ともとれるような大きな声も聞こえて来る。男も女も何かの木材や布、食材を大慌てで運んでいるのが見える。