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南溟の断証(ゴリアール)  作者: 雅夢
第二章 台湾沖海空戦「太刀魚が空を翔んだ日、鴨と七面鳥は愚かに踊る。」
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踊る鴨と七面鳥Ⅲ

踊る鴨と七面鳥


 技術の発展による射程距離の延伸と艦速の増大は、次第にそれまで行われてきた射撃指揮と砲側での照準を困難にさせた、加えて艦の同一砲種による効果的・効率的な射撃を実施するための一斉打方が採用されるに及び、新たな照準機構が必要とされ、その結果として方位盤射撃装置が生み出された。

 英国で生まれたこの方位盤射撃装置は、各国で導入されそれぞれ自国の海軍事情に合わせた発展しやがてより遠方の的を正確に射撃するための、射撃指揮装置と進化することとなった。

 これは的の位置方位を相対的に測る方位盤と的測のための照準望遠鏡と距離を測る測距儀からなる方位盤射撃装置と、その観測結果に艦艇ログで検知した自艦そ速度やジャイロから得た進行方向の情報を入力し的の砲弾落下時の未来位置を算出する精巧な歯車とカムが組み込まれた機械式計算機である射撃盤で構成されていた。

 これは前述したように平射用であるが、後には高角砲用に高射装置と呼ばれる専用の指揮装置も派生している。

 高角砲の標的となるのは当然であるが航空機である。

 航空機は船舶と違って高さ(高度)と言う計算要素が新たに加わることとなる、それは計算の複雑化を意味しているが、それに加えて狙うべき対象の(艦船と比較してだが)小ささと速さも問題を大きくしている、平射用と比較すれば近距離の目標であるが、それはそれで近距離を高速で移動する目標を追う必要に迫られる事になる。

 従って、その的(航空機)を高角砲弾の生み出す危険半球内に捉えるためには平射の物より複雑な計算をより短時間に終わらせる必要があった。

 この様な目的のために開発されたのが高角砲用の射撃指揮装置である高射装置であった。

 帝国海軍でも昭和五年(一九三〇年)に登場した九一式高射装置に続きその改良型である九四式が昭和十一年(一九三六年)に正式採用され海軍の標準高射装置になっていた。

 九四式高射装置も諸外国の物と同様に観測器である高射機と計算機の高射盤から構成された、高射機は視界の良い艦橋上部などの高所へ設置され精密な機械計算機である高射盤は動揺や振動の少ない艦内へ設置されて間は通信線で結ぶ形式を取っていた。

 非常に精密な計算歯車やカムを組み合わせた機械式計算機である九四式高射盤は、当時の帝国の技術の粋を凝らした逸品であったが、残念ながら幾つかの問題があった。

 九四式は登場当時より初期の性能を満たせず、度重なる改修によりその性能に達する事が出来たと言われているが、その後も特に計算精度の低さと遅さは問題として残った。

 当初それらの問題は「草薙」型等の六〇口径一五.五cm砲搭載の重防空艦特有の問題と見られた、本来射程の短い(一五.五cm砲と比較すればの話だが)四十口径八九式十二.七cm高角砲用として開発された経緯もあって有効距離二〇kmに満たず、計算の遅いことから九四式では長距離の対空射撃を行う同砲の指揮には能力不足と考えられたのだ。しかしながらこの問題点は、太平洋戦争中盤以降になると戦争の進展とともに性能を向上させた航空機に対して十二.七cm高角砲用としても能力不足が露呈する結果となり顕著となり後継機の開発が急がれることとなった。

 就役当時「草薙」には内部の計算歯車やカムを精度の高い物に変えるなどして計算精度を上げた特別仕様が搭載されたが、その特別仕様でさえ有効射程距離は一五〇〇〇メートルが限界とされ『出来れば一二〇〇〇メートル迄詰めて使用すべし』と言う但し書きが付く状態であった、それ故に九四式の改修と改良は必須とされ、その後、機構のほぼ全行程にわたって見直しと改修が行われることとなった、当時、国内では先に中止となった東京オリンピック(昭和十五年⦅一九四〇年⦆開催予定であった)による特需を見越して行われた鉄鋼や機械工業への設備投資や新技術の導入が大幅な鋼材の増産と機械金属等の精密加工や量産となって軍需産業にも派生し始めており、九四式の改修にもそれらが多大なる恩恵をもたらしていた。

 改良型九四式の主な改良点は、計算用歯車の遊隙誤差を小さくして計算の精度を上げ、更に軸受けには量産が容易な滑り軸受けを使った上で電動機の出力を増すことで回転を上げて計算時間を短縮し、同時に計算結果を高射機経由ではなく直接砲側に送る事でより早く砲撃諸元を砲へ伝達させるなどの行程の変更が為されていた、この他ジ前後左右の動揺修正を容易にするために高射機にジャイロを組み込み高射装置の修正作業を容易にしていた。

 これらの改修により改造型九四式高射機はより高い精度と計算速度を実現させることに成功した。

 最終的に問題点の多くを克服して生まれ変わった改良型九四式高射装置は、改修点が多岐に渡り本来の九四式とは大きく仕様が変わっていたことから、三式高射装置の正式名称が新たに与えられ量産が開始される事となった。

 新規に製作された改良型九四式改め三式高射装置は一五.五センチ砲搭載の重防空艦より優先的に換装が行われ、その後順次九四式にとってかわる形で各艦に搭載され太平洋戦争後期に於ける主力高射装置として艦隊の上空防衛の為の貴重な戦力となっていった。但し「三種」は就役が遅れたこともあって当初より三式高射装置を搭載していた。


 装甲巡洋艦「三種」では、その三式高射装置を九八式十cm高角砲(長十センチ高角砲)用六基以外にも六〇口径一五.五cm三連装砲の射撃用として艦上二ヶ所の副砲指揮所に設置していた。

 一つは艦橋のある前檣楼の前面中程、第二艦橋(羅針盤艦橋)が前方に突き出たその上部、もう一か所は艦の後方、煙突と第三副砲に挟まれる形で立つ後檣(後部艦橋)の最上部に設置されていた。

 これは、装甲巡洋艦「草薙」型では副砲には対空射撃での使用を前提としていた為で、一般的な帝国海軍の戦艦の副砲指揮所では、主砲と同様の平射用の方位盤射撃装置を設置していた。


 「三種」に於いてこの副砲指揮所の指揮を任されていたのは副砲長である宇田川成之砲術少佐であった。

 階級に比較して年嵩な人物であったが、引き締まった肉体と潮風に赤銅色に焼けた肌は、如何にも叩き上げと言う雰囲気を醸し出す人物であった。

 勿論それは見た目だけでなく旧来の名称で言えば特務砲術少佐である彼は、十六歳で二等水兵(当時は四等水兵と呼称されていた)として帝国海軍海兵団に入団し以後三〇年以上を海軍に奉職してきた正に叩き上げの古参兵で、その卓越した砲術の技量を買われて砲術専修過程を経て特務士官にまで上り詰めていた。(本来は特務士官としての昇進は大尉止まりであったが、戦時中の特例で佐官までが可能となっていた。)

 所謂海軍の生き字引である彼は、海軍の砲術兵としての長い軍歴を持ちその経験を買われて、方位盤射手や高射長、掌砲長などを様々な艦で勤めていた。

 彼は人間としては普段は人当たりの良い温和な人物であったが、事砲術関しては妥協を許さず直言居士ちょくげんこじを貫いたことからハンモックナンバーに拘る一部エリート士官には当然の事ながら折り合いが悪く、その結果として転属を命じられたことが度々あった。

 有川と速水は共に、横須賀の海軍砲術学校を出て最初に配属となった艦で掌砲長であった宇田川の世話になっていた。砲術士官としての道を歩き始めていた当時の彼らは、熟練の砲術技術を持ち安易に妥協を許さない姿勢は砲術家としてのあるべき姿と受け取ると同時に、宇田川の力量を高く評価することとなった。

 こうした経緯もあった新たに就役する装甲巡洋艦「三種」艦長(当時は建造中であったので艤装長であった)を拝命した有川は、当時、乗艦の艦の喪失により待命中であった宇田川を「三種」の最大の対空戦力である副砲長の指揮官に任命したのであった。


 そして、その宇田川が、今回の敵編隊に対する待ち伏せ作戦の発案者であった。


高射装置に関しては素人の考察で書いていますので専門家から見るとおかしいかもしれませんが、現状ではこれが限界でした。

一般に米海軍の対空射撃の能力の高さを近接信管によるものとされていますが、調べるとそれ以前に高射装置の精度の違いが決定的だった気がします。九四式は能力不足なうえに生産性が低くて数が足りないなど決定的な日本の工業力の弱さを表しているような気がします。


お話もあと少しです、もう少しお付き合いください。

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