第1-1話 八坂激闘譜Ⅰ
今回から本編の始まりです、第一話は四編を予定しています。
今回は導入部ですので説明文多めですがご容赦下さい。
八坂激闘譜Ⅰ
昭和十七年(一九四二年)八月の米軍を中心とした連合国軍の反攻(ウイッチタワー作戦)によって始まったガダルカナル島を巡る戦いは正しく国家の全てを賭けた消耗戦の様相を呈していたと言う事が出来ました。
日米の両軍は、当時多くの人間が名も知らなかったこの小さな島を奪い合う過程の中で陸海空のあらゆる戦場に於いて惜しげも無く兵器と物資そして兵員、つまり人命をすり潰し消費していたのです。
然しながら、勝利の見えない底なしの消耗戦こそ日本にとっては悪夢以外の何物でない悪手でした。何しろ、天然資源、人的資源、産業力、技術開発力のどれをとっても米国に大きく遅れを取っているのが実態であったのですから。
遅まきながらその状況に気が付いた帝国陸海軍は、この事態を乗り切るために陸海軍の総力を上げたガダルカナル島攻略の実施を決定したのです。
しかし、決定は簡単ですが、実際には物資の不足と兵員の損耗により低下した同島上陸軍戦力の再編と再構築が必要であったのです、正に“言うは安し、行い難し”な状況でした。
その立て直しには兵員と物資、兵器と弾薬、医薬品と食料品、等大量の物資と兵員の輸送と傷病兵の引き上げが不可欠であったのです。
そう考えるなら差し当たっての障害は、ガダルカナル島揚陸地目前のヘンダーソン飛行場基地の存在と成ます。考えるまでも無く目の前で行われる輸送作業を米軍が座して見逃すはずが無いからです。
当時既に、このガダルカナル島のヘンダーソン基地は複数の飛行場を有する航空基地と成っており、これまでに於いてもこの基地に配備された大小の航空戦力はよって日本軍の輸送作戦は常に阻止、または撃退されていたのですから。
となれば、どうすれば良いのか?
この問に対して帝国海軍が出した答えが、戦艦を中心とした挺身砲撃隊を編成して航空機が飛べない夜間に同島へ接近し飛行場へ艦砲射撃を行い航空戦力の殲滅を図るというものでした。
これは、十月十三日に、既に「金剛」と「榛名」が行ったヘンダーソン基地砲撃の再現でした。
軍隊は過去の成功体験に縋る傾向有るが、帝国陸海軍は特にそれが強かったようです。
この作戦の骨子は承認を得て、「金剛」型戦艦の「霧島」と「比叡」がそれに投入されることと成り、これに護衛と支援の為に複数の水雷戦隊が付けられ挺身砲撃艦隊が編成される事と成りました。
しかし、それでも不安は残ります、そこで外洋から航空機で上空からの支援を行う機動部隊が支援部隊として編成されること成ったのです、これに使用された空母はミッドウェー海戦の唯一の生き残りである中型空母の「飛龍」、改装空母の「隼鷹」と小型空母の「瑞鳳」の三隻でした。
この虎の子とも言うべき第二航空戦隊に、同じように装甲巡洋艦の「草薙」型の三隻で編成される第十二戦隊と重巡洋艦、水雷戦隊により外洋支援艦隊を組んでガダルカナル島の北方海上から航空支援を行うこととしたのです。
この二つの艦隊は、十一月九日早朝に前後して帝国海軍の南方最大の拠点であるトラック諸島を進発、警戒態勢を取りつつ南下を開始しました。
その一方で、本命である輸送艦隊は、十隻から成る輸送船団と二隻の水上機母艦に護衛の一個水雷戦隊で編成されショートランド泊地を十二日に出撃する予定に成っていました。
対する米軍は、毎度の事ながらよく出来た情報網を駆使して相当早い段階で日本軍の攻撃を察知しており、近隣の警戒部隊を集結、再編成させると同時にヘンダーソン基地への兵員と航空機の補充を行って、更に当時太平洋艦隊の最新型の戦艦である「ワシントン」と「サウスダコタ」をガダルカナル島へ回航して補充戦力として日本艦隊の来寇に備えていたのです。
やがて両軍はガダルカナル島北方海域、日本側名称『鉄底海峡』・米国側名称『アイアン・ボトムサンド』で相見える事と成ります、これが後の戦史に第三次ソロモン海戦と刻まれる海戦始まりでした。
海戦が始まって以来、第二航空戦隊を基幹とした機動部隊はサンタイザベル島北方の海域において航空支援を中心に作戦行動に就いていました。途中、十四日未明に外洋支援艦隊の重巡洋艦と駆逐艦の一部が直接支援の為に引き抜かれた為に外洋支援隊は母艦支援隊、或いは機動部隊と名称を変更していました。
この機動部隊のこれまでの最大の戦果は、十四日早朝に発見された米軍のヨークタウン級空母一隻の撃沈でした。
これは十四日早朝に放たれた索敵機が捉えた敵空母に対してすぐさま総力で殴りかかった山口中将の的確な判断と行動力の賜物であり、先の南太平洋海戦での南雲中将の及び腰の采配とは一味も二味も違う正しく帝国海軍の航空戦の真髄を見せ付けられた感が有りました。
しかし、その一方で撃沈した敵空母は既に攻撃隊を発艦させており、その攻撃隊が結果的に前夜の夜戦で舵を損処した「比叡」に止めを刺したことから、(ミッドウェーの敵である)敵空母の撃沈に拘って肝心の友軍の援護が疎かに成っていたとの声が連合艦隊司令部を中心に有ったのも確かでした。
そうした中、私達の第十二戦隊は特に危機的な状況に陥ることもなく、二度ほど来襲した敵機に対して対空砲火による応戦をしたのが数少ない戦闘でした。
しかし、十一月一五日の未明、その日の攻撃に備えてサンタイザベル島北方のオントン・ジャワ環礁近海の海域で給油を受けていた機動部隊は、給油を終えてサンタイザベル島北方の作戦海域に向かうところで新たな命令を受けたのです。
その命令は・・・。
「『第十二戦隊の装甲巡洋艦「八坂」「八咫」は第四水雷戦隊第二七駆逐隊の「時雨」「白露」「夕暮」と供にショートランド泊地へ向かわれたし』ですか?」
第十二戦隊の旗艦である「草薙」から司令部要員とともに移乗してきた木村進少将に対して「八坂」艦長の安川大佐が命令の確認を行いました。
通常であれば許されない行為でした、がこの命令に疑問を抱いているのは木村司令も同様のようでで特にこの質問に対しての言及は有りませんでした。
連合艦隊は作戦開始の時点で、先の南太平洋海戦により敵の空母機動部隊は壊滅しており敵の航空戦力は基地の陸上攻撃隊が中心で大きな脅威とな成りえない判断して、今回投入した戦力で充分であるとしていました。
だが実際には敵空母は居ました。
幸いなことに山口中将の果敢な攻撃により、その脅威は大事に至る前に取り除くことが出来ました。
結果的にその存在は大した問題には成らなかった、いや、脅威の芽を大事に至る前に摘み取った言うべきでしょう。
それであるのに拘わらず、連合艦隊司令部が必勝を期して送り出した、戦艦を中心とした挺身砲撃艦隊は、十三日と十五日の二夜に渡る夜戦において米艦隊により何れも目的を阻まれ、基地砲撃を断念するだけでなく逆に「比叡」と「霧島」の虎の子の戦艦二隻を失う失態を演じていたのです。
然しながらと言うべきか、後に目にした資料によれば、連合艦隊司令部の面々は戦闘に敗北し作戦が失敗した事よりも、二夜に渡る夜戦に連続して敗北した事の方により深い憂慮の念を持ったと記されていたのです。
何故でしょうか?
それは連合艦隊、いや日本海軍の成り立ちに深く関わっている言えます。
今日の戦後の成長後の日本からは想像できない事でしょうか、戦前の日本は酷く貧しかったのです、日清・日露の両戦争で勝ったとはいえ、英米列強に伍する国力は望むべきも無く、故に日本海軍はその誕生から短期決戦の迎撃専門艦隊でした。
加えて第一次大戦後の軍縮条約により日本海軍は英米に対し質と量の両面で枷を嵌められる結果と成っていたのです。
このような質量共に劣る戦力の差を埋める戦い方として、苦心の末に開発された酸素魚雷とそれを活用するための肉薄攻撃でした。
しかしながら敵も不用心に白昼に横腹を晒すことはないし、猛烈な攻撃で接近を拒むであろうことは予想できました。
それではどうすれば良いのでしょうか?
敵艦に対して刺し違えを覚悟して突撃するか?
いや、刺し違えれるなら未だ良い方でしょう。
恐らく大半が射点に付く前に撃破され無駄に命を散らす結果と成るはずです。
と成ればどうするれば良いのでしょうか?
そこで目を付けられたのが民族的な特性、つまり夜目が利く(夜間に視界が確保できる)と言う特性でした。
最終的に帝国海軍は、西欧列強に対して質量の両面で劣る現状を打破するためとして、当時の世界水準を大きく上回る性能の酸素魚雷を開発・配備し、それを活用する戦術として艦隊の組織的な肉薄攻撃を考案したのです。
そして、それを可能とする条件として設定したのが、敵にとっては視界が確保できない夜間における組織的襲撃だったのです。
その結果として訓練は夜戦を前提に行われる事と成り、巡洋艦や駆逐艦には他国ではありえない量の魚雷が搭載されその時を待つことと成ったのです。
その努力と苦労が戦果として結実したのが、先に行われた第一次ソロモン海戦に於ける大戦果であったと言う事が出来るでしょう。
故に我が軍は益々夜戦での勝利に対する自信を確実なものとしてきたはずでした。
しかし現実は、負けるはずのない夜戦で、夜は盲人同様に成る白人に敗れた。
指揮官に問題が有ったのか?いや、指揮を取ったのは夜戦の為に日夜の猛訓練に耐え抜いた練達の者達でした。
何故か?その答えを得られぬまま屈辱的敗北と言う事実のみが連合艦隊司令部の面々に刻み込まれたのです。
しかし、失われた名誉は取り返されなければ成りません。
心血を注いで今日の栄誉を築き上げた先達のためにも、ガダルカナル島に上陸したまま動けないでいる陸軍へのメンツのためにも、です。
故に、何が何でもガダルカナル島への攻撃と兵員・物資の輸送は成されなければならなかったのです。
我々、第十二戦隊がショートランドまで呼び出されたのはそう言った事情から出した。
十一月十五日の深夜、連合艦隊司令部からの指令を受け、対潜対空監視を厳にしつつショートランド泊地に辿り着いた私達を迎えてくれたのは、先の夜戦に敗れながらも未だ闘争心を捨てていない無骨なる艨艟達の群れでした。
さて「断証」も本編が始まりました、今回もやっぱり説明文多めですがそれを止めると私の文章では無くなるのでこのまま行きます。
最後までお読みいただいてありがとう御座います。誤字脱字が有りましたら何時も通りに感想の方でご一報頂けると助かります。
勿論、感想意見そして要望も有りましたら同じく感想文の方へ書いて下さい。
次の話は来週日曜日までに投稿できるよう頑張ります。
5/8(日) 艦隊へのショートランド泊地への移動命令を受けた時間と到着時間を変更しました。
第二夜戦は、一四日深夜から一五日に日付が変わる頃に行わた事に気が付かないで一日ずれて書いていました。