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南溟の断証(ゴリアール)  作者: 雅夢
間章Ⅲ
42/42

 戦時量産型駆逐艦「松」型の評価と実態(後編)

「松」型駆逐艦がお題の作品の後編です。


 〈 「松」型駆逐艦の戦歴 〉


 「松」型駆逐艦の個別の戦歴に関しては、「松」型の建造数が多数に及ぶため概略を記すに止めておくことを断っておく。

 「松」の竣工後、「松」型駆逐艦は順次竣工しその後第十一水雷戦隊にて錬成を行い完了した艦から昭和一九年(一九四四年)四月一五日附けで第四三駆逐隊として編成され、最終的には六艦すべてが第四三駆逐隊に編入され、更に連合艦隊で対潜戦闘。船団護衛を主任務とする第三一戦隊へ編入されたため第一次建造分の「松」型はすべて連合艦隊所属となり最前線へ投入され「松」「梅」「桃」「桑」の四隻が戦没している。

 その後に、竣工した艦も順次第十一水雷戦隊で錬成後は連合艦隊へ配置され、この頃からフィリピン方面へ米軍が侵攻を始めたことから本土とフィリピンへの物資や兵員の輸送や船団護衛に従事することとなったが前述の「桑」と「檜」「楡」が戦没し多数の艦が損傷を受けているが、機関のシフト配置が功を奏して被弾しても稼働可能な片側の推進器を使って戦場を離脱することで難を逃れている。

 本来は船団護衛用も考慮に入れた汎用駆逐艦として建造された「松」型であったが、当時の連合艦隊では対潜能力の高い護衛艦艇が不足していたこともあってその多くが連合艦隊に配備されフィリピンなどの前線の激戦地へ投入されることとなった、本来は艦隊型では無い「松」型駆逐艦であったが主力艦艇が戦場に到着する前に敵潜水艦から大きな損害を受ける。事態に対応する苦肉の措置であった。つまり、雑用にと建造した艦に守ってもらわないと戦場へ赴けないと言うことであったのだ。

 更に昭和二〇年に入ると、連合艦隊は主力艦艇の多くを失い組織的艦隊行動は不可能となり「松」型駆逐艦の残存艦の多くは既に連合艦隊より独立していた海上護衛隊、改め海上護衛総隊に編入され停戦まで南方の資源地帯やフィリピンと本土を繋ぐ細く脆い海上通商路を守ることとなり、ここに来てようやく初期の構想に沿った任務に従事することとなった訳である。

 この頃になると、主役の連合艦隊は数を減らし軍港内に逼塞こととなり、海上の通商路は下働きとして組織したはずの海上護衛総隊こととなり、「松」型と海防艦がその主戦力となって立場は逆転することとなった。


 また「松」型駆逐艦は全艦が本来は二等駆逐艦に付けられる草木の名が使われたことと、様々な植物名が文字通り百花繚乱し乱立したことから「雑木林」と呼ばれることもあった。

 また、それまでの艦隊型駆逐艦に比較して、対艦兵装、速力とも抑えられていることから戦後にはしばしば護衛駆逐艦と分類する事例が確認されているが、前述の通り「松」型駆逐艦はいわゆる護衛駆逐艦として計画・建造されたものではない。


 ( 派生型 )


 「松」型には、基本の「松」型とその改良型である「橘」型以外にも「松」型を基本とした派生型が幾つかある。

 その最大のものが海防艦であった。

 この船団護衛に特化した所謂ミニ駆逐艦は、当初北方の警備用に建造されたのが最初であった。

 そもそも海防艦という艦種は太平洋戦争開始前は沿岸や拠点、領海警護を行う旧式主力艦の総称であった、しかし太平洋戦争突入後は船団護衛などを行う対潜能力を強化した小型護衛艦艇に対する艦種へ変更された。

 最初に建造されたのが前述の北方警備艦である「占守」型であったが、これは新海防艦が定義される前に警備艦として建造されたのもであった、以後南方での行動に不要な強力な暖房や融雪装備などを外して最初から海防艦とし設計・建造された艦が五型五〇隻ほどが建造されこれらは後に甲型と総称された。

 しかし、戦争が激しくなると護衛艦艇の不足が深刻となり、本来であれば船団護衛に期待できた「松」型も連合艦隊に優先的に配備されたことから急遽の策として小型の護衛艦艇が建造されることとなった。


 この、より安価で短期間で多数を建造する目的で建造されたのが丙型と丁型の海防艦であった。この二種の海防艦は基本は機関がディーゼルとタービンの違いだけで艦のサイズや性能は最大速力を除けばほぼ同等であった。

 基準排水量七五四トン 全長六七.五mの小型艦で、二三号乙型艦本ディーゼル二基一九〇〇馬力 最高速力一六.七ノット、主砲に四五口径一二cm高角砲単装一基(艦首)連装一基(後方)機銃は簿式連装二基、二五mm機銃単装八基(変動あり)、爆雷三式投射機一六基爆雷一二〇発と小さいながら対潜戦闘用として十分有用な戦力であった。

 尚、主砲として搭載された四五口径一二cm高角砲(正式には四五口径十年式一二cm高角砲)は旧式の駆逐艦などに主砲として搭載されていた四五口径三年式一二cm砲を高角砲化した砲で既にこの時点で旧式化していたが、軽量で小型艦には使い勝手が良いのとそれに代わる適当な砲が無いことから海防艦の標準砲としてこの砲が搭載されていた。

 この砲は基が高角砲であることから対空対艦双方に対応できるが、「松」型の八七式一二.七cm同様に高角砲用の射撃式装置を持たなかった為効果的な運用は出来なかった。

 海防艦の建造は主に民間の中規模造船所で行われ、一年で五〇隻を超える艦が竣工している。


 尚、先に記した諸元は丙型のもので、丁型は丙型のディーゼルが生産不足となる可能性を考えたタービンを機関とした艦で、タービンは戦時標準船向けの蒸気タービンを一基一軸二五〇〇馬力で一七.五ノットを発揮した。

 丙型丁型の海防艦は、正確には「松」型の直接的な派生型とは言えないが生産性を向上させるための平面で構成される船体、ブロック工法と電気溶接の全面的導入など「松」型との共通点は多い、しかし、この小型海防艦は量産できたものの速度の遅さと居住性の悪さから本格的な遠距離護衛には向かず日本近海用(それでも沖縄や小笠原諸島あたりまでの航路には投入されている。)として使用された。


 結局フィリピンやシンガポールなどへの遠距離護衛任務には投入できる戦力は不足したままであったので、この点を改善すべく建造されたのが新甲型と新乙型であった。

 これらの艦は 、前述の甲型海防艦に準じた大きさであるが、建造には「松」型の船体型が流用され、外見的には雷装のない「松」型であった。

 実際、これらの艦は「松」型の雷装を廃し主砲を他の海防艦と同じ四五口径一二cm高角砲単装一基(艦首)連装一基(後方)した点が外見上の違いであったが、機関は航続距離を伸ばすために燃費の良いディーゼルを採用している、本艦に積んだのは艦本ディーゼル二二型を元に気筒を二つ増やして一二気筒にした二八型で二基五一〇〇馬力で最高速力二二ノットを出すことができた。もちろん「松」型の同様に機関はシフト配置であり同様に被弾に強く生存性を高める結果となっていた。

 尚新乙型は、ディーゼル機関の生産が間に合わない事態を想定した予備的な建造であった、機関は丁型と同様のボイラーと蒸気タービンを二基二軸で五〇〇〇馬力、最大速力二一.四ノットなっていた。

 しかしながら、これは丁型と同様であるがディーゼル搭載艦と比較して燃費が悪くなるため重油タンクを増設していたがそれでも航続距離は短くなっている。

 但し、タービン搭載型はディーゼル特有の振動が無いことから水中聴音時に雑音が入らず対潜戦闘で強力な戦力とな戦力となったため船団護衛の際は護衛部隊の指揮艦を務めることが多かった。


 新型の甲乙共に、母体である「松」型の長所も多く引き継いでおり生産のし易さと操艦の容易さは本型の特徴として用兵側に高く評価されている、加えて「松」型を大きく上回る一二〇発の爆雷に一六基の爆雷三式投射機と対潜能力の高さは特筆すべきものであった。なお三式爆雷投射機は所謂K砲と呼ばれる片舷攻撃用で一基の投射機で一発を投射す形式であった、それまでのY砲が両舷を同時攻撃する物であったが大して、片舷ずつを集中して攻撃できるのが特徴であった。また爆雷は前述の三式爆雷を主に使用していた。

 この新型甲乙型は、全国の中小の造船所や軍の工廠で後の自動車の大量量産を思わせる規模の建造が行われ、停戦までに両型合わせて二〇〇隻を超える艦が建造、内一八〇隻が完成して海上護衛総隊に所属して船団護衛にあたっている。

 また、ここでは新甲型、新乙型と記しているが甲Ⅱ型乙Ⅱ型、改甲型改乙型など記録には残されているが海軍の正式な書類上の名称は「第一〇〇型海防艦」「第一〇一型海防艦」である、これは新甲型の一番艦が第一〇一号海防艦で新乙型の一番艦が第一〇二号海防艦で、建造数が多数のため名称でなく番号を呼称としたためで、先に建造された丙型以降の海防艦には艦名は付かず、「第一号海防艦」と言うように番号名で呼ばれていた、丙型では一号艦から奇数の番号がふられ丁型には偶数番、新甲型には一〇〇から始まる偶数番、新乙型には一〇一から始まる奇数番が割り付けられている。


 そしてこの海防艦に勝るとも劣らぬ活躍をなしたのが、もう一つの派生型であるは「第一号輸送艦」である。この艦はその名から判るように戦闘艦では無い、しかし、敵に制空制海権を奪われた状況下で強行輸送を行う艦でその任務の苛烈さは戦闘艦と何ら変わらぬ物であったため駆逐艦の艦型を元に建造されている、基本は「松」型の船体を元に設計され艦前部はほぼ「松」型であるが後部は大きく変更されている。

 先ず輸送任務に不要な魚雷発射管は撤去されそこには複数のデリッククレーンが設置されている。そして艦尾部はこの艦の最大の特徴とも言えるがスロープが設けられて大発動艇の運用が可能となっていた。

 このスロープにより一号輸送艦は、停止すること無く物資や人員をのせた大小各種の発動艇を発進させることができた。これはそれまでの商船や駆逐艦を使用した輸送任務の際に大発(大型発動艇)を海面に下ろしたり海上の大発に物資や兵員を乗せるために停止した状態で敵襲を受けて大発共々、物資や兵員やそれを乗せてきた商船や駆逐艦までもが喪失する事例が多発したことに対する解決策であった。

 それまで帝国海軍では、旧式化した駆逐艦を哨戒艇へ改造する際に搭載していた発動艇を迅速に発進させるために船尾にスロープを設けたものがあり、この第一号輸送艦はそれを設計段階から本格的に使用することを前提とした船と言う訳であった。

 艦の構造は、「松」型駆逐艦を基本としているが艦の幅は「松」型の九.三五mから一mほど広げられて一〇.二mとなっている、これは艦上で大発を運用する際にそのままではやや幅が狭いためでこれにより「松」型と同じ機関ながらやや速力は低下している、上甲板上には両舷に沿って艦の中央付近から艦尾まで大発を移動させるための軌条が設置されている。

 武装は、艦首に「松」型と同様に八七式一二.七cm(四〇口径)を連装一基装備しているが連装が搭載できたのは唯一の備砲であることを考えれば艦幅が広がった恩恵と言うことができる。

 また機関は、「松」型と同じで「鴻」型のボイラーとタービンを二組二基ずつ搭載し当然だがシフト配置に載せられている、しかしながら「松」型の様に後部煙突が右にずれた配置では前述の大発の移動軌条の敷設の際に障害となるので工数の増加を承知の上で中心線上に移動されている。

 当初、機関を一組として船倉を広げより多くの物資を運ぶ案も出たが、被弾時に従来の駆逐艦同様に一発の被弾で行動不能になる危険性が高く、敵の制圧下に突入して物資を運ぶ役割を持つ艦としては脆弱すぎるとの考えから二基二軸のままとし船体を一〇mほど延長して船倉を広げる措置をしていた。

 最終的に、この一等一号型輸送艦は、全部で四〇隻余りが建造されたが敵制圧下に飛び込む性格上損耗も多く停戦時には残っていたのが一二と言う損耗度合いであった。

 尚、資料によっては一等輸送艦との名称が記されている例があるが、これは一等輸送艦に分類される輸送艦が第一号輸送艦のみであった為で、どちらも同じ艦の呼び名となっていた訳である。


 〈 総括 〉


 「松」型ならびに改「松」型駆逐艦は、傑出した性能を持つ艦では無い。

 寧ろ従来の駆逐艦のような強力な雷装を持たず、低速で航続距離の短いが故に「松」型は連合艦隊へ組み込まれれば「足手まとい」と酷評された、「従来の艦隊行動ができない」と言うのが理由だ。

 勿論この意見には一理はあるが「『松』は、数が多く沈み難いだけだ。」との評は事実ではあるが、逆に「松」型の尤も大きな利点を示していると言っても過言では無い。 

 「松」型は、冷酷だが沈められる数以上に建造することを目的に設計・建造された艦である、であるなら「数が多い」というのは褒め言葉であるし、傑出した性能を持たない代わりに「沈み難い」、正しくは「戦力を喪失しにくい」艦として設計されていたのだ。

 機関のシフト配置は、一発の被弾で動力全てを失うような事態を避ける為の方策であったし、実際に片軸の推力を失っても反対側の推進器で戦場を離脱でき生存できた例は多く、一緒に行動していた甲型駆逐艦が一発の被弾で機関室が全損し停止した時、同じく被弾しながら「松」型は片舷の推力で生き延び、しかも被弾停止した甲型の生存者の救助すらしていた例もあった。

 戦争末期、南方との通商路が辛うじて維持され少なくない戦略物資が本土へ輸送されることで我が国の戦力が維持できたのは明白な事実である。

 その立役者がこの「松」型とその改良型である「橘」型であり、そこから派生したと言って良い大小の海防艦や輸送艦の姉妹たちであったと言っても良いであろう。

 そうであれば、昭和一九初頭より「松」とその妹たちが就役したのは幸いだったと言って良いだろう、もし半年遅れていたら或いは建造されていなければ日本を支えた海上通商路は失われ戦力を維持できないまま我が国が失われたことであろうことは想像に難しくは内ないからである。

 戦争末期には、通商路を行く船団には「松」型を筆頭に新旧大小の海防艦が周囲を固め時には「海護」型護衛空母もいた様子を記した記述が多く見受けられる、それこそが帝国海軍のその戦争で見つけ出した答えと言って良いだろう。

 更にそれに加えるのなら、「松」型や海防艦など戦争末期に建造された艦船に用いられた、電気溶接やブロック建造法は戦争終結後に我が国が造船大国となり海運国家としての地位を築くその礎となり戦後復興の大きな力となったと言ってもいい。

 また、戦争終結時に生き残っていた「松」型駆逐艦と海防艦何隻かはその後に帝国海軍を改変して生まれ変わった海上自衛隊の艦船として戦後海上通商路の警備のスタートを担いこれもまた戦後復興に寄与し、それまでは敵対国であった英米と共に対共産主義の防波堤として生涯を終えることとなったのである。


 そして、この論文を執筆中の最中、奇しくも停戦から八〇年となる令和七年(二〇二五年)十一月十三日に、二隻の新たな艦が三菱重工造船所にて進水した。

 艦種は哨戒艦。

 このこれまでに海上自衛隊には無い艦種は、海上自衛隊が日本の周辺海域で脅威度を日ごとに増させていた近隣国の艦艇を警戒監視と領海内警備を行う為に新たに整備した軽武装の多目的艦だと言う。

 新たに建造された二隻の哨戒艦には「さくら」と「たちばな」名が与えられたが、この艦名は帝国海軍の艦艇に詳しい諸兄であればピンと来るであろう。

 その名は、宮廷の紫宸殿の左右に並べて植えられた「左近の桜」「右近の橘」に因んで命名された。明治時代建造の二等駆逐艦の「櫻」型の一番艦と二番艦を引き継ぐ形で艦名であった。

 しかしながら、「松」型を題材に論文を認めていた筆者などにすれば、「櫻」「橘」という艦名は先の大東亜戦争の末期、壊滅しつつあった帝国海軍の中にあって尚も南方との物資輸送の海上交通を死守するに奮戦した末に海に没した「松」型駆逐艦の十三番艦の「櫻」とその改良型である「橘」型一番艦の「橘」の名を思い起こさせるものであった。

 基準排水量一九〇〇トン 全長九五m、武装は現状では三〇mm機関砲一門という軽武装は艦のサイズと相まって尚更「松」型を思い起こさせるものである。

 現在は、進水が済み艤装が行われると言うことで完成した姿を見るのはまだ少し先のことであるが楽しみな話と言うことになる。


 国を護り、民人を護るために生まれた艨艟たちの猛き魂を引き継ぐ彼女たちに少しばかりの未来を託してこれを締めくくろうと思う。 



 お待たせしました、本当はもっと早く投稿できるはずでしたがTV録画用のサブPCが不調になってそれを直すのに時間が掛かってしまい間が開いてしまいました。

 また、今回は戦闘シーンが全くありませんので期待されてて方申し訳ないです。近日中にその辺を書いた作品を投稿したいと思います。


 では、いつも通りですが感想や意見、誤字脱字がありましたら一報ください。

 

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