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南溟の断証(ゴリアール)  作者: 雅夢
間章
19/42

間章 装甲巡洋艦「三種」 0806

72回目の原爆忌にこの作品を送ります。

先の戦争と原爆の犠牲者へ哀悼の祈りを捧げます。

装甲巡洋艦「三種」0806


 昭和二十年(一九四五年)に入ると戦況は著しく悪化しました。

 帝国海軍は、先年のマリアナ・レイテの両海戦と春の沖縄強襲戦で主力である戦艦と正規空母の多数を喪失し、加えて基地・空母の両航空隊もその数を大きく減じた結果事実上の壊滅状態となりました。

 陸軍も又制海権を失い補給路を寸断されたことにより支配地で孤立し各個撃破の憂き目に合っています。

 これ以後、生き残った艦艇の内一部の護衛空母と巡洋艦、駆逐艦と海防艦(新規建造の小型駆逐艦)は海上護衛隊へ所属を変えて海上補給路の守備の為に船団護衛に当たり、その他の生き残りの戦艦や重巡は主要な軍港などで洋上対空砲台として使用される事と成りました。

 そして、昭和十九年(一九四四年)の六月以降マリアナ諸島が、翌年二〇年の四月には沖縄、六月には一度は敵軍の撃退に成功した硫黄島と日本本土を直接狙える位置の島々が次々敵の手に落ち、テニアン・サイパン・グアムから超重爆撃機であるB-29・B-32が日本本土へ飛来し始め大都市や工業地帯がその標的とされました。

 七月も中ごろを過ぎると、硫黄島と沖縄本島へ整備された飛行場から飛び立ったP-51が攻撃に加わり本土上空の制空権の確保も危なくなっていました。


 そして、七月末までに日本本土の主だった都市や工業地帯の多くはB-29・B-32の爆撃を受ける事に成りましたが、前述の海上護衛隊の地道な奮闘や学徒も加わった生産現場の努力もあって細々ながら南方資源地帯と本土を結ぶ海上補給路の維持が行われ、兵器の生産に必要な資源とその燃料が確保することが出来たお陰で我々は終戦のその時まで戦い抜くことが出来たのです。

 私が指揮を執る装甲巡洋艦「三種」は、その姉妹譲りの傑出した対空能力を買われて帝国海軍の最重要拠点である呉を守るべく、江田島北方海上を遊弋する形で主に艦載機の空襲に対していました。

 本来であるなら、邀撃位置は海域に余裕が有る倉橋島東方海上とするべきでした、しかしながら、対岸である四国の松山基地に展開していた三四三空、通称剣部隊が同海域上空を担当する事と成っていた為、主に同士討ちを避ける意味合いから邀撃海域が江田島沖に成ったと聞いています。

 実際に三四三空の活躍は目覚ましく、最新式の噴進戦闘機である〈紫電〉や重邀撃戦闘機〈震雷)、艦上戦闘機〈烈風〉など多数の戦闘機を要して敵艦載機からB-29までを相手とした激戦を繰り広げていました。

 この為、三四三空からの迎撃を避ける必要から西回りで呉上空への侵入を試みる敵機も多く存在したため「三種」が江田島北方海上に居ることの重要性が増す結果となったのです。


昭和二十年八月六日、昨夜よりこの日に掛けて珍しくB-29による夜間爆撃は行われませんでした。

 しかし、六日深夜より米軍による四国、中国地方と九州南部にあった航空部隊の基地に対して散発的な空襲が繰り返し行われていました。特に前述の三四三空の根拠地である松山基地を目標とした空襲は執拗で敵機の機数も攻撃の回数も多かったあったとの報告を受けています。

 こうした状況に対処するために当「三種」も持ち場の江田島沖ほぼ一晩中陣取って三四三空の支援にあたりました。

 当初は呉鎮守府より、「倉橋島近海に移動して支援をしたらどうだ?」という提案もありましたが、敵味方識別装置を持たない当時としては夜間の乱戦と成れば同士討ちの危険が大きく、この提案は退けざるを得ませんでした。

 最初に攻撃を仕掛けたのは米軍の占領下である沖縄から発進した双発の爆撃機とP-51の混成による戦爆連合隊でした、接近を電探で察知した三四三空は〈烈風〉と〈瞬雷〉を中心とした戦闘機隊を邀撃に当たらせました。

 この空襲では、四国沖で敵機編隊の捕捉に成功して本土に近づく前に撃退に成功しましたが、この間に他の敵部隊が松山基地を低空から急襲、一部基地に損害が出る事態と成りました。

 更にこれに加えて黎明には敵艦載機による空襲もあって、三四三空は一夜で度重なる出撃を余儀なくされ、人員・機体ともに少なからず消耗したとの記録が残されています。

 しかしながら、不思議なことにこの空襲に関しては米軍側の記録の多くが機密指定とされていて戦後も長期に渡って詳細も全貌が明らかにされていないのです。

 

 日の出前から行われ米艦載機の攻撃を最後に敵の空襲は終わりました。

 この攻撃は四国沖海上の機動部隊から行われたもので、二隻の正規空母の艦載機百機余りが四国や九州、中国地方の我が軍の陸海軍航空機基地へとかなり広範囲に行われたものでした。

 「三種」も江田島周辺を遊弋しながら、主に松山(瀬戸内海側から回り込もうとしていたと考えられる)と広島や呉周辺の基地へ攻撃に向かう米艦載機を相手に対空戦闘を行いました。

 それでも敵機が引き上げた事で戦闘は終了、私は戦闘の為に安芸灘まで南下していた「三種」を本来の持ち場である江田島近海への回航を命じて艦内の戦闘態勢を解き各自に仮眠と休息を命じ、自分も艦長休憩室で仮眠を取ることにしました。

 しかし、一時間程した六時前に私は当番兵に叩き起こされる事と成りました、三四三空より警戒情報として少数のB-29が接近中との報がもたらされたのです。

 私は制服を整えると艦長休憩室を出て二層上の第一艦橋へ上がりました。

「お休みのところ申し訳ありません。

 呉鎮守府経由で松山から警戒警報が来まして・・・。」

「構わんよ。警戒警報となるとB-29かな?

 休んだばかりの皆には悪いが戦闘配置をとろう。」

 短時間ですが艦の指揮を執ってくれていた副長の松木伊折中佐と引継ぎを行います、彼は当直として私が仮眠中の指揮を行って来ましたが、ここで再び私と交代となります。

「少数のB-29が中国地方へ接近中、現在のところ確認されているのは四機ですが内一機は先行しているそうです。」

「少ないですね、偵察でしょうか?」

 松木中佐は各部への戦闘配置の命令を伝えると三四三空からの敵情報を読み上げます。

 それを聞いていた航海長の加藤公伸中佐が眠たそうな表情のまま口を挟みます、彼も仮眠をとっていて叩き起こされたのです。

「今の段階で偵察と断じるのは早計だろう。」

 副長から電信記録の綴りを受け取った砲術長の速水久光中佐がそれを捲りながらそう答えた。

 確かに敵機の数は少ないが、相手はあのB-29だ用心に越したことはない。

「飛行経路は解るかな?」

「鎮守府から追って知らせが来る筈ですが・・・。」

「それを待っていたら敵機は行ってしまうな。

 仕方ない、松山へ直接聞いて最新の位置情報を教えてもらおう。」

 この時の呉鎮守府の対応に対しては、昨夜の空襲で彼方此方の基地が被害を受け、その全容把握と対策で手一杯という感じでした。

 それで、そこは同じ海軍と言う事で出元の三四三空へ直接問い合わせてみる事としたのです。

 しかしながら、三四三空は先程までの空襲のお返しとばかりに、反撃の準備の真っ最中でこちらからの問い合わせに対しても非常に素気無い対応でした。

 それでも、偵察隊からの観測結果を聞き出すことが出来たのは収穫と言って良いでしょう。

「これまで判っている情報を整理する。」

 第一艦橋の奥、海図台を囲むように並んだ主な指揮官が副長の言葉に頷きました。

「敵編隊は、四機。

 この内、一機は大きく他を先行しているから正しくは、一機と三機編隊と言うべきだろう。

 一機目のB-29は既に広島上空を通過、太平洋上へ逃走中だ。」

「素通りですか、偵察機か何かでしょうか?」

「どうだろうな。

 小月の陸軍さん(第十二飛行師団)の四式戦が邀撃に上がったが逃げられたそうだ。」

 速水砲術長の問いに対して副長は淡々と答えます。

「こいつは良いでしょう、もう逃げているのですから。

 問題なのはその後ろからくる三機ではないでしょうか?」

 そう言って航海長は話を先に進める様に促しました。

「その編隊の進路は?」

「三四三空からの情報に依りますと、敵編隊は紀伊水道付近で三四三空からの邀撃を受けて高度を上げ播磨灘を北進、小豆島付近で一度西へ向きを変えた後、尾道付近で内陸部へ向かおうとしましたが、陸軍のキ-94〈大鷹〉の邀撃を受けて再び会場に出て西進中とのことです、なおキ-94の攻撃で一機が撃墜されています。」

 私の問い掛けに対すして副長は海図上に記された敵の飛行経路をなぞりながら淡々とした口調で答えたくれました。

「三四三空は邀撃機は上げないのか?」

 速水砲術長の問いは当然の内容でした、従って松本副長も明快な答えを用意していました。

「今朝までの邀撃戦での消耗と反撃に手を取られて出せないそうだ。

 但し、〈彩雲改〉が一機位置確認の為、敵編隊へ張り付いてくれている。」

 〈彩雲改〉は中島飛行機が開発生産した艦上偵察機で、六〇〇㎞/h超の高速を誇っていた<彩雲>が連合国軍が七〇〇㎞/hを超えるP-51やグリフォンスピットファイアを投入してきたのに対抗して、二〇〇〇hpの誉発動機を二二〇〇hpの輝発動機に排気タービン過給機を装着した物へと換装した機体で七五〇㎞/hの高速と高高度性能を誇っていました。

 そして今しがたも電文を持った伝令が艦橋へ駆け込んできて副長に手渡しました。

「0745 大島上空を通過。

 コースを北西へ変針。」

 そう副長が読み上げる経路を、航海士の一人が海図に書き込みます。

「こちらへ来ますね、これは。」

 その経路は真直ぐ江田島の沖を通るコースを描いていました。

「航海長、現在位置は。」

「先程、椎ノ木鼻沖を通過しました。」

 私の問い掛けに航海長は即答します、椎ノ木鼻は江田島から似島へ向かって突き出した小さな岬です。

 これで「三種」は本来の持ち場である江田島北方海上へ戻って来た事に成ります。

「航海長、私は防空指揮所で指揮を執る、君はこれより操艦の指揮を執ってくれ。」

 私の指示に航海長は敬礼して了解すると、下層の司令塔内で舵輪を握っている操舵手と機関部へ指示を出します。

「砲術長、副砲準備。」

 私は「三種」が搭載する兵器の内、最も高高度を精密の攻撃でき、最も威力の高い兵器の使用を命じました。

「副砲準備、了解!

 これは良い具合に右砲戦で行けそうですね。」

 砲術長は機嫌よくそう答えると、副砲長を呼び出し射撃の指示を出しました。


 「三種」は装甲巡洋艦「草薙」型の四番艦として建造されました、つまり四隻建造された姉妹艦の最後の艦と成ります。

 この「草薙」型の建造目的は、艦隊決戦の露払いとなる雷撃戦に於いて、水雷戦隊を嚮導して敵艦隊へ突入する事でした。

 この為に、「草薙」型には立ちはだかる敵の巡洋艦を一撃で屠る砲撃力と高速の駆逐艦に同行できる足に速さ、そして敵戦艦と一時的にでも撃ち合える砲撃力と防御力を要求されたのです。

 こうした戦闘教義により建造された本型艦ではありましたが、その建造の途中で目的の変更が行われた結果、四隻の姉妹艦は結果的に異なった姿で誕生する事と成りました。

 当初、「草薙」型の装備は主砲として五〇口径三一センチ三連装砲三基九門、副砲を六〇口径三年式一五.五センチ連装砲二基四門の予定でした。

 四隻の内、この当初の武装で完成したのは二番艦の「八坂」と三番艦の「八咫」の二隻のみで、一番艦の「草薙」は副砲であった三年式一五.五センチ砲を三連装で五基一五門、四番艦の「三種」は主砲として五〇口径三一センチ三連装砲二基六門、副砲として六〇口径三年式一五.五センチ三連装砲三基九門と相当変則的な配置となっていた。

 これは建造途中に起きた第二艦隊事件の結果として防空艦の実証艦として設計が変更されたこと(「草薙」)と、建造途中にその有効性が認められた「草薙」と二番艦の「八坂」が失われた事による折衷案として双方の特徴を取り入れた艦とした(「三種」)結果でした。

 この為。「三種」は「八坂」「八咫」では第二主砲が有った場所に第一副砲が載せられた形となり前部二基後部一基の配置となっていました。

 この三基九門の副砲を指揮するのは二基の三式高射機でした、この内一基は第二艦橋上に突き出す形で装備され、もう一基は後檣楼に設置され死角が無いように配置されていました。

 この三式高射機は、直径約三メートルの耐機銃弾装甲を持つ円筒状の装備で背部に四、五メートル高射測距儀を持ち、敵機との距離、方位、艦の動揺の補正など対空射撃に必要な諸元を算出するのに指揮官を含めて十人の操作員を必要としました。

 今回は副砲術長の二宮和己少佐は一番高射機の直ぐ後ろにある副砲指揮所で指揮を執り二基の高射機の諸元を敵の位置によって切り替えることで切れ間無い射撃を行う体制をとっていました。


「五時方向に機影見ユ!

 数二!」

 「三種」の艦橋の最上層部に有る防空指揮所に昇って暫くすると後方の見張り手より敵機発見の報が入りました。

 実は既に本艦搭載の二一号電探が機影を捕えていたのですが、肉眼で確認できればより確かです。

 彼我の位置を確認して私は艦が右舷へ舵を取るよう命じます、暫くして艦首が右へ振られて三基の副砲の射界に敵機が入ってきます。

「砲術長、右対空戦開始。」

「右対空戦開始します。」

 私が傍らに居た砲術長へそう命令すると歯切れよくそう応じて彼は副砲指揮所へつながる電話で命令を伝達しました。

 既に準備が整えられていたらしく三基の副砲が滑らかな動きで右舷側へ旋回を開始し続いて六〇口径の長い砲身を持ちあげました。

 但し九門全てでは有りません、各砲塔の両側一番砲と三番砲の五門だけが仰角を付けたのです。

「艦長、全門打ち方準備ヨシ!」

 電話を片手に砲術長が報告します。

 私は軽く顎を引いて、そして努めて平静な口調で命じました。

「打ち方はじめ。」

「打ち~方はじめ!」

 私の命令の直後に砲術長が独特の口調で命じます。

 一瞬の間をおいて六門の六〇口径一五.五センチ砲が咆哮を上げました。

 一五.五センチの六〇倍、九.三メートルの砲身を駆け抜けた一五.五センチ弾は五六㎏のその弾体を秒速九二〇メートルまで加速されています。

 今回敵機の高度は九〇〇〇メートル。

 砲弾はその距離を僅か一〇秒強で飛翔します。

 そして弾体頭部には時計式の時限信管が有って、先の高射装置の諸元に従って適当と思われる位置で自爆するように時間が設定されています。

 最初の六発は二機の爆撃機の右舷方向で炸裂しました。

 続いて各砲塔の中央の砲、二番砲の出番です。

 当然ですが先の六発の炸裂位置を確認して次の射撃は修正値が入力されて発射されます。

 次はやや前方で炸裂します。

 この間にも先に砲撃を終えた各砲塔の一番砲と二番砲では大急ぎの次の射撃の準備が行われています。

 この六〇口径一五.五センチ砲は最上型が軽巡洋艦として建造された時に開発された砲で、それが「大和」型や「草薙」型の副砲として流用されたとされていますが、実際には砲塔のサイズの拡大と高射用の揚弾筒の新設など別物と言っていい仕様となっていました。特に「草薙」型では更に対空射撃性能を向上させるために自動化も取り入れられていました。

 砲内の圧力が下がると尾栓が開かれ装填架がその後方へ付けられて砲内へ砲弾が装填されるのはどの砲も同じですが、「草薙」型に採用された改二となった六〇口径一五.五センチ砲では六〇度まで仰角を取っても装填できるように作られていた。

 揚弾筒から出た砲弾はそのまま装填架へ載せられその直後へ揚薬筐に入ったままの装薬が載せられます。本来装填時に装薬は砲塔内へ揚げられた段階で誘爆防止の揚薬筐から出されて装填されるのですが、改二ではそのまま装填架へ載せられて仰角をつけたままの砲尾へ運ばれてゆきます、そして装填架後方に装備されたラマーにより揚薬筐は砲弾と一緒に一度薬室内へ装填されます。

 この後、ラマーが後方へ下がるとき先に揚薬筐の後部ラッチを掴んだ排除筒がラマーが前進位置のまま揚薬筐を抜き取り、一瞬遅れてラマーが戻って装填が終わります。

 こうした薬包式の砲では砲弾と装薬を別々に装填する単に時間が掛かります、これは対空砲としては致命的ですので一回で装填が終えれる工夫が採られているのです。


 第二射の三発が発射されると再び各砲塔の一番と三番の砲を使用した六発が発射されます。六〇口径一五.五センチ砲改二の最大発射速度は五秒に一発ですが、通常はやや余裕を持たせて六秒か八秒に一発の間隔で砲撃を行います。従って交互に発射しますので三秒或いは四秒に一発の割合で敵には砲弾が撃ち込まれる算段となります。

 砲撃が続けられ、次第に炸裂位置が敵機の前方の極近い位置へ収れんしてゆきます。

 第五射目でついに有効弾が出ました。一発が先頭を行く一機の左舷側の至近で炸裂しました。

 この一発の後、敵機は著しく速度を落とし高度も落ち始めました、良く見ると敵機の左舷内側の発動機に付けられていたプロペラが無くなっていました。更に主翼ににも大きな破孔が穿たれているのが見えました。

 第六射は敵機が高度と速度を落としたために大きく外れましたが、以降の射撃では素早く諸元が修正され再び敵機は一五.五センチ砲の爆炎に包まれることと成りました。

 ここで副砲長は損傷して速度高度が落ちた一番機の攻撃を後方の第三砲塔に任せ、高度速度共に変わらない敵の二番機への攻撃を前部の二基の砲塔に集中して行うように命じていました。

 更にこれに加えて本艦の両舷に装備された八基の九八式一〇センチ連装高角砲、通称長十センチ高角砲一六門も射界に入ったものから射撃を初めました。

 長銃身砲に特徴の甲高い発射音が立て続けに響いて、見る間の内に二機の敵機の周辺は一五.五センチ砲弾とそれよりは小さな一〇センチ砲弾の炸裂炎と煙で覆いつくされました。

 どれくらい射撃が続いたでしょうか?一発の一五.五センチ砲弾が敵の一番機の直前で炸裂し、辺りにキラキラとした物が舞うのが双眼鏡越しに見えました。

 爆炎が晴れて姿が見えると敵機の姿は大きく変わっていました。

 丸の海坊主の様に滑らかで美しいとも言えるガラスで覆われた機首が根元からごっそりと削ぎ取られる様に無くなっていました。

 次の瞬間、操縦席を失った敵機は大きく傾くと左の主翼が根元からへし折れて一気に速度を上げながら南の海上、安芸灘へ落ちて行きました。

 そして残る二番機も右翼の二基の発動機の間で主翼が断ち切ら、暫くはそのまま飛んでいましたがやがて堪え切れなくなった様に、右へ横転して煙を引きながら七〇〇〇メ-トルの高みから南の彼方へ落ちて行きました。


 敵機の姿が消えたところで私は「打ち方止め。」の命令を発しました。

 広島湾の奥深くまで入り込んでいた「三種」は、大きく左に舵を取り江田島近海へ向かいます。

「はあ、間一髪でしたね。」

 砲術長は、そんな言葉を口にしながらそれまで被っていた鉄兜を脱いで、頭や顔の汗を手拭いで拭いながら敵機が落ちていった彼方を見つめていました。

「結局、奴ら何しに来たのでしょうか?」

「判らんよ、私も。」

 砲術長の疑問は私の疑問でもありました。

 結局私がこの爆撃行の目的を知ったのは戦後の事で、ポツダム宣言に基づいて装甲巡洋艦「三種」を米海軍に引き渡す際にやってきた米海軍士官の口からであった。


「1945年8月6日にヒロシマへ飛来したB-29の1機には原子爆弾が搭載されていた、

 作戦目的は史上初の原子爆弾をヒロシマへ投下する事だった。」


 彼、アーノルド・ヘンリー・ノックス大佐はそう語った。

今年も8月6日が来ました、多くの民間人が原爆の犠牲と成ったこの日にこのような作品を投稿することに当然ですが悩みました。

原爆の投下を無くすことで、亡くなった方への冒涜に成らないかと。

皆さん意見も有ると思います、宜しかったから聞かせて下さい。


出来る事なら二度と、正しくは3発目の核爆弾が起爆しないことを切に願っています。


誤字脱字が有りましたら教えてください。

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