踊る鴨と七面鳥 Ⅸ
申し訳ありません、コロナ禍に猛暑、ついでに壊した競技用RCグライダーの修理に手を取られて投稿が遅くなりました。
踊る鴨と七面鳥
大日本帝国に於いて理想とする戦争は、基本的に短期決戦であった。
それは帝国が持つ国力の乏しさに起因する、長期にわたる戦争には国家が耐えられないという現実から導き出されていた。
当然なことながら、それは主戦力の一柱たる帝国海軍おいても前提であり、海軍と同義語たる連合艦隊は短期決戦を可能とする艦隊決戦によって勝敗を決する為に整備され鍛え上げられてきた。
故に、連合艦隊にとって海上輸送路の主役たる輸送船を護ると言う任務は最初から対象外であった。
しかし、太平洋戦争が勃発するとその思惑は大きく外れこととなる。乾坤一擲の真珠湾奇襲は、『騙し討ち。』と敵愾心を煽るだけに終わり、早期の戦争終結が望み薄となるとこれまで等閑にされてきた海上輸送路護衛の重要性が注目されることとなり、開戦初頭の米軍による通商破壊作戦により、日本側に趨勢な状況であるのにもかかわらず海上輸送路が甚大な被害を受けたことから、輸送艦の集団化と其れを護る海上護衛総司令部とその麾下の護衛艦隊の設立が行われる結果となった。
産声を上げたばかりの海上護衛総司令部麾下には当初は、連合艦隊に所属していた艦艇の中で旧式化した軽巡や駆逐艦が(乗組員共々)護衛艦隊へ派遣と言う形で配備された、つまり艦隊決戦用に用意された艦艇の流用して行われたが、軽巡洋艦にしろ駆逐艦にしろ、それらは基本的には『肉を切らせて骨を断つ』的な強力な酸素魚雷(一部は旧来の魚雷であった)による肉薄雷撃の為に開発・建造されており、乗員はそれに向けた訓練を積み重ねてきていた、従って『相打ち上等』な重雷撃艦である彼らには船団護衛に必要な対空対潜戦闘能力が欠けており、その自負心とは対照的に戦力として物足りない存在となっていた。
こうした現状を打破するために建造されたのが、「松」型から始まる丁型駆逐艦と海防艦であった。
しかしながら、丁型駆逐艦はあくまでソロモン方面で大量に喪失した艦隊型駆逐艦の代替として計画された戦時量産型駆逐艦であり米海軍などの護衛駆逐艦とは相違がある。但し、結果的に見れば同艦は護衛任務に適した艦であり実際にもそう活用もされたことは事実であった。
他方、海防艦は最初から船団護衛用として設計・建造された艦艇であった。
海外ではフリゲート(Frigate)として留別される海防艦には大きく三つの型がある。
一つは、対ソ連警戒用に戦前より建造されていた「占守」型とその戦時量産型である「択捉」「蔵王」等の特型、もう一つは八〇〇トンの近海用である丙型と丁型、そして最後の一つが船団護衛の主力となった一〇〇〇トンの甲型と乙型である。
甲と乙、丙と丁の違いは船体は同じながら搭載機関が内燃機関(ディーゼル機関)かタービンであるかの違いで、機関の違いにより最高速力や航続距離の違いはあるものの艦の形態や艤装、武装等に大きな違いは無い(逆に建造した時期により武装や艤装に相違がある)。同じ船体で動力方式が違う形を建造したのは、大規模建造の計画に対してディーゼル機関の製造が間に合わなくなる可能性が懸念された結果であった。
現状では、既に特型の殆どは本来の戦場である北方海域に配置され、船団護衛の主力は前述の丁型駆逐艦とその縮小型ともいえる甲乙型海防艦が担っていた。
尚、一般に甲型海防艦・乙型海防艦、或いは総称として甲乙型海防艦と呼ばれるが、正式名称は第一〇〇型海防艦・第二〇〇型海防艦である。
では、船団護衛の主力となった甲乙型海防艦とはどのような艦艇であったか?
その特徴は、基本的に直線と円弧で描かれた船体型に見て取れる徹底的に量産化を前提とした設計にあった。
更にその設計を基に、ブロック建造法と電気溶接の全面的使用により一隻当たりの建造期間を大幅に短縮すると同時に、民間の小規模造船での建造を可能とした結果、約二年間に甲乙合わせて二〇〇隻を超える海防艦を建造する事が可能となった。
この大量建造に用いられた技術は、戦後に於いて日本の経済成長を支え造船大国として評されることとなる巨大タンカー建造技術の萌芽となったと言うことができる。
性能諸元としては、基準排水量九六〇トン、全長八二メートル、全幅九メートルで日本の小型艦艇の標準である艦首側が高い船首楼形式で長さに対してやや幅広な船体なのは速度よりも取り回しの良さを優先した結果であった。
武装は海防艦の標準である主砲として一二センチ高角砲を前部甲板には単装砲一基(防楯付き)、艦尾側の後部甲板には連装(防楯無し)一基搭載していた、機銃は簿式連装機銃二基と九九式二〇ミリ機銃を単装と連装で多数搭載していた。
この他、対潜用として艦尾に三式爆雷を一二〇基と前方投射爆雷の一五センチ十二連装対潜噴進弾発射機を一基、艦橋と第一主砲の間に搭載していた。
主機は、甲型が二二号一〇型ディーゼルエンジン二基二軸 四三〇〇馬力
速度は最大で一九.五ノット 航続距離は一六ノットで五〇〇〇海里となっていた。
乙型では機関が蒸気タービンとなり、2A型戦時標準船用の甲二五型タービン二五〇〇馬力を二基を搭載していた、尚、乙型は甲型よりも主機の出力が大きいため、甲型よりも優速の最高速度二二ノットを可能にしていた(逆に甲型のディーゼル機関よりも燃費が悪いため燃料搭載量を増やしている)。
こうした性能諸元は、一部を除けば特型の最終型である「鵜来」型と同じであり甲乙型が同型を基礎に戦時量産艦として開発されたことが理解できる。
しかしながら、両型には大きな相違点も有った。
それが甲乙型に採用された推進機関のシフト配置である。
従来の機関を小ぶりな船体に効率よく収める為に集中的に配置した形式とは対照的に、左右の推進軸に繋がる機関をそれぞれ一組として前後に分けて機関室を配置するのがシフト配置であった。
この形式の利点は、従来の推進機関の配置が一発の直撃弾や故障により推力を全喪失してしまうのに対して、左右二軸の推進機を機関室を前後に分けることで一方が損傷してももう片方の推進力を維持して低速ながら航行を続けることが出来た点であった。
当然、構造が複雑となり建造に手間がかかる点が増えるなど当初の目的であった量産性の向上と言う点には逆行していた。
しかしながら、守勢に回った戦況に於いて対空対潜共に大きな脅威にさらされる護衛艦艇に対して(サイズ的な制約から充分な)防御力を持たせられない以上、この程度の煩雑化は許容範囲内と計画を推進した艦政本部は判断していた。
ご存じの通り、推進機関のシフト配置を国産艦艇で初めて採用したのは丁型駆逐艦であった。そして、ほぼ同時期に設計が開始された甲乙型海防艦と最後の艦隊型駆逐艦である「望風」型駆逐艦、更に「翔竜」型航空母艦や「矢矧」型防空巡洋艦へと順次採用され、対戦後期の帝国艦艇に於いては標準的配置形式となっていた。
こうした経緯により甲乙型海防艦へ導入された、推進機関のシフト配置は被弾時に於ける生存性を高めるのに大いに威力を発揮し大戦末期の海上輸送路を守り切る原動力の一つとなったと言っても過言ではないと言って良かった。
であるならば、海防艦第二一二号艦の現状はその賜物と言って良い、と同艦艦長である海原宗一郎少佐は海防艦の艦橋上部の露天となった戦闘指揮所で指揮を執りながらそう評した。
もし同艦が従来形式の機関配置であったとすれば、戦闘開始早々に推力を失い洋上を漂う標的と化しているところであったからである。
敵艦載機が装甲巡洋艦「三種」の対空射撃を突破して船団上空に現れた時点では、第二一二号艦は船団右翼後方四時の位置にいた。
敵艦載機は「三種」の攻撃により戦力を分散させられたが、結果的に小規模ながら五月雨的な波状攻撃となって船団の各艦船に襲い掛ることとなった。
そうした中、第二一二号艦は敵艦載機の一群、艦戦三と艦爆二の攻撃に晒される事となった。
比較的雑ながら連携の取れた敵の攻撃は、艦戦の機銃掃射によって標的の行動を制約しつつ戦力を削り取りながら艦爆で止めを刺すと言った一〇〇〇トン余りの海防艦には過剰ともいえる攻撃であったが、それ故にその攻撃を躱すのは至難の業であった。
結局、海原は機銃掃射による損傷を覚悟の上で艦の急激な転舵を命じ、寸前のところで二発の爆弾を躱すことに成功した、がうち一発が右舷の至近に落着してで炸裂し、その爆発が生んだ衝撃波によって生じた舷側の破口より艦内へ浸水する結果を生んだ。
浸水したのは前部機関室、この為左舷側の推進機が浸水により停止することとなった。
結果二一ノットの最高速力は八ノットまで低下し、船団より後れを取る結果となっていた。
「前部機関室の浸水は止まりました、現在排水作業中ですので間も無くすれば全力航行も可能と機関長は言っております。」
そう報告するのは佐々木六郎中尉、第二一二号艦の航海長を務める将校だった。
駆逐艦や海防艦の様な小型艦艇では、副長は配置されず将校の内の先任者がその役を代行しその様な将校を先任将校と呼称して実質上の副長扱いにしていた。
佐々木中尉も、本来は航海長であるが先任将校として戦闘時には艦内の応急対応の指揮も担っており、これまで浸水した前部機関室で破損個所の補修作業の陣頭指揮を行い、作業に一応の目途が立ったことから状況を報告する為に戦闘指揮所に上がってきたところであった。
勿論だが、損害はそれだけではない。
「機銃掃射による損害は機銃員三名が戦死、二名が負傷しています。」
「代わりの要員は?」
「既に各部から引き抜いて充てています。」
「そうか、ご苦労。」
海原は表情を変えることなく酷く素っ気ない物言いで労いの言葉を返したが、第二一二号海防艦は基準排水量一〇〇〇トンと小型の艦艇である、乗員は一五〇名に満たず狭い館内で顔を付き合わせる仲であり階級の差なく皆が顔見知りであるが故に乗員の戦死は家族の死のそれに近かった。しかし、指揮官としてはこの後を考えれば、そのような態度で生まれ出る感情を押し殺してでも表面上は平静を保つ必要があった。
勿論、先任将校である佐々木もそれは充分理解していたし、自身も現場では同様の態度で感情を押し殺して対応していたのだから。
尚余談であるが、名称の第二一二号艦は乙型である第二〇〇号型海防艦の十三番艦を意味していた、また海防艦では前述の甲型を除いて名称は持たず〇〇〇号艦(甲型であれば一〇一号艦)と命名されている。
帝国海軍では駆潜艇や哨戒艇などの小型艦艇には固有の名称を与えず、番号で呼ぶことが多かった、海防艦も同様の伝統に従って名称ではなく番号が付与されたが、これにはあまりに多くの建造計画から早晩艦名の候補リストが枯渇する危険性もあった為だともされている。
更に記すなら、第二一二号艦は民間造船所である大阪の藤永田造船所で建造された最初の艦であった、この為、ブロック建造や電気溶接などの新技術に不慣れだったこともあって十三番目に計画されたのにも係わらず、就役は十六番目となっていた。
「右七〇度、高度五〇(五〇〇〇メートル)に敵機二!」
突然の見張員の叫び声に、戦闘指揮所へ緊張が走った。海原宗一郎少佐は右舷後方を振り返ると手にした双眼鏡を構えた。
そこには、弱った獲物を前にしてまるで舌なめずりでもしているかのようにユックリと後方へ旋回する二機のSB2Cの姿があった。
「降爆が二か・・・、厄介な奴らが残って居たな。」
「こちらに気付きましたね。」
敵の機影を確認した海原へ並ぶ形で上空を仰ぎ見ていた佐々木中尉が、敵機の動きに気が付いてそう報告した。
二機のSB2Cは高度を維持しつつ、第二一二号艦の艦尾方向に回り込もうとしていた。明らかな襲撃コースである。
それはある意味当然の事と言えた、周囲に僚艦の艦影は無く見るからに手負いの状態で独航する敵艦、それが敵の艦爆搭乗員の目から見える第二一二号艦の姿なのだから。
『群れから落ちこぼれたやつから喰うのは、戦場も野生の世界も同じだな。』
海原は、この日何度目かになる対空戦闘の指示を出しながらも、妙に達観した心境でそんな言葉を心中で呟いた。しかし、悪いことばかりではないと海原は考える、何故ならこの時代の(単発の)爆撃機や攻撃機(雷撃機)が搭載できる主要兵装は、大型の爆弾であれば数発、航空魚雷では一発が限界であった。従って第二一二号艦へそれらの兵器を使用してしまえば船団の輸送船へ向ける兵器がそれだけ少なくなる事になる。
「自分は、持ち場に戻ります。」
被弾時の応急指揮官である佐々木中尉は、海原にそう宣言すると指揮所後方の階下につながるラッタルへ向かった。彼が向かう先は指揮所の一層下の艦橋だった、彼にはそこで応急処置を含む戦闘以外の全ての指揮が任されていた。
「敵機、本艦正艦尾方向に占位!」
「後部主砲、対空打ち方用意!
信管を高度二〇(二〇〇〇メートル)に調定。
三〇(三〇〇〇メートル)から射撃開始!
両舷簿式は一五(一五〇〇メートル)より射撃開始。」
第二一二号艦の砲術長である小林五六中尉は、見張員からの報告にまだ幼さが残る相貌を紅潮させながら対空戦闘の指示をする声を上げた。
彼の指示は伝令による各部署への伝達されると同意に、各射撃諸元は乙型海防艦の艦橋上部の戦闘指揮所、その中央の一段高くなった場所に設置されている射撃指揮装置へ入力されて砲側へ送られた。
山本は、後方へ回り込む機動により敵機が艦尾方向に占位して艦の軸線上をそれに沿って降下してくると判断した、なぜならそれが攻撃する敵機にとって一番確実で容易な方法であったからである。
それは攻撃をする側にとって容易であるのと同時に、攻撃をされる側にとっても回避が容易で対応のしやすい攻撃方法でもあった。
「敵降爆二、艦尾方向突っ込んでくる!」
敵機の動きを注視していた見張員がそう報告するが、艦尾側に装備されてい後部主砲である連装高角砲は砲身に俯角を掛け狙いをつけていたが沈黙を保っていた、未だ目標である敵機との距離が指示された値に達していないからだ。
第二一二号艦に限らず、海防艦の備砲は一二センチ高角砲、正式名称四五口径十年式一二センチ高角砲を艦首側に単装一基と艦尾側に連装一基の計二基三門を搭載していたが、それは「睦月」型駆逐艦などの主砲に搭載されていた四五口径三年式一二センチ砲を高角砲化し大正十一年(一九二二年)に正式採用された旧式な装備であった。
しかしながら旧式ではあったが構造が簡便で生産が容易で重量も比較的軽く扱いやすことから、大量に就役した海防艦の主砲兼対空砲として採用されていた。
これに加えて、艦の復元性の確保のために重量のある九四式高射装置の様な本格的な指揮装置は登載出来ず(まず先に生産が間に合わなかったが)、本来は高射機銃指揮用に開発された四式高射装置が簡易ながら高角砲の指揮も可能であり軽量で何より製造が容易いで数が揃えられる事から高角砲指揮能力を強化した二型を採用していた。
当然ながら同指揮装置が高角砲の指揮用としては能力が不足していたことは明白で、大雑把な未来位置は算出できるものの、それで射撃できるほどの精度は無く最終的には指揮装置から切り離して砲側での照準する必要があった。
この点は、操作要員の育成で対応できそうだが多くが経験の浅い応召兵で技量も知識も不足した人材であった。
それは砲術の専門家であるはずの砲術長においても同様で、山本中尉自身も二十歳を僅かに過ぎたところで横須賀の砲術学校を酷く端折る形で卒業させられ、いきなり第二一二号艦の砲術長に任じられていた。
彼の教育が極短期間で済まされたのは彼が特段優秀なわけではなく、先に記したように太平戦争後期に大量に就役した海防艦などの補助艦艇に必要な砲術士官を短期間でそろえる必要性からであった。
そう言った意味からいえば、彼自身、一二センチ高角砲や四式高射装置と同様の間に合わせであったと言える。
因みに第二一二号艦に限らず海防艦の乗員は、一部を除けば応召された海軍予備将校(士官)と応召兵からなっていた。
第二一二号艦では正規の海軍士官は艦長の海原と機関長以外は山本少尉が唯一と言うべき存在であり、前出の佐々木中尉も、本職は商船の航海士であり商船学校に在学中に海軍予備学生として短期の士官教育を受けた予備将校であった。
太平洋戦争の後期には先に記したように甲乙の海防艦だけでも短期間に二〇〇を超える艦が建造され就役していた、就役した艦には乗員が必要であったが、元々主に財政的な制約から少数精鋭に成らざるを得なかった帝国海軍にはそう言った大量発生してしまった補助艦艇の乗員まで賄う余力は無かった、そこで考え出されたのが艦の主要幹部のみを正規士官とし残りを応召の予備将校と応召兵で運用する方法であった。実は英米に於いても船団護衛に使用される護衛駆逐艦やフリゲート等の乗員には同様の方法で人員を得ていた。
「敵機、三〇(三〇〇〇メートル)!後部、撃ち方はじめました!」
乙型海防艦の戦闘指揮所で、後部砲塔へ繋がる電話を持った電話員が声を上げるのと同時に艦の後部で砲声が響いた。
艦の後部甲板に設置された主砲の一二センチ連装高角砲が、想定していた距離に達した敵機に対する砲撃を開始しためである。
やがて降下を始めた敵機の手前で砲弾が炸裂しし始めたが、その数は二つ、それも敵機からはかなり離れた位置である。
当然、敵機はそれを脅威とは認識せずコースを変えることなく急降下を続けてくる。
それでも第二一二号艦の方も、座して敵の鉄槌を受ける気はなく後部の連装高角砲は可能な速度で対空砲弾を撃ち上げ続けた。
乙型海防艦の主砲である十年式一二センチ高角砲の連射速度は、一分間辺り十発とされている、これは同砲が六秒ごとに一発の砲撃が可能であることを意味していたが、八九式一二.七センチ高角砲の十四発、九八式十センチ高角砲の十五発と比較すると低い数値であり、急降下爆撃機が降下を開始して投弾までに三〇秒程の時間しか無く射撃可能な砲弾の数が最大で五発、連装であることから十発であることを考えても戦力としては余りに非力であった。
「急げ急げ、もたもたしとると『元帥坊主』にどやされるぞ!」
それでも、第二砲塔(後部砲塔)の砲塔長と照準手を兼ねる森谷三男一等兵曹は、砲架の左側に設けられている照準手席に座って、照準鏡を覗き込んだまま部下である砲手たちにはっぱをかけていた。
目標とする敵機に対する射撃諸元は、戦闘指揮所に設置された四式高射装置(距離のみは別体の高角測距儀)で測定・入力されたものが、装置内で処理されて砲側へ送られて来るのだが、八九式一二.七センチ高角砲や九八式十センチ高角砲の様な本格的な高角砲と三式高射装置の組み合わせのように信管の設定や全面的な砲撃の指揮管制をしてくれる訳ではない。
結果として、最終的な照準は砲側で行う必要があった、これが同砲の装填が人力であることと共に砲撃速度を上げられない要因となっていた。
従って森谷一曹は、先に発射した砲弾の炸裂位置を見て素早く修正する作業をしていたが、二射目には敵機の降下コースの前面に撃ち込むことに成功していた、これは森谷一曹の技量と共に敵の攻撃コースが単純な後方からであったことがあった。
因みに、森谷一曹が言う『元帥坊主』は砲術長である山本五六中尉をさしていた、勿論、元帥とは南方での戦闘中に重傷を負い予備役となり現在は海軍大臣を務める山本五十六元帥であり、山本中尉の姓と名の『五六』からついた綽名であった。
前述の通り、多くの海防艦に装備された十年式一二センチ高角砲と四式高射装置の組み合わせでは敵機の位置の変化に伴って砲弾の時限信管を調整する様な機能は無く、そう言った意味でも対空戦闘にはまったく役に立たなかった。
しかしながら、海防艦の任務は輸送船団の護衛であり、その脅威は潜水艦と共に大小の航空機が主であるから出来ないでは済まされない。
ではどうするか?
そこで考案されたのが、時限信管を一定の高度で起爆させるように設定して敵機に関係なく対空砲弾の傘を差す方法であった。
しかし、これも船団に多数の艦が一斉に発砲しなければ効果は無かった。
今回も第二一二号艦一隻の砲撃では、想定高度の二〇〇〇メートルに至るまでに発射出来たのは五発であり、更に危険半球に敵機を捉える事が出来た砲弾も無かった。
但し、海原艦長や山本砲術長も、今回の砲撃が失敗だとは考えていなかった、彼らはこの装備で敵機を容易に撃ち落せるとは思っていなかったのだ。
要は、敵機に好き勝手に攻撃させない様に牽制するのが目的であった。
従って、薄い弾幕を抜けた二機のSB2Cには艦上より撃ち上げられた四条の太く青白い火箭が待ち構えていた。
乙型海防艦には、二本の煙突の間の背中合わせになる様に二基の簿式四〇ミリ連装機銃が装備されていた、この配置のおかげで簿式連装機銃は正面と正尾には二基四門を向ける事が出来た、今回も正尾に近い敵機に対しては左右二基の簿式は大きく銃身を掲げて銃撃を行った。
簿式機銃の銃弾は、原型のボフォース四〇ミリと同様に四連クリップで給弾される、毎分一一〇発の発射速度をもつ同砲では四発は瞬く間に撃ち尽くされてしまうため四連クリップを持った給弾兵が入れ替わり立ち代わり給弾してゆく。
簿式の火箭は一〇年式高角砲と同様に数は少なかったが、その弾道の正確さと見た目の派手さから敵パイロットに与える心理負担は比較にならないほどに大きかった、それでも彼らはその恐怖を抑え込み小賢しい敵フリゲート(海防艦)の舳先に狙いを定めて爆弾の投下スイッチを押した。
「取り舵一杯!」
『取り舵、宜候!』
敵の急降下爆撃機が、五〇〇キロ爆弾を投下するのに先んじる様に下した海原の号令に、操舵手より即座に復唱が返った。
一般的に、船舶というものは舵を切ったからと言って即座に進路変更が出来るわけではない、それは一〇〇〇トン足らずの小型艦でも程度の差こそあれ同様であった。
しかしながら、であるのに係わらず第二一二号艦は、海原が変針の命令を下すと然程を間を開けることなく回頭を開始し、船体を軋ませながら最初はユックリと、やがて右に艦体を傾かせて速度を上げて急速に左回頭した。
それは手負いの身で、著しく速度を落としている状態としては予測不能な急速な回頭であった。
故に、二機のSB2Cが決死の思い出でここまで運んできた二発の五〇〇キロ爆弾(実際は一〇〇〇ポンド爆弾なので約四五四キロであるが)は虚しく空を切り裂いて彼方の海原を抉る結果となった。
至近弾による損傷により、片軸航行を余儀なくされ速度も操作性も著しく減じた状態で何故この様な急速な機動が出来たのであろうか?
実はそれを可能としたのは前述の片軸航行であった。
機関室の浸水により左側推進機の推力が失われた状態での航行では当然艦は左へと回頭してしまう、この為艦は常に舵を右に切った状態で航行しなければ直進は出来ない、しかし、この状態での舵は抵抗を生み艦の速度を更に減じる結果となる。
しかし、それが左へと転舵することは生きている右舷の推進機の推力が充分に使用できることを意味し、更に右舷へ偏った推力もあって艦は左へ転舵する場合は急速に回頭することが出来た訳である。
とは言え、落着した爆弾は充分至近弾として脅威であり、第二一二号艦の艦上には爆煙交じりの海水が降り注ぐこととなった。それは左回頭の為に右へ傾いた露天の戦闘指揮所で遮風壁の縁に摑まりながらその身を支えていた海原らの頭上にも降り注いだ。
それでも海原は、直撃を免れた事を確認すると同時に安堵すると針路を元に戻すように命じた。
「針路戻せ。」
艦が左回頭を止め指揮所の床が水平になってくると、海原は手にしていた三角定規を周囲の空に向けた、しかし、既に戦闘は下火に成りつつある様で周辺の敵機の姿は疎らになっており、第二一二号艦へ向かってくる敵機の姿は認められなかった。
「艦長、機関室排水完了、機関再起動しました。」
戦闘指揮所で損害状況の確認を行っていた海原に、一層下の艦橋より復旧作業を指揮していた先任将校の佐々木中尉より伝声管越しの報告が齎された。
「ご苦労だった、よくやってくれた。」
海原はそう答えて、佐々木と現場で復旧作業にあたっていた機関部の乗員たちを労った。
やがて、再点火されたボイラーの出力が上がると第二一二号艦は速力を上げた。
「なんとか、日本へ帰れそうだな。」
艦の針路を船団との合流地点へ向かわせるように指示すると、海原はそんな一言を呟いた。周りの、戦闘指揮所で作業を行う乗組員たちを見回すと、一様に疲労の色の濃い顔に安堵の表情を見せていた。
すでに戦闘が終息しつつあることもあって、指揮所には弛緩した空気が流れたが、そこを見張員の声が破った。
「八時方向、敵機!雷撃機です!」
「数五、船団へ向かう!」
声を上げたのは指揮所左舷側で警戒に当たっていた見張員たちだった。
と同時に山本砲術長が射撃命令を下したらしく、左舷側の簿式四〇ミリと九九式二〇ミリ機銃が猛々しい発砲音と共に銃弾を吐き出した。
高度約五〇メートルの低空で飛ぶ敵の雷撃機にはアイスキャンディーと表現される火箭が幾本も絡め捕ろうと放たれた、やがて最後尾のTBF一機がそれに捉えられて四散しその残骸が海面に叩きつけられた、がそれ以外は槍衾をすり抜けて第二一二号艦を追い抜いていて飛び去って行った。
「通信長、旗艦『阿武隈』へ緊急電!敵機四、船団へ向かう。」
そう命じた海原は、未だこの戦闘が集結していないことを思い知らされた。
予想以上に手古摺って遅くなってしまいました。予定していなかった海防艦の逸話を入れたくて書いた話ですが、資料が少なくてかなりの部分で創作が入ってしまいました、勿論、甲乙型海防艦は私のオリジナルです。
話の参考としてC.S.フォレスターの駆逐艦「キーリング」やその映画である「グレイハウンド」をよんだり見たりしたのですが、改めて駆逐艦の艦橋って狭いなと感じました、映画の駆逐艦は原作の「マハン」級から「フレッチャー」級へ変更されていて原作よりも広い筈なんですが・・・。
話の最後に書いたように戦闘はまだ終わりません、とは言えあと一~二話で完結させたいと思っています。
では後もう少しお付き合いください。




