太刀魚が翔んだ空 中編
昭和十九年(1944年)十一月十二日、台湾全土の帝国陸海軍基地を米海軍の艦載機群が襲った。
対する帝国陸海軍も合同部隊であるT部隊を中心とした反撃を行いここに一大航空戦が惹起した。
台湾沖航空戦である。
太刀魚が翔んだ空 中編
「行きます。」
❝発艦よし❞の指示を確認した操縦士の西川一飛は、そう言うと発動機の出力を最大にまで上げて発艦を開始した。
出力に合わせて発動機の音が高鳴り、体が背もたれに押し付けられるような加速度を感じているうちに下から突き上げるような振動が消えた、主輪が甲板から離れて機体が浮き上がったのだ。
機体は艦を離れると、ゆっくりと高度を上げてゆく。
「西川、上手くなったな。」
中村飛曹長は、酸素マスクに組み込まれた伝声管で前座に座る西川一飛声をかけた。
「教官に鍛えられたお陰ですよ。」
操縦に集中しているのか少し硬い西川一飛の答えが、伝声管特有のこもった響きで帰って来る。幼さが残る西川一飛も、中村が教官時代に指導した操縦士の一人だった。
機体はゆっくりと左に旋回しながら上昇を続けて行く、やがて高度が上がると昇った朝日照らされた海上とそこへ白い航跡を引いて進む船団の様子がよく見えた。
船団上空を一旋回すると先程発艦した母艦が見えてきた、母艦は速度を落として発艦作業時に乱した陣形を立て直す様に進路を変えていた。
船団はマニラ(港)発高雄(港)行きであることから、出港地と目的地の頭一文字を取ってマタ船団と名付けられ三四番目の船団であった事からマタ三四船団と呼ばれていた。
その船団の中核は、十隻の高速タンカーと貨物船だった、これらの船は南方で産出される原油や鉱石を積んで日本へ向かうとこであった。
これら、戦略物資は日本が戦争を継続するのに欠かせない物資で、戦争初期に於いて米英が行った通商破壊作戦で大きな打撃を受けたことを教訓に、輸送船の集団航行とその周囲を護衛艦艇で取り囲むように守る手法が取られていた。
船団を護衛する艦艇は合計十八隻、中でも目立つのが船団前面を航行する巨艦、「草薙」型装甲巡洋艦の四番艦「三種」だ。
先のマリアナ沖開戦で装甲空母「大鳳」へ向かって放たれた魚雷を身代わりに受けて中破となった「三種」は、母港の横須賀に戻って損傷部の修復を行っていたがそれが終わり、修復後の慣熟航行を兼ねて護衛部隊に一時身を置いていたのだ。
それ以外の護衛艦艇は、海上護衛総司令部へ籍を移した軽巡洋艦と駆逐艦、更に海防艦に護衛空母という組み合わせであった。
四隻の軽巡はすべて旧式の五五〇〇t級の「長良「型や「球磨」型で、現在では殆ど出番が無くなった魚雷の発射管と予備魚雷を撤去し、備砲の高角砲化と機銃搭載の強化が行われていた。
その中でも護衛部隊旗艦を務める「阿武隈」と「五十鈴」は、重雷装艦の「大井」「北上」に習って両舷に張り出しを設けて重雷装艦の発射管に位置に簿式四〇ミリ機銃を連装で片舷四基八門、両舷で八基十六門を搭載、更に艦の前後にも四連装を各一基の計八門を搭載して大きな対空戦闘を能力を有するに至っていた。
駆逐艦は、小型低速ながら有数の対空対潜能力を持つ「松」六隻、これに「松」型の縮小版とも言える海防艦の主力である甲型海防艦六隻がその間を埋めるように周辺に展開しながら船団を守っていた。
そして、中村たち九六艦攻の母艦である、「海援」型護衛空母三号艦は船団の左舷側を同航していた。
「海援」型護衛空母は、低速の輸送船団護衛を目的に開発建造された小型空母であった。
基本的な艦形は商船改装空母の「海鷹」に準じていたが、最大の相違点として既存の建造済みの商船を改装したのではなく、新規に船体を建造していた点が挙げられる。
しかもその船体は、低コストで建造期間の大幅短縮を念頭に高速タンカーの1TL型の図面を流用し、既に「望風」型や「松」型の駆逐艦と甲型海防艦の建造で確立された溶接ブロック工法を全般的に取り入れ、民間の造船所でも建造可能なように構造を単純化していた。 この為、その形体は一見すると1TL型高速タンカーへ航空母艦能力を持たせた特1TL型艦に類似していたが、特1TL型の様なタンカーとしての機能は有しておらず「海援」型がより本格的な航空母艦として建造されていたことが解る。
また、艦載機の離着艦を容易にするため機関を「鴻」型水雷艇の蒸気タービンを採用して二三ノットの最高速度が発揮出来る様に設計変更をしていた。この点も特1TL型艦がディーゼル機関搭載で18.5ノットが最大速力であった事との大きな相違点であった。
航空機運用に必須な装備と艤装は、本来の上甲板の構造物を取り去ってそこを格納甲板としたのに加えて船倉も格納庫としたことで二層の格納庫を有し合計一八機の艦載機の搭載を可能としている。
そして、その上部に長さ一四〇メートル幅二三メートルの甲板を貼って飛行甲板とし、その前よりと後ろ寄りに一基づつ計二基の昇降機を設置していた。
航空艤装を見る限り、全体的に「大鷹」型改装空母に準じた構成を取っていたが速度の遅さからあくまでその役割は対潜用の護衛空母としてであった、但し、発艦を促進する発艦補助推進器使用した場合は爆装の零式艦戦の運用も可能であり大戦末期には実際に使用された資料も残されている。
しかしながら、本艦の建造目的はあくまで船団護衛の為の洋上航空拠点の構築であり、過度な性能は求めず量産性を追求していた、この点は甲型海防艦等の戦争後期計画された艦艇に共通する艦隊決戦思想の放棄が見て取れた。「海援」型護衛空母は昭和十八年四月に一号艦の建造が始り約半年で就役したのを皮切りに二四隻の建造が計画されて、内一六隻が終戦までに就役したが内九隻が戦没している。(建造が順調に行われた結果、途中から載せる九六艦攻などの艦載機が不足することとなり結果的に新たに艦上哨戒機「層雲」が開発される事と成った。)
この他、船団には「海援」三を補完する目的で陸海軍が運用する前述の特1TL型戦時標準船三隻も含まれていて、それらの内で海軍所属船は九六式艦爆や九三式中間練習機の対潜改修型を三機から四機、陸軍所属船は三式連絡機を四機搭載していた。
「下、始めました。」
中村飛曹長が搭乗した機体は高度を上げ、台湾に向けて機首を北へ向けて飛行を開始しすると、最後尾の電信員席で旋回機銃の点検をしていた佐野一飛がそう報告した。
中村がその言葉に海面方向を覗き込むと、船団の進路上の海面近くを先に発艦した九六艦攻が四機横一列でその進路を横切る様に飛行していた。
九六艦攻の飛行高度は五十メートル、一見するとのんびりと飛んでいる様にも見えるが当然作戦行動だ。
彼らの獲物は水中から船団へ忍び寄る米軍の潜水艦であった。
通常、潜水艦を発見するのは浮上時に電探や目視で見つける以外は音波による探信儀や聴音機を用いる以外に方法は無かった。
この方面に関しては、我が帝国海軍は友邦独国の技術提供もあって徐々に性能を上げていたがそれでも英米軍より後れを取っていた。特に開戦当初は帝国海軍が十分な対戦護衛能力を持たず、また補給路を支える船団に対する護衛の認識が甘かったことから米軍潜水艦による手痛い損害を被る結果となったが、それにより対策強化の必要性を認識するに至っていた。そして、その対策として考案されたものの一つが通称KMXと呼ばれる三式一号探知機であった。
KMXは、航空機に搭載可能な海中の潜水艦が発する磁気を感知して位置を特定する装置で、三〇〇〇トンサイズの潜水艦であれば直上距離一六〇メートル左右距離一二〇メートルで探知が可能だった。
但し、この磁気探知装置には問題があった、一つは探知距離が短い事、この為にKMXを搭載した機体は相互の距離を二〇〇メートルに保って更に五〇メートルと言う低高度を低速で飛行する必要が有った。
そこで、九六艦攻の出番となる訳である、同機は最高速度三〇〇km/h以下と低速であったがそこがこの任務には有利であった、さらに本来は八〇〇㎏の航空魚雷を搭載して海面すれすれを飛行する必要が有る雷撃機である為に同機の低空での機動性は良好であり、重い魚雷に代わって七〇㎏のKMXの搭載であれば更に飛行性能は向上していた。
また、この点は低速で飛行甲板が短い護衛空母での運用にも適していた。
もう一つ重要なのが、九六艦攻の機体構造であった。
同機は機体・主翼ともに鋼管のフレームに布を張った、開発当時としてはごく一般的な構造であった、これが磁気を検知して海中に潜む潜水艦を探すのに好都合だったのだ。
この時代、航空機、特に軍用機の多くは全金属モノコック構造であったので、KMXの邪魔に成らない様に徹底的な消磁を行う必要が有った、しかし、布張りの機体であれば消磁にも大して手間はかからない。
そう言うことで、当時使いようが無くて倉庫で埃を被っていた九六艦攻が引っ張り出されて最新装備を乗せられて再登場と成った訳である。
因みに、同時期に時代錯誤な鋼管フレームに布張りの複葉機を第一線で使い続けていた国があった、それは大英帝国海軍であり、それがフェアリー ソードフィッシュであった。
同機は、機体の大きさや各諸元が九六艦攻と似通っていたが洋上での航空母艦同士の戦闘が起こり得ないヨーロッパの戦場ではこの機体でも充分に活躍できたため、第二次世界大戦全般を通じて英国海軍の主力雷撃機としての地位を保持していたのである。
故に、その名は帝国海軍に於いても知られており、九六艦攻が第一線へ復帰することが決まった時、搭乗員たちはソードフィッシュの向こうを張って九六艦攻へ❝太刀魚❞の綽名を付けていた。
ソード=剣、フィッシュ=魚、から来ている綽名なのだが、ソードフィッシュの和名はメカジキで違う魚と言うことなのだが、雰囲気から搭乗員たちは太刀魚にしてしまった様である。
なお、太刀魚の英名は『Largehead hairtail(デカ頭に小さな尻尾)』なのだが、別名としてカットラスフィッシュやサーベルフィッシュと言う名も有り一概に的外れな綽名とは言えないのも事実であった。
九六艦攻へのKMX搭載は半年前のマリアナ沖海戦の前後から行われていて、マリアナ諸島失陥により敵潜水艦の南シナ海での跳梁を防ぐ要因の一つ成ったのである。
戦後、公開された当時の米海軍の潜水艦長の証言によれば、同機とKMXの登場で船団への襲撃位置へ付くのが酷く難しくなった、とされていて布張りゆえにレーダーにも探知しにくい同機を疫病神と言う者も居た。
「海援」三を発艦した中村機は、二周ほど船団の周囲を飛行しつつ高度を上げると機首を北へ向けた。
向かうは台湾南部の要衝にして海軍最大の航空機基地、高雄であった。
補足説明
本作に登場した艦艇と航空機の簡単な説明をします。なお※マークは本作オリジナルです。
「望風」型駆逐艦 ※
甲型駆逐艦に次ぐ大戦後期の帝国海軍の艦隊型駆逐艦。
基準排水量2030トン 全長120.4メートルと、甲型よりもやや長い船体を持つが、予備魚雷の廃止やシフト配置機関や主砲の高角砲の採用、ブロック建造と溶接工法の導入など従来の帝国海軍駆逐艦とは一線を画している。
「松」型駆逐艦
「松」型は史実通り。
甲型海防艦※
船団護衛用に開発されたミニ駆逐艦。「鴻」型水雷艇の運用ノウハウとブロック溶接工法の導入し建造は民間造船所で行われ短期間で多数の艦の建造に成功した。
主砲は「松」型に倣い12.7㎝高角砲を前部単装後部連装の3門、雷装は廃し機関は二二号一〇型ディーゼル二基をシフト配置で搭載し最大速力は19.5ノット。
排水量950トン、全長80.3メートルと海防艦の中では比較期大型で遠距離護衛作戦を念頭に開発されたため近海用の乙型や丙型に比べると居住性能は高い。
九六艦攻
正式名称 九六式艦上攻撃機
昭和11年(1936年)に正式採用された艦上攻撃機、空技廠(海軍航空技術廠)が開発と製造を行った。
帝国海軍最後の複葉艦攻で総生産数は300機弱。九七艦攻の登場以降は戦力外の扱いだったが現有機よりも短い距離で離陸が可能なことと鋼管布張りでKMXへの影響が少ない事から護衛空母用に現役復帰した。
九六艦爆
正式名称 九六式艦上爆撃機
昭和11年(1936年)に九四式艦爆の性能向上型として愛知航空機が改修し、九六式として採用された。愛知航空機が製造。
九六式艦攻と同時期の機体で、最後の複葉艦爆。
KMX搭載の九六艦攻が鉄の塊である爆弾を搭載できないことから、九六艦攻が発見した潜水艦に対する攻撃を対潜用爆弾を搭載した九六艦爆が担当した。
三式連絡機
正式名称 三式指揮連絡機
帝国陸軍が友邦ドイツの Fi156 シュトルヒを参考に開発、昭和18年(1943年)に正式採用された多用途機。
本来は陸上機だが、着艦フックを付けて特1TL型において対潜戦闘に用いられた。
最高速度178km/hと非常に低速だが、40mで離陸が可能で有る等傑出した短距離離着陸の能力を持つ。九六艦爆同様に対戦爆弾を搭載して九六艦攻が発見した潜水艦に対する攻撃を担った。
層雲※
正式名称 艦上哨戒機「層雲」
不足が見込まれた九六艦攻に代わる艦上哨戒機として急遽開発された。実体は零式水上観測機との競作に敗れた愛知航空機の十式水上観測機の陸上機仕様である試作2号機を基に艦上機として改修して採用した機体である。
機体の構造は零式水上観測機と同様に近代的な複葉機であるが、全金属製の胴体に木製骨組合板張りの主翼を持っていたのでKMXへの影響が少ないと考えられての抜擢であった。
艦上機への改修と生産は渡邊鉄工所、後の九州飛行機が担当した。
長く成ったのでここで一度投稿します。
ついでと言っては何ですが、おまけとして艦艇と航空機の説明も補足説明として載せておきました。
続きは近いうちに投稿予定です。もうしばらくお付き合いお願いします。




