八坂激闘譜 閑話 或る米砲術士官が見たソロモン海戦Ⅱ−Ⅲ
明けましておめでとうございます、本年も南溟の怪魔シリーズを宜しくお願いします。
中々気に入った展開が書けなくて書き直したので遅くなりました。
八坂激闘譜 閑話 或る米砲術士官が見たソロモン海戦Ⅱ−Ⅲ
敵戦艦の放った砲弾は3発、戦後に確認した情報によれば砲口を出た際の初速は790m/sとされており、彼我の距離3800mを飛翔するのに掛かる時間は5秒に満たないことに成る。
その結果として発砲直後に飛来した砲弾3発の内一発はほぼ水平な弾道であったが故に第二主砲塔の天蓋上を滑る様に弾かれ彼方に飛び去った、しかし他の二発は相次いでワシントンの艦体中央に命中、その内一発が前鐘楼後部のマストの基部付近へ着弾、マストをその根本から叩き折り周辺の各種アンテナとGFCS(射撃指揮装置)を筐体ごと吹き飛ばした。
そしてもう一発は、戦艦ワシントンに対してより深刻な損害を与える事と成った。
前鐘楼の先端、艦橋へ右舷側へ着弾した敵弾は薄い装甲しか持たない航海用艦橋を突き抜け、更にその先の戦闘用艦橋へ突き当りそのまま40センチ砲弾も弾き返すとされていた分厚い戦闘用艦橋の装甲を突き抜けて艦橋下層に飛び込みそこで信管を起動した。
「ねえ、おじいちゃん。それっておかしいよ。」
あの艦橋の中で衝撃に耐えていた私は、聞きなれた少女の声に現実に引き戻された。
「何がだい?」
ベットで上半身を起こした私は、ベットの横に立つ少女に向き直った。
明るめのブルーネット髪をボブカットに切り揃えた彼女の姿は、3年前に他界した妻の若い頃の姿を一番強く引き継いでいた。
少女の名前はユキ、ユキナ・ノックス・グルー、私の次女であるハナ(ハナエ)の娘で今年14歳になる。
次女で第4子のハナは私が、日本の海上自衛隊の幹部候補生学校へ連絡官として派遣されていた時に日本で生まれている。それで私は日本の友人に日本風の名前を付けてもらった、それがハナエであり、そのハナが自分の娘に同じ様な日本風の名を付けたそれがユキナだった。
ユキは持ってきた花をベット横の台に置いてあった花瓶に生けながら私の昔話を聞いていたのだが、どうもおかしい部分に気付いたようだった。
「だって、おじいちゃん、いつも『戦艦は自分の大砲と同じ大砲で撃たれても平気』って言っていたよ。」
私が喋る声色を真似て問題点を指摘する孫娘の言葉に私は相貌を崩した。
「そうだな、ユキならもう少し細かく説明しても良いかな?」
私はそう言ってベットの椅子に座る様に言うと、好奇心一杯と言う表情で私の言葉に耳を傾けてくれた。その姿はとても懐かしく心地よかった。
「『戦艦は自艦の持つ主砲弾の直撃に耐えられる様に設計され建造されている。』これは間違えではないよ。
但しこれは一般論で、実際の戦闘では各種条件が有って常にどんな条件でもという訳では無いのだよ。」
ここまで説明してユキを見ると、私の話が理解できた様で頷いてみせた。
「戦艦の主砲ともなれば、砲口を出る時の砲弾の速度は音速の二倍を超える。そんな砲弾にとって濃密な空気は大きな抵抗を作り出す存在なんだ、だから距離が離れればそれだけ威力は落ちること言う訳だな。
それで今回の場合だどうかな?
敵艦とワシントンの間の距離は、4000メートルを切るような近距離だ、砲口を出た砲弾は殆ど威力を落とすことなくワシントンに着弾し、結果的に分厚い戦闘艦橋の装甲もも撃ちぬくことができた訳だ。」
実際にはこれに加えて二つほどの条件も重なっていた、ただこれはユキには難しいだろうから話さなかったが。
一つには敵艦の31センチ砲弾が、我が軍のSHS(Super Heavy Shell=超重量弾)と同様に口径の小ささによる威力の不足を補うために全長を長くすることで重量を増やした重量徹甲弾だったことがあった。戦後に得られた資料に拠れば敵艦の砲弾は31センチながら一回り大きい36センチ砲弾と同等の重量を持ていたとされている。同時に敵艦の主砲には50口径と言う長砲身を採用し、超重量の砲弾を高初速で撃ち出すこと36センチ砲弾を超える貫通力を持たせることに成功していた。
これに加えて、ワシントンを含むノースカロライナ級そのものの問題が有った。
今更ながらだが、ノースカロライナ級戦艦は最初から16インチ(40.5センチ)砲艦として建造された艦ではない、当初は28ノット以上を出せる高速艦とするために武装を14インチ(35.6センチ)として設計建造されていたが、軍縮条約明けの各国の主力艦が軒並み16インチ艦と予測できた為、建造途中のノースカロライナ級を急遽16インチ砲へ換装した経緯があった。
しかしながら装甲は対14インチ砲用のもので有るために防御力が不足していた、この為に敵艦の砲撃は実際には相当深刻なものであったと言え、これも又中央区画が重大な損傷を受ける結果に繋がっていた。
戦艦ワシントンの戦闘用艦橋下層の操艦区画に飛び込んできた砲弾は一発、しかし、艦の指揮命令系統を喪失させるのにはその一発で充分であった。
ここで炸裂した砲弾により生み出された燃焼ガスは急速にその体積を膨れ上がらせ、操艦を担当する戦闘艦橋下層を一瞬で焼き尽くした。そして未だ膨張の余力を持ったガスは火炎と破片を纏って上層への隔壁を打ち破り砲撃指揮の為の戦闘艦橋上層へ吹き込んだ。
私は最初の着弾時の衝撃に耐えたが、次に襲い来る火炎の乱舞にはその身を伏せて守る以外にできることは無かった。
私は、嗟に同じく着弾の衝撃に抗しながら立ち尽くす形となったリー少将を床に引き倒す様に伏せさせ、その上に覆いかぶさる様に自分の身体を投げ出した。
一瞬にして視界は赤黒く染められた、それは周囲は火炎の炎と煙が生み出した風景であった、それに加えて血の匂いが艦橋内に充満した、伏せた私も例外ではなく右半身を炎に焼かれ踊り舞う破片にその身を引き裂かれていた。
火傷と裂傷による出血で意識が遠のく中、更に大きな爆発音と衝撃をワシントンは受けた。
「敵艦沈みます!」
奇跡的に無事だったらしい見張り手の声が遠くでして、私は意識を失った。
やがて第63任務部隊の残存艦艇は、リー提督の命令でヘンダーソン基地沖への撤退が命じられ、ワシントンも10ノット超の低速ながら操艦が可能となってガダルカナル方面へ移動した。
時間が経ち損害の状況がハッキリとしてくると、惨状が明らかになった。
戦艦ワシントンの乗員の中で指揮を執るデービス艦長以下、航海長と砲術長が戦死し副長も重症を負っていた、加えて艦橋が完全に破壊されていたために、操艦は後部の予備の舵室で行わなければならず、速度も10ノット超が限界であった。
任務部隊司令部の同様であった、リー長官は軽傷を負っただけで済んだが参謀長のカニンガム大佐と先任参謀のスコット中佐が戦死、他のスタッフも戦死や重体の者が多く居た。
任務部隊の艦艇も大きな被害を受けていた、戦艦ワシントンは大破、二隻の重巡洋艦ペンサコーラとノーザンプトンは撃沈、軽巡ヘレナは中波となって一足先にヘンダーソン沖へ撤退していた。4隻の駆逐艦も2隻が撃沈されていた。
艦隊戦力としての態を成さなくなっていた任務部隊は結局、ガダルカナル島への日本軍の輸送作戦を完全に阻止することは出来ず、多くの物資と兵員が無傷で上陸することを許す結果と成った。
私は、艦内で応急処置を施した後、急遽派遣された病院船へ移されそのままサンディエゴ海軍基地まで運ばれそこの海軍病院へ収容されることになったが、容態は思わしくなくそれまでの過程も昏睡と覚醒を繰り返す状態であった。
「おじいちゃん、具合悪いの?
ママを呼んで来ようか?」
気がつくと、ユキが心配そうな顔で私の顔を覗き込み、手のひらを私の額に当てていた。
その姿に心配そうな表情の妻エレンがダブった。
「大丈夫だよ、ハナはきっと忙しいから。」
心配をかけた孫にそう言って安心させると、私は点滴のチューブに気を付けながらベットに横たわって天井を見上げた。
私の容態が安定したのは海軍病院へ収容されてから一月ほど経ったころで、目を覚ますと心配そうに私を見つめるエレンが居た。
エレンの、美しいと言うよりも愛らしいと言う表現がぴったしな容姿も、その時ばかりは看病から来る疲労と、私の負傷に対する不安と焦燥から酷く窶れた表情をしていた。
「ただいま。」
確か開口一番、私はそう言ったと思う。重体に成って帰ってきて何が「ただいま」かとも思うが、その時はそれ以外に掛ける言葉が思い浮かばなかったのだ。
でも、私のそんな不器用な言葉に涙を浮かべながら妻は笑顔を返してくれた。
「お帰りなさい。」
その後、私は病院の適切な処置と何よりも妻の献身的な看病のお陰で、徐々にではあるが傷を癒すことが出た。しかし、戦傷により足が不自由と成ったことは海軍士官として致命的であった、海上勤務が不可能であったからである。
私も一時は退役も考えたが思わぬところから救いの手が差し伸べされて来た。
それはアナポリスの海軍兵学校からの砲術教官の誘いであった。
後に知ったのだが、これは前の上官であるウィリス・リー少将の推薦によるものだった。少将は身を持って自分を守りその代償として前線に立てなくなった部下、つまり私に報いようと関係部署に働き掛けをしてくれたのだと言う話しであった。
誘いを受けて採用された私は、翌年の1944年より教官として兵学校で教鞭を取り、拡大する軍が大量に必要とする士官、特に砲術士官の育成に務めることとなった。
しかし、私の仕事はそれだけでは無かった。
当時、海軍の各研究機関ではレーダーを用いた射撃に対する研究と機材の開発が行われていた、中心となったのはマイクロ波レーダーの精度と反応速度の向上と、データの方位盤と射撃指揮装置への連携の改善であった。
私は、それに協力する形で開発に参加し、システムを実際に運用してそれに対する評価を行った(これも当然であるがリー提督の推薦であった)。
それに加えて、時間を見つけて(正確には作って)機能回復訓練を続けた、それは可能ならば前線へ海上勤務へ戻ることを夢見て事であった。
私が教官になった1944年に入ると、戦局が大きく動いた。
より正確に言うと、私が入院していた1年の間にその萌芽が有ったのだが、太平洋、ヨーロッパ方面で守勢であった連合国軍は反攻に向けた動きを活発化させていたのである。
そして、私が教育した士官たちはその反攻を支える人材になる存在であった。
しかしながら、1944年の一年の間の二つの大きな海戦、フィリピン海海戦(日本名マリアナ沖海戦)とレイテ湾の戦い(日本名レイテ沖海戦)を含む多くの戦闘を経た結果、我が軍が勝利し日本海軍を圧倒するに従って、生徒達は戦争の先行きに楽観的希望を抱き日本軍の力を軽んじるように成った。
確かに先の海戦で空母や戦艦、そして艦載機を含めた多くの航空機と将兵を失った日本軍は各地で孤立し各個撃破されて、それまで占領していた多くの太平洋上の島々が我々の手の下に戻ってきていた。
オーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)後に本格化したヨーロッパでの反攻と合わせて、勝利まで後一歩である様に見えた。
しかし、私から見れば生徒たち目算は甘く楽観的過ぎるとしか言えなかった。
追い詰められた彼らが、守るべきもの為に成す行動は我々の理解の範疇を超えていることを理解出来ないのだ、それは私と同じように前線より戻った教官を覗く教員や教官も同様であったし、現場で叩き上げられた下士官上がりの同じ様な苦言を口にしていた。
故に私は機会が有る事に、戦傷により思うように動かない足を示して次の一言を付け加える様にしていた。
「諺に『絶望が臆病者を勇敢にする。(窮鼠猫を噛むの同意の英語)』とあるが、追い詰められた日本人がどの様な戦い方をするかは未知数だ。
舐めて懸かると喉元を食い千切られるぞ。」
それは私の経験から来た警句であったが、後の日本軍の反撃は私の予想を遥かに超えるものであった。
1944年末より我が軍は日本本土への直接攻撃を開始した、しかし、先に占領したサイパン等の島に築かれた基地より飛び立った超重爆撃機B-29による爆撃は、日本軍の必死とも言える防戦に阻まれ、損害に見合う成果を上げることが出来ないでいた。
この点を重く見た軍上層は、不時着地を兼ねる護衛戦闘機の展開可能な飛行場を有する島として硫黄島に目を付け、1945年二月より攻略を始めた。またこれと同時進行で本土への直接の足掛かりとして沖縄への進攻も開始されており、これにより一気に日本の息の根を止める計画であった。
しかし、硫黄島への攻略作戦は思わぬ形で頓挫、撤退の憂き目に合う結果となった。
作戦は当初順調に進行していた、初期の目標を充分に達成したと見られた事から不要と成った正規空母の全隻と高速戦艦、その護衛の艦隊が硫黄島より沖縄への支援へと振り向けられる事となった、だがそれでも充分な護衛空母と巡洋艦等の艦船が上陸部隊の支援を行った。
しかし、日本軍は小さな火山島全体を要塞に作り変えて待ち受けた、日本軍は島内に張り巡らされた地下壕に兵員と火砲を隠して我が軍の攻撃を耐え凌ぎ、上陸が半ばまで完了したところで突如として攻撃を開始した、壕内や山腹に隠されていた多数の重砲やロケット砲、更には初見の重戦車まで繰り出して攻撃してくる日本軍に対して、陸直後の兵員も武器も物資も海岸に集中している時を狙われて海兵隊、陸軍とも海岸付近に釘付けされることなった。
こうして占領に手間取どることとなった我が軍の上陸部隊にとって、支援の護衛空部群と旧型戦艦を中核とした砲撃部隊は頼みの綱であった。
しかし、その頼みの綱は日本本土より放たれた航空機と潜水艦の攻撃により、貴重な物資を運んできた輸送船団と共に壊滅状態にされる結果と成った。
この為に上陸作戦司令部は、作戦中止を決定、夜陰に紛れて撤退する他に手はなかったと言われている。
この事例はやや極端な例であったが、同時に用兵としては理に適った攻撃であった。
しかしながら、その後に日本本土に近づいた艦隊へ行われた攻撃は私の、いや多くの合衆国軍人にとって理解の範疇をものであったと言えた。
「爆弾を積んだ戦闘機が突っ込んできた?
素人が操縦を誤ったんじゃないのか?」
戦闘に関する報告書を読んだ私の最初の感想はその様なものであった、或いは被弾した機体が偶発的に突入して来たか、そう考えたのである。
しかし、爆弾を抱いたままの戦闘機が我が軍の迎撃機の攻撃を逃れ、濃密な対空砲火をすり抜けて艦隊へ突入するなどと言う事はどう考えても素人に無理であるし、偶発的にしては事例が多すぎたのである。
それは飽くまで明確な意図を持ち作為的に行われた組織的攻撃で有った。
後に、我が艦隊を恐怖に陥れた神風特別攻撃隊と呼ばれる体当たり特攻は、日本へ近づく艦船に対して無差別に行われ、特に警戒にあたるレーダーピケット艦(多くは駆逐艦が担当した)や物資の輸送を担当する輸送艦は防御力が小さいことも有ってその攻撃が致命傷に成ることも少なく無かった。
しかし、問題は物理的打撃よりも精神的打撃が大きいことである、前線より神風の攻撃に晒されて精神を病む事例が多く報告されていた。
そうした事実から、尚の事後方で見ているだけ言う立場を返上したい私は機能回復訓練に力を入れたが、それは突如として終わりを迎える事と成った。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し連合国軍へ無条件降伏を行った。
太平洋戦争が終結したのである。
はい、閑話の完結を目指して書いてきましたが何故か話が膨らんでしまうので3回程書き直してこの作品です。
それでも終われなくてもう一話続きますがあと少しお付き合い下さい。
といいことで今回も最後までお読みいただきましてありがとう御座います、誤字脱字、勘違い、毎違いなど有りましたら感想の方へ書き込んで頂けると助かります。
残りの一話は明日の夜に投稿の予定ですお楽しみに。




