踊る鴨と七面XⅢ
お待たせしました。
最初に艦隊の各艦が登載するレーダーが捉えらえたのは、艦隊外縁に現れた大規模な空中目標の集団だった。
それも複数個所に同時多発的にである。
米海軍のIFF(敵味方識別装置)に反応しないそれは、当然敵である日本軍の攻撃隊とも考えられたが、既に台湾の敵航空戦力は米海軍の空襲とその後の防空戦でその殆ど壊滅していると考えられていたことからこの時点でこれ程の規模の攻撃隊を差し向けることは不自然と考えられ、当初はシステムの故障あるいは障害とも考えられた、ただ艦隊各艦のレーダーが同時に使用できない状態にあることは明らかに不自然であった。
従って日本軍が何らかの作戦行動を起こしているとする可能性も懸念され、懸念は疑念を生み艦隊内に混乱と緊張をもたらすこととなった。
結果、謎の反応に対する確認には上空警戒中の直掩機が駆り出されることとなり、彼らは反応が現れるたびに艦隊周辺を駆け回される事となった。
そして、指示された空域へ向かったパイロットたちを待ち受けていたのは〈ウインドウ(後にチャフと呼ばれるレーダー波欺瞞紙の連合軍の秘匿名称)〉と思われる中を漂う金属箔と日本軍戦闘機の編隊であった。日本軍機は不意を突く形で米軍機を襲撃するとすぐさま反転していった。
こうした状況から、レーダーの障害は日本軍の航空機が散布した欺瞞箔によるもとの確認され、やがてその反応が消えると同時に日本軍機も撤退していった、が第2群は安堵する暇なく新たな事態に襲われることとなった。
米海軍駆逐艦DD-586ニューコムは、太平洋戦争時の米海軍に於ける主力駆逐艦であるフレッチャー級の一隻として建造され、今回の作戦行動では艦隊の外周でレーダーピケット任務を担う艦の一隻であった。
当艦のレーダーも一時的に使用不能となっていたがそれが回復した直後、艦中央から火柱を吹き上げるとやがて艦上が炎に包まれた。
そして、その直後近くを航行中のDD-477プリングルも同様の惨事に見舞われた、ただニューコムより不運であったのは消火に手間取る間に火薬庫へ火が回り更なる爆発の発生により船体が二つに折れ曲がって沈没していった。
この後、2隻の駆逐艦と1隻の軽巡洋艦が同様の被害を受けたがこれが何によるものかは不明であった、当初、敵潜水艦による雷撃が考えられたが航走音を含む痕跡がまったく見当たらないことから機雷による可能性も考えられた。
やがて、被弾艦や周辺の艦から『炎上しながら航空機が突入した。』との報告や周辺空域に日本軍機と思われる姿が確認されたことから、一連の事態は日本軍に依るものであるとの結論が出された、そして幾つかの目撃証言から日本軍が使った兵器が一種の滑空爆弾であることが判明した。
もたらされた報告の中には「回避しようと転舵した艦を向きを変えて追尾して突入した。」と言うものもあったが、日本に対して技術的に遅れているとの認識を持つ司令部はそれを一笑に付した。
この米機動部隊に対して一矢を報いる攻撃を担ったのは、三木森彦少将麾下の二五一航空隊であった。
三木少将が、マタ船団の九六式艦攻がもたらした台湾南方沖の米機動部隊に対して指揮下の二五一空をもって当たる決断をするに至ったのは、本来攻撃の主力となるべき第二航空艦隊の各部隊が不確かな戦果を遺して半ば崩壊し、台湾の各基地に配備されていたその他の陸海軍の戦力も同様な状態であったが為であった。
これらの部隊に対して二五一空は比較的に軽微な損害で済んでいた。
これは同航空隊が戦闘機部隊であったことに加えて、第二航空艦隊司令部の出した❝敵艦隊殲滅❞の報を安易に信じず戦闘態勢を維持し警戒を続けていた為であった。
その結果皮肉にも、敵機動部隊への攻撃は二五一空が中心にならざるを得なかったが同航空隊は前述の通り戦闘機部隊である、従って敵機動部隊を攻撃したくても手段が無かった。
しかも実質的に台湾駐留の対艦攻撃戦力は壊滅していたと言って良かった。
そこで、彼は第二航空艦隊に同行して台湾へ派遣されながら装備の関係で戦力外扱いされかえって戦力を温存する結果となった横須賀航空隊の陸上爆撃機〈銀河〉八機を活用する手を考えた。
勿論、三木少将には横空へ命令する権限は無かった、しかし、その装備の活用の機会を窺っていた派遣隊指揮官の仁科大尉はその要請の体裁をした命令に従って攻撃に参加している。
今回、〈銀河〉隊が米機動部隊も攻撃に使用したのは、空中魚雷の異名を持つ試製ロ号誘導滑空弾であった。(『太刀魚が翔んだ空 後編Ⅱ』参照)
ロ号弾は、陸海軍が共同で開発しながら試作止まりとなったイ号滑空誘導弾を発展強化した電波誘導式の滑空弾で、そのの形状は魚雷型の弾体の中央上部に推進機であるロケットモーターと一体となった主翼を配し、弾体尾部には水平尾翼と小型の双垂直尾翼を持つ形態をしていた。
性能諸元としては全幅四メートル、全長六メートル、五〇〇キロの弾頭を持ち特呂一号二型のワルター・ロケットエンジンを用いて時速六二〇キロまで加速し最終的には一〇〇〇〇メートル先の標的に到達する能力を有していた。
運用方法は、陸上攻撃機或いは爆撃機を母機として戦場近くまで運ばれ、母機から切り離され特呂液体ロケットエンジンによる九〇秒間の噴射により加速され、以後は滑空して標的に向かう、この際母機に搭乗する爆撃手の操作により目標まで誘導され突入することとなる。
同弾は、誘導装置が正しく機能すれは非常に高い命中精度をもっていたが幾つかの問題が有った。
その最大のものが射程の短さであった。
同弾の射程は最適な条件で投下しても一〇〇〇〇メートル前後である。
これに対して、当時の一般的な米機動部隊の輪形陣のサイズは半径約六五〇〇メートル、そしてその外周には最大有効射程距離七〇〇〇メートルを超えるMk12 5インチ砲(12.7センチ砲)を登載した駆逐艦などが守りを固め、更にその周囲には多数の戦闘機が警戒に当たっていた。
こうした状況から、ロ号弾では輪形陣最深部に位置する空母や戦艦に届かせるのは無理であると言えた。
加えて、同弾を誘導する母機はそのまま目標に接近する必要があり命中時には四〇〇〇メートルにまで接近する結果となる、であるなら殆ど実用化の可能性は皆無と言ってよくなる。
であるなら、ロ号弾は実戦に於いては使用する余地がない役立たずな兵器なのか?
それはある意味当然の疑問である、がそれに対する答えの一つが今回の台湾沖海空戦に於ける三木森彦少将の実践事例である。
「何、正面切って殴りあうばかりが戦いでは無いさ。」
作戦伝達の為に、指揮所の天幕に集められた各部隊の指揮搭乗員を前に三木少将はそう切り出すと作戦を下命した。
最初に動き出したのは四機の艦上偵察機〈彩雲〉で編成される索敵部隊であった。
台南基地を飛び立った彼らは敵機動部隊が発見された海域を中心に左右に十度づつずらして飛行し、十五分後には更に四機の〈彩雲〉がやや針路をずらして偵察飛行に飛びだった。
彼らの目的は、敵艦隊の現在位置と近隣に発見された艦隊以外の敵艦隊の有無の確認であった。
やがて、敵艦隊の最新の位置が確認され、周囲に他の艦隊が居ないのが確認されると〈彩雲〉は現状確認のために残る数機を残して全機が一度基地へ帰投、給油後に再び敵機動部隊に向けて飛びたった。
但し今度は単機ではない、一機の〈彩雲〉に対し、一個飛行小隊四機の〈烈風〉或いは〈瞬雷〉が随伴していた。
戦闘機隊の任務は、〈彩雲〉の援護だけではなく遭遇する敵戦闘機を狩る三木少将の言う戦闘機掃討戦であった。
それだけではない、〈彩雲〉の操縦席内の偵察員席では偵察員が巨大な布袋を抱えていた。やがて機体が敵艦隊の輪形陣の外縁に到達すると〈彩雲〉各機はその袋から大量の銀片を空中に放った。
それは、錫箔を紙に貼り付け短冊状に裁断したものであった。この短冊状の錫箔紙は極めて良好な電波反射特性を持っていて、これが空中へ大量に散布されることで敵レーダーの働きを一時的に遮断、或いは攪乱させることが出来た。
このレーダー欺瞞紙、又は欺瞞箔と呼ばれるこの錫箔紙が散布されたことで敵艦隊は自慢の電波の眼を一時的に失うこととなった。そして、事実確認のために戦闘機隊が差し向けられたが欺瞞箔の雲に紛れて姿を隠していた戦闘機隊の不意打ちで二〇機近い数のF6F・F4Uが撃墜されたが二五一空が出撃させた戦闘機の数が四〇機足らずであったことを考えると大きな戦果と言って良かった。
ここでさらに注目すべきは、予期していなかった欺瞞紙の散布と戦闘機掃討が行われたことで敵の第二群司令部が混乱に陥ったことにあった。
そして、今回の真打の登場である。
八機の〈銀河〉は護衛の戦闘機を引き連れて戦場へ現れると、携えてきたロ号弾をその射程ギリギリの位置から外縁に位置する駆逐艦や巡洋艦に目掛けて発射した。
登載された特呂一号液体ロケットに点火されると、炎を引きながらロ号弾は加速し九〇秒間の噴射で弾速は六二〇kmに達した。
やがて噴射が止まると、後は無動力の滑空弾として飛翔し弾体後部に充填された発光体の発火による光を目印に、爆撃手席に座った射手は設置された小型の操縦桿によってロ号弾を操って目標へと到達させた。
横空の〈銀河〉隊は全八機がロ号弾を登載して出撃したが、内一機が発射前に敵戦闘機により撃墜されため発射されたのは七発であった。
そして、特呂ロケットの燃焼終了後に二発が操縦装置が機能せず目標を逸れて海面に向かい、更に一発が対空砲火で撃墜されたために最終的に敵艦へ向かったのは四発であった。
そしてその四発の中で敵艦へ命中したのは三発で、一発は目標を捉え損なっている。
米海軍の記録によれば、五隻が何らかの攻撃で損傷したとされているが、このうちロ号弾によるものは三隻である、後の二隻は恐慌した各艦が無闇矢鱈と対空砲火を放ったことから同士討ちである可能性が後年指摘されている。
第二群司令部はロ号弾の攻撃により更なる混乱をきたした、そして彼らはここで気付いた。
大規模な電波攪乱に伴って行われる戦闘機掃討、そして、輪形陣外周の駆逐艦への攻撃。
日本人は、攻城戦と同様に堅塁を外から突き崩そうとしている。
であるならば、次に来るのは攻撃隊の主力である筈である。
そう結論付けた第二群司令部の主だった者たちは、これ以上同海域に留まるのは被害を大きくするだけとし、艦載機が帰投次第南下して当該海域を脱するように命じた。
これにより台湾沖海空戦は終結した。
米海軍第三八任務部隊第二任務群司令部は、二五一空の攻撃を本格的攻撃の前段と評価して撤退を判断した。
しかし、これを日本側から見ればまた違うものが見えてくる。
既に記したように、攻撃を指揮した二五一空司令の三木少将の麾下には対艦攻撃戦力は無く、僅かに参加した〈銀河〉が携えた八発のロ号滑空誘導弾唯一の対艦攻撃戦力であった。
また、台湾における航空戦力もそのほとんどが連日の米機動部隊の攻撃で失なわれており、本土から増援は未だ検討すらされていない状態であった。
これが事実であった。
しかし、三木少将は手持ちの戦力をもって敵に大規模攻撃が有ることを示唆し、撤退するように仕向けた。
「まったく、これではペテンですね。」
最初に三木少将より作戦概要を伝達された〈銀河〉隊の仁科大尉もそう評して黒い笑みを浮かべていた。
戦後の歴史資料では、台湾沖海空戦は米側の圧倒的勝利と記す物が多い。
確かに、全体に於いて戦闘は終始米軍が主導権を持ち大きな戦果を挙げていた。しかし、マタ船団を廻る攻防戦と第二任務群への襲撃に限れば日本軍も善戦したと言って良いだろう、少なくとも一方的に叩かれる状況ではなかった。
そして、この日本海軍の一部隊の善戦は以後の戦いにささやかは変化をもたらした。
この戦いにおける最大の教訓を得たのは海上護衛総隊であろう、彼らは試験的にマタ船団に配備された大小の艦艇が持つ対空と対潜の能力を高く買い、マタ船団に配備された艦艇と同程度の戦力の拡充を求めた。
横空もまた大きな戦訓を得た、当初は射程の短さから使い道が限定されると考えられていたロ号誘導滑空弾に新たな活用法が提示された為である、同弾は仁科大尉が中心となり運用と性能の刷新が行われた。
後にロ号弾は、決定版であるロ号丙型滑空誘導弾が開発されたことで戦争末期の主力兵器となった。音響自動追尾能力を持つ同弾は、陸軍の四式重爆撃機〈飛竜〉か海軍の四式陸上攻撃機〈峻山〉登載されて運用され、投下後は途中まで電波誘導を行うが途中から突入までは目標の放つ対空砲が発する衝撃波を感知して追尾する能力を持ち撃ちっぱなしが可能となっていた。
なお、ロ号滑空誘導弾は正式採用後に〈桜花〉の名称を与えられていた。
しかしながら、彼らとは対照的に教訓から学ばない者、拒否するものは確かに居た。
その最たる者が、連合艦隊であり第二航空艦隊であった。
連合艦隊では、駆逐艦への対空火器の増設の前提となる魚雷装備の削減に多くの将兵が反対したため遅れ、彼らがそれに同意するころには駆逐艦は従来型の艦から「松」型や「望風」型の様な雷撃能力よりも対空対潜能力を強化した駆逐艦が主力となっていた。
第二航空艦隊司令部は、二五一空の戦果そのものを認めていなかった。
彼らの主張によれば、『その時点で敵機動部隊は既に我が部隊によって壊滅していた。壊滅したはずの敵艦隊を攻撃出来るはずがない。』と言ったものであった。
呆れた話だが、第二航空艦隊司令部はこの主張を貫き事実を無視した。その結果が何を生んだか?
それは、レイテ沖海戦での大敗である。
同海戦で日本海軍が実行に移された捷号作戦は、第二航空艦隊司令部が発表した台湾沖海空戦での大戦果が前提であったからである。
結局、第二航空艦隊は主な指揮官クラスが総入れ替えとなり実質的な別部隊へと生まれ変わることとなった。
対する米海軍はどうであっただろうか?
彼らもまた都合の良いものだけを教訓として受け取ったと言って良いだろう。
マタ船団に見られるように、船団護衛能力の向上の兆候は既に掴んでいたため比較的簡単に受け入れられたが、ロ号弾に見られるような電波誘導兵器に対しては従来の民族的偏見から抜け出せず、結果として戦場が日本近海に移った時点で本格的に投入された各種誘導兵器に対応できず、結果として大きな損害を被る要因となってしまったのである。
結局、帝国陸海軍と米陸海海兵隊の両軍は互いに相手を『鴨』『七面鳥』と呼びながら、愚かな死の舞を踊り続けていたことになる。
2020年中の完結を目指しましたが、残念ながら年を越してしまいました。
これでマタ船団の話は完結です。
今回は、新兵器❝空中魚雷❞の為の回でもあります。
同兵器は、史実にあるイ号滑空誘導弾を発展させた兵器で、イ号弾は甲乙丙と三タイプが開発され乙型は実戦投入直前に生産工場がB29の爆撃で大損害を受けて実戦投入が見送られた平気です。
また丙型は、本文内と同様に敵の対空火器の衝撃波を追尾するように作れていて実戦投入直前で終戦を迎えています。私としては特攻をさせたくないのでこの様な兵器を作中に出しました。
私自身、戦争を否定する部分とそれでも大切なモノを守る為には武器を取らなければならないとの考えの間で揺れていますが、どうか平和な時代が続いてほしいと思っています。




