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南溟の断証(ゴリアール)  作者: 雅夢
間章
20/42

二式短小銃 Wiki風

遅刻ですが、架空戦記創作大会2018秋参加作品です。

今回は小説ではなくWikipedia風に仕上げてみました。

二式自動小銃・二式短小銃(突撃銃)


 二式短小銃は、第二次大戦中、大日本帝国により開発された自動小銃である。現代的な突撃銃(アサルトライフル・Sturmgewehr)の原型と成ったナチスドイツのStG44などと比較すると旧来の小銃の形式を踏襲しているが、単発、連射の切り替えが可能である点、全自動射撃時の安定を確保する為に小銃弾を短縮した専用弾を使うなど、StGと共通した点も多く見受けられる。

 尚、二式短小銃は帝国陸軍の小火器としては初めて、本格的かつ全面的にプレス加工による量産が行われた兵器であった。


二式自動小銃・二式短小銃


種類軍用小銃

製造国    日本

設計・製造 大日本帝国


仕様

口径7.7㎜

銃身長410mm


ライフリング 4条右回り

使用弾薬   九九式普通短実包

装弾数10発・30発(湾曲箱型弾倉)

作動方式  ガスオペレーション・ショートストロークガスピストン方式

全長 955mm

重量5540g

発射速度450-550発/分

銃口初速710m/秒

射程420m


概要


 二式短小銃は南方の密林地帯での戦闘を教訓に、短射程高威力の単発連発の切り替え可能な携帯武器として開発された。

 太平洋戦争が開戦により、帝国陸軍はインドネシアやフィリピンなどの南方の密林地帯を主戦場としたが、従来の三八式歩兵銃やその改良型の一〇〇式歩兵銃等の小銃や九六式や九九式の軽機関銃では取り回しの勝手が悪く、また一〇〇式機関短銃等のサブマシンガンでは威力や射程が短く戦闘に苦慮していた。

 その解決策として投入された自動小銃の、一式自動小銃は基本と成ったペターセン自動小銃由来の問題点もあって故障や作動不良、命中精度の悪さに悩まされる結果と成り解決策とは成らなかった。

 そこで陸軍造兵廠研究所では、そうした問題を解決するべく昭和一七年十二月より新型小銃の設計を開始した。

 新型小銃は単発連発を切り替え可能し、通常は単発で使用し必要に応じて連発での射撃を行うとした。

 全体図は、米陸軍のM1カービンに似た外観をしており一足先の昭和一七年(1942年)に試作品が完成してたナチスドイツのMkb42が全面的にプレス部品で構成し直銃床と拳銃型把握を持っていたのとは対照的であった。

 銃弾は九九式短実包と呼ばれる7.7mm×35mmの新型実包を新たに開発して使用した。

 作動方式はガス圧利用のショートストロークピストン式、閉鎖機構は遊底揺動式と既存の技術を集積した形と成っていた。

 前述の通り曲銃床は木製で、銃床は帝国陸軍の特徴でもある上下の繋ぎ合わせと成っている。

 銃本体やハンドガード、銃身周りの部品と弾倉には薄い鋼鈑をプレス加工したものが使われている。

 こうした形状の為に、単発時の命中精度は高いが連射時には難が有ると言われているが、実際には連射で使用する事は少なく問題には成らなかった。


歴史


 大日本帝国陸軍における陸戦の中心兵器は、分隊当たり一挺が配備されていた軽機関銃であり、小銃を携帯した小銃手はその支援或いは護衛と言った位置付けであった。

 従って、小銃と軽機関銃の弾薬は共用が出来る必要が有った、当初主力の三八式歩兵銃は九六式軽機関銃と共通の三八式実包が使われていたが、大陸での戦闘では三八式実包の威力不足が懸念され口径を7.7mmへと拡大した九九式歩兵銃と九九式軽機関銃へと更新が行われた、しかしながら軽機関銃は問題は無かったが歩兵銃の方は正式採用後に問題が多発し結果的には少数の採用で終わってしまう結果となった。

 当時の世界の趨勢が歩兵銃の銃身長を短縮化する傾向にありドイツでもGew98の740㎜からKar98の600㎜へと短縮していた、これは先の大戦での塹壕戦闘などで問題と成った取り回しの悪さを改善する為で、それに乗る形で昭和一三年より開発が開始された新型歩兵銃(後の九九式歩兵銃)も三八式の797㎜から657㎜へと大幅な短縮をしていた。

 しかしながら、小口径で長銃身である三八式に比べて、大口径で短銃身の九九式は反動が大きく命中精度が劣る結果と成り、減装弾である九九式普通実包を開発したが思う程の結果が出ず、弾薬の供給の支障になると判断されて採用取りやめとなった経緯が有った(但し、九九式普通実包は軽機関銃では有用と言う判断で重機関銃も切り替えで使用可能として主力実包として使用され続けた)。

 実は九九式には従来通りの銃身長を持つ九九式長歩兵銃も開発されていたのだが、先の大戦の戦訓である短小型が主力とされたの為に長歩兵銃はその後九九式狙撃銃へ改造される事と成ったが、皮肉にも歩兵銃が採用取りやめになっても狙撃銃は生き残り戦場に於いて終戦まで使用される事と成った。


 歩兵銃の7.7mm化に失敗した形と成った帝国陸軍は、その後現用の三八式歩兵銃の改良に取り掛かり一〇〇式歩兵銃を開発した。これは、三八式が一部の職人によって組み上げられ部品の互換性を考慮されていなかった点を改正し、限界ゲージ方式を採用して全部品の互換性を確保した事にあった。更に銃身長を取り回しの良い様に300㎜短縮しているが元来反動の少ない小口径団ゆえに命中精度の著しい低下は無かった(こうした形状の為に一部の資料では一〇〇式騎兵銃とするものも見受けられる)。

 結果、帝国陸軍は三八式と一〇〇式の新旧二種の6.5mm口径ボルトアクション歩兵銃をもって太平洋戦争へ臨むことと成った。。

 一方で、帝国陸軍も遅まきながら昭和七年には自動小銃の研究と開発を始めていた。

 陸軍工廠研究所や民間会社を交えての研究と開発は、購入した海外の自動小銃の模倣から始まり、試行錯誤を重ねて昭和九年には本格的に試作銃の製造が開始された。

 翌年には三種の試製自動小銃が完成している。このうち甲号と丙号は米国より購入したペターセン小銃を基本とし、乙号は中華民国軍から鹵獲したチェコのZH-29自動小銃を基に開発されていた。

 試製自動小銃の甲号と丙号は、双方ともペターセン式のトルグアクションを踏襲するなど外見上はペターセン小銃の影響が大きく残っていたが、構成する部品数がペターセンの三分の一に成っているなど中身は全く別物であった。

 翌年からは完成した試作銃を用いた実射試験がその後三年に渡って行われたが、早期に脱落した乙号を除く甲丙両号の性能の優劣はつけがい上に焼き付きなどの故障や命中精度の悪さなど問題も多く、結局両銃とも採用は一旦見合され開発が継続される結果と成った。

 その後開発は、小倉の陸軍造兵廠研究所(陸軍工廠)研究所と民間企業の共同で行われ、途中で口径が拡大し6.5mm三八式実包から7.7mmの九九式普通実包へと使用弾薬が変更されながらも続けられたが、最終的には丙号を基に開発した試作小銃が昭和一五年に一式自動歩兵銃として仮制式制定となった。同銃は外見的には九九式歩兵銃の形態とペターセン式のトルグアクションの機関部が特徴であった。弾倉は二〇発入りの着脱式箱型弾倉を使用したが九九式軽機関銃の三〇発入り湾曲弾倉も使用が出来た。

 当初一式自動歩兵銃は、弾薬の補給力の制限から国内若しくは大陸の関東軍にて小数が使われるだけの予定であったが、太平洋戦争が開戦しその後に戦場が南方の島々へ移ると同銃は予定外の戦場へ送り込まれる事と成った。

 南方の島々の戦場の多くは見通しの利かない密林地帯がそのほとんどを占めていた。

 こうした戦場での戦闘は出会いがしらや待ち伏せなどの例が多く、元来の歩兵銃と軽機関銃ではその射程を生かせない近距離での戦闘が多く、連射速度の劣るボルトアクション式の三八式歩兵銃や一〇〇式歩兵銃では、自動化した火器を備えた米軍に対して撃ち負けて圧倒される例が多発していた、一式自動歩兵銃の投入はその喫緊の課題に対する答えのひとつだったのである。

 つまり、一式自動歩兵銃による小銃兵の火力強化が図られた訳である。

 しかしながら前述通り、この小銃は故障が多く手入れの行き届かない前線では作動不良が多発し結果的には当初目論んだ歩兵単位での火力の増加には寄与できなかった。しかし、昭和一七年一二月のテ号作戦時にガダルカナル島に於いて友軍の撤退を支援するべく捨て石を覚悟して同島内に残置された狙撃兵が同銃の狙撃型を使用して追撃する米陸海兵隊に多大な損害を与えた事は同銃の性能の高さの一端を示す結果と成ったと言っても良いだろう。


 昭和九年より始まった一連の自動歩兵銃の開発は、一式自動歩兵銃の仮制式制定によって一応の成果を得る結果と成ったが成果はそれだけでは無かった。

 そうした試作品の中には自動化した騎兵銃の試作銃も有った。

 試製自動騎兵銃甲号と呼ばれたその銃は、ロシアのフェデロフM1916をモデルにしていた。このM1916の最大の特徴はロシアの正式兵器でありながら三八式実包を使用していた点に有った。これは反動の少ない同実包を使う事でフルオート射撃時のコントロールを容易にさせるためであった。

 小型軽量で単車連射の切り替えができる同銃は、配備された年が1916年(大正5年)である事を考えれば恐ろしく先進性を持っていたと評価できた(オーソドックスな銃床だったがフルオート時のコントロールを容易にするために木製のフォアグリップを持っていた)。

 試製騎兵銃はその銃を基本に開発が行われたが、それは総合以上に難儀なものであった。

 何より問題なのは、その閉鎖機構に銃身が後退する動きを利用するショートリコイルを採用した事に有った、当然ながら銃身が動くことは命中精度の劣化を招く、これはガス圧利用時のガスピストン等の部品を無くして構造を簡素化できる以上のデメリットであった。。

 結局、開発を担当した名古屋工廠の研究所は、それを一般的なガス圧利用に改めて設計し直している。

 また、弾薬が三八式実包である事も問題だった。

 三八式実包は弱装とは言えフルサイズカートリッジである、従ってフルオート射撃時の反動をコントロールする事は大柄なロシア兵に比べて小柄な日本兵には容易では無かった。

 結局、フルオート時の命中精度の悪さを改善できず試作計画はそのまま中止と成った。

 そして、その後の太平洋戦争の勃発である。

 昭和一七年一二月、前述の密林に於ける遭遇戦での火力不足を解消する手立を模索していた陸軍技術本部は、以前試作した銃の中からこの試製騎兵銃に関する記録を見つけ出し、再度、名古屋工廠研究所に大威力の短距離戦闘用の携帯火器として開発する様に命じた。

 前回、試製騎兵銃も実用化に失敗した名古屋工廠研究所であったが今回は秘策が有った。

 先に、同研究所が開発した九九式歩兵銃では口径の増大と銃身の短縮により反動の増大が問題と成った事を記したが、これに対する対策案として使用予定であった九七式普通実包の威力を低減するために弾頭と装薬、つまり発射用の火薬を減量する事としたのだ。

 こうして開発されたのが九九式普通実包であったが、弾丸で約2g、装薬で0.5gの減量だがここに至るまで数多くの減量実包を作成し実際の射撃を行いそのデータを残していた。

 このデータを基にフルオート時に制御可能な、軽量弾頭を持つ減装実包を開発する事したのだ。

 各種の試作の末、選ばれたのは9gの弾頭と装薬1.68gの組み合わせであった。

 装薬を収める薬莢長は六割に減量した装薬に合わせて23mm短縮して35㎜とし、弾頭は従来の31mm11.8gから9mm短縮した22mmとなった。

 これが九九式普通短縮実包、一般的には九九式普通短実包と呼ばれる新型実包であった。

 この実包は確かに新規開発の実包であったが、弾頭はデットストックと成っていた九九式普通実包のものの切り詰めての流用であり、薬莢に関しても底部とネック部分は九九式用のゲージがそのまま使えるようにするなどの工夫がされていたので製造に大きな混乱は起きなかった。

 この新型短縮実包に合わせて再開発された試製騎兵銃の試作銃が完成したのが昭和一九年一月の事であったから、平時では考えられない速度で開発が進んだことになる。

 完成した試製騎兵銃は、こ段階で既に二式自動小銃の仮称が与えられ国内での実射試験が行われ、同時に発覚した不具合の修正が行われ試射と改修が同時進行で行われ第一期試作分は同じく仮称九九式普通短実包と共に火力強化を待つ前線へと送り出された。

 サイパンへ向かった試作分は、輸送船が撃沈され全てが海没と成ったが、フィリピンやパラオへ送られた試製銃は現地へ届けられ、その後の戦闘に投入され少なからぬ現場からの貴重な意見が寄せられ以後の改修の元と成った。

 更に同銃が正式採用されると大量生産に移され、試作段階では削り出しだったレシーバーなどがプレスによる加工に変更される等多くの量産化に向けた変更がされ、それらの銃はその後激戦地となった、パラオ諸島や硫黄島、沖縄へと送り出されていった。

 名称は当初、二式自動小銃であったが短小実包を使用する同銃にはそぐわないとして後に二式短小銃へと変更された。


構造


 外見は、米軍のM-1カービンとロシアのフェデロフM1916の外見的特徴を持ち合わせ、コンパクトな造りと成っていた。

 比較的短い銃身と木製の銃床、前半分の上部は金属製のハンドガードが取り付けられてその内部にはガス圧利用の為のガスシリンダーが有り、M1カービンを模倣した思われるショートストロークガスピストンが内部を後退して遊底の固定を解除する様に成っていた。

 解除機構は、M-1カービンのロータリー式ではなく遊底の後端がレシーバー後方の突起に噛み合う遊底揺動式と成っていた。

 この固定は、遊底上部のキャリアーが後退することで上部へ持ち上げられて外れる様に成っていた。

 ユニークなのは、撃発がハンマーではなく撃針が直接雷管を打つストライカー式と成っていたことで、撃針は遊底が後退した時にロックされ撃鉄の動きによって解放される仕組みと成っている。この方式が取られたのは銃身の延長線上で撃針が直線移動することでブレの原因となる動揺を解消する目的があったと言われているが、後述に有る様に材質の劣化も有って不発が多発する結果ともなった。

 意外なのは日本の銃の特徴である銃身内のクロームメッキがされていない事だった。これは工期短縮とコストダウン為と考えれらている。


運用


 前述の通り、二式短小銃は戦局がひっ迫した段階で実戦へ投入された結果、その効果がどれ程のものであった確認されていない。

 ただ、実際に同銃を使用した兵士たちの手記が残されている。

『最初は、おもちゃみたいな銃だと皆文句を言ったが、実際に使用してみるとこれが結構(敵に)当たって驚かされた、特にジャングルの中の戦闘では敵を圧倒できる時も有った。』

『連射時の制御がしやすくてありがたかったが、不発や作動不良も多く、更に弾の消費量が多くて直に無用の長物に成ってしまった。』

 この様に、肯定的否定的両意見あるものの弾がある限りは有用であったようだが、やはり帝国陸海軍の兵站能力の弱さがネックになっている様だった。

 この他、撃たれた側であるアメリカ軍の評価に関してはアバディーン性能試験場における報告書が残されている。

 それによれば、

1、操作は容易だが、セミ・フルの切り替えレバーのサイズと位置が適切ではない。

2、フルオート時のコントロールは容易。

3、分解掃除は容易だが小さな部品が紛失しやすい。

4、全体的に造りが華奢で堅牢さに欠ける。

5、泥や雨の下での発射試験は問題ない。

6、弾薬の出来上がりにムラが有るのか、排莢不良や撃発不良が多発した。

7、撃発がストライカー式ゆえの不発も多い。

 登場時期が大戦の後半と言う事で材質の劣化や加工の不良も多く、その力を充分発揮できたかは疑問だが、国産銃の中で異彩を放つ存在でる事は確かである。


戦後の二式短小銃


 終戦時、多くの二式短小銃が本土決戦用の火器としてその弾薬と共に生産、備蓄されていたが降伏に伴いそれらは占領軍に接収された。

 接収された銃の一部は朝鮮戦争に於いて武器が不足していた大韓民国軍に供与されて使われたが、一方で北朝鮮軍も中国大陸で接収された同銃を使用していたので同じ銃を向けあっていた可能性も有った。

 その一方で、戦中戦後を通じて多くのアメリア兵が二式短小銃を持ち返っており、九九3式普通短実包も米銃火器メイカーがレプリカの二式短小銃と共に7.7×35mmJPとして生産されていて、M-1カービンと同様に手軽なハンティングライフルとして愛好家も多い。

 また状態の良い銃は、ドイツのStGと並んで突撃銃の先駆者としてのコレクターの人気アイテムと成っている。


架空の銃として参加しています。当然ですが二式短小銃や一〇〇式歩兵銃、一式自動歩兵銃は残念ながら存在しません。

当初は、二式短小銃だけ出す予定でしたが関連で2種も出してしまいました。

今回は年末の仕事が前倒しになる関係で時間が取れず遅刻成ってしまって残念です。

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