悪役令嬢の乳母です。お嬢様が断罪されるまであと十年あるので、まずは旦那様の教育から始めます
甲高い金属音が、豪奢な私室の静けさを無残に引き裂いた。
銀のティーカップが絨毯の敷かれていない白大理石の床に叩きつけられ、派手に跳ねて鈍い音を立てる。淹れたての紅茶が飛び散り、淡い琥珀色の染みが壁紙へと広がっていった。
「いらない! こんなドレス、大嫌い! あっちへ行って!」
耳を劈く叫び声を上げているのは、まだ六歳のエミリエンヌお嬢様だった。金糸を紡いだような見事な巻き毛を振り乱し、陶器の肌を真っ赤に染めて泣き叫んでいる。足元には、引き裂かれたレースのリボンと、投げつけられた硝子細工の人形が無残に転がっていた。
部屋の隅に控えていた若い侍女たちは、青ざめた顔でお互いに身を寄せ合い、ただ怯えて震えるばかりだった。
「また始まったわ……」
「旦那様にお言いつけしなければ。でも、お嬢様の癇癪に巻き込まれたら、私たちは手打ちにされてしまう」
ひそひそと交わされる囁き声には、幼い主への配慮など微塵もなかった。あるのは、厄介払いへの焦燥と、保身の恐怖だけ。
その時、私の頭の奥で、カチリと硬質な錠前が外れるような音がした。
――ああ、そうだ。私、知っている。
目の前で泣き叫び、暴れているこの少女の行く末を。
そして、かつて別の世界で、小さな手を取り、同じように涙を拭っていた自分自身の人生を。
押し寄せてきたのは、前世の記憶だった。
私は日本の認可保育園で働く保育士だった。朝から晩まで子どもたちの声に囲まれ、泥だらけになって笑い合い、時に親の愛情に飢えて荒れる園児の小さな背中を抱きしめ続けていた。
だが、どうしても救えなかった子がいた。仕事にかまけて家庭を顧みない両親のもとで、高級なおもちゃを与えられながらも心を閉ざし、やがて万引きを繰り返して施設へと引き取られていった男の子。あのときの無力感、冷え切った小さな指先の感触は、前世を終えるその瞬間まで私の胸を苛み続けていたのだ。
そして、もうひとつの記憶。
この世界は、前世で同僚の保育士から勧められて遊んだ乙女ゲーム『聖なる乙女のプレリュード』の世界そのものだった。
目の前で銀器を投げつけているエミリエンヌ・ド・ヴァラン伯爵令嬢は、十年後、王立学園の卒業舞踏会において、婚約者である第二王子の心が離れたことに嫉妬し、ヒロインを虐げた罪で断罪される『悪役令嬢』だ。傲慢で冷酷、愛を知らずに育ち、最後は誰からも憐れまれることなく、広場で首を落とされる運命にある少女。
(違う。この子は傲慢なんかじゃない)
私は膝をつき、床に散らばった硝子細工の破片をひとつひとつ拾い集めた。
他の召使いたちは、私が狂ったとでも言いたげな目で遠巻きに見つめている。「お嬢様の癇癪に近づくなんて馬鹿だ」と、その冷たい視線が語っていた。だが、私にとって職を失うことなど、十年後にこの無垢な首が冷たい刃に落とされる恐怖に比べれば、木の葉一枚ほどの重みもなかった。
「お嬢様」
立ち上がり、私は散らばった硝子の破片をエプロンのポケットに納め、真っ直ぐにエミリエンヌへ近づいた。
「寄らないで! あなたも私を馬鹿にしてるんでしょう! パパに言いつけて首にしてもらうんだから!」
振り上げられた小さな拳が、私の胸元を叩く。痛くなどない。六歳の女の子の、羽毛のような力だ。
私はその両手を優しく包み込み、そのまま小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「うわあぁぁん! 離して、離しなさいよ!」
暴れていた体から、次第に力が抜けていく。エミリエンヌの指先が、私の粗末な乳母服のエプロンをぎゅっと掴んだ。布地が引きちぎれそうなほど強く、しがみついてくる。涙で濡れた頬を私の鎖骨に押し当て、しゃくりあげながら、彼女は蚊の鳴くような声で呟いた。
「……いかないで」
その震える声を聞いた瞬間、私の迷いは完全に消え去った。
この子は悪役などではない。ただ、寂しくてたまらないだけの、普通の六歳の女の子だ。
その時、重厚なオーク材の扉が乱暴に開け放たれた。
冷え冷えとした足音とともに部屋へ入ってきたのは、この屋敷の主、レイモン・ド・ヴァラン伯爵だった。
均整の取れた長身に、整った冷厳な美貌。夜空のように深い群青色の髪を撫でつけ、一切の無駄を削ぎ落とした上等な執務服を纏っている。王国の財政を支える辣腕の貴族として知られる彼は、足元に散らばる紅茶の跡を一瞥しただけで、眉ひとつ動かさなかった。
「また騒いでいるのか、エミリエンヌ」
その声は、執務室で部下に書類の不備を指摘するときのように乾ききっていた。
娘の顔を見ることもなく、レイモンは背後に控えていた従僕に顎をしゃくった。従僕が恭しく差し出したのは、金銀の螺鈿細工が施された豪華な小箱だった。蓋を開けると、眩いばかりの大粒のエメラルドが、冷たい光を放っている。
「これをやろう。王都の宝飾店に取り寄せさせたものだ。だからもう泣き喚くのはやめなさい。ヴァラン家の名に傷がつく」
それだけを言い捨てると、レイモンは娘の目を一度も見ることなく、踵を返して立ち去ろうとした。
貴族社会の悪しき常識。
親が直接子育てに関わるのは平民の野蛮な行為であり、育児は乳母や家庭教師に丸投げするのが高貴な者の嗜みとされる。親が示すべき愛情とは、金と物、そして将来の有利な政略結婚の席を用意することだけ。
その歪んだ慣習が、どれほどの子どもの心を壊し、どれほどの悲劇を生んできたことか。
「旦那様」
私の声が、冷たい私室に響いた。
部屋の空気が凍りついた。控えていた侍女たちが息を呑み、恐怖で顔を覆うのが視界の端に見えた。
レイモンは足を止め、信じられないものを見るように、ゆっくりと首だけをこちらへ向けた。
「……なんだ、乳母。私の邪魔をするな」
私はエミリエンヌをそっとベッドの上に座らせると、すっと立ち上がり、大股で扉の前へと移動した。そして、伯爵の退路を塞ぐように、両手を広げて立ちはだかった。
エプロンの下で、両膝が激しく震えていた。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がからからに渇く。相手はこの国の重鎮であり、平民の乳母など指先ひとつで処刑できる絶対の権力者だ。前世の保育士としての記憶がなければ、とっくに腰を抜かして平伏していただろう。
だが、私の胸の奥底には、あの万引きを繰り返した男の子の冷たい指先の後悔が、消えない炭火のように燻っていた。
二度と、大人の身勝手な都合で、子どもの心を殺させはしない。
「どきなさい。身の程を弁えぬ下女め」
レイモンの冷徹な瞳に、鋭い怒りの色が宿る。その手が腰の帯に提げられた儀礼用の短剣の柄へと伸びかけた。
侍女たちが「ひっ」と悲鳴を漏らす。だが、私は一歩も退かなかった。
「お嬢様が求めておられるのは、そんな冷たい石ころではありません」
私の凛とした声が、静まり返った部屋を震わせた。
「な……にを愚かなことを」
「泣いている娘の顔すら見ず、宝石を投げ与えて背を向ける。それが父親のすることですか! 物を与えるのは愛情ではありません。ただ向き合うことを恐れた、大人の卑怯な逃避です!」
「無礼な! 貴様、自分が誰に口を利いているのか分かっているのか!」
レイモンの纏う空気が、明確な殺気へと変わった。凄まじい威圧感が私の肩にのしかかる。息が詰まりそうになる。それでも、私は顎を上げ、真っ直ぐにその群青の瞳を見据えた。
「ええ、分かっております。ヴァラン伯爵家の当主であり、そして――世界でたった一人しかいない、エミリエンヌお嬢様のお父上です!」
レイモンの眉がわずかに跳ね上がった。
「旦那様、まずはお嬢様の目線の高さまでしゃがんでください」
「私が……平民のように膝を屈しろと言うのか?」
「ええ、言います。娘の瞳を見つめられない男に、父親を名乗る資格などありません!」
私の気迫に気圧されたのか、レイモンは言葉を失った。
彼は苛立ちを隠そうともせず、しかしどこか戸惑ったように、ゆっくりと視線をベッドの上へと向けた。
そこには、宝石箱など見向きもせず、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、すがるように父親を見つめる小さなエミリエンヌの姿があった。
「パパ……」
震える小さな唇から漏れた、か細い呼び声。
その瞬間、レイモンの鉄の仮面のような表情に、初めて明確な亀裂が走った。
彼はぎこちない動作で、仕立ての良い上着の裾を気にすることもなく、大理石の床に片膝をついた。
目線の高さが、六歳の少女と同じになる。
エミリエンヌがびくりと肩を揺らし、おずおずと小さな右手を差し出した。庭で拾った泥の汚れが、爪の隙間に残っている、決して貴族令嬢らしくない小さな手だった。
レイモンは戸惑い、自分の白く滑らかな手を見つめた後、恐る恐る、その泥だらけの小さな手を握りしめた。
「……エミリエンヌ」
ぎゅっと、小さな指が父親の手指に絡みつく。
その温もりを感じた瞬間、冷徹な当主の瞳が大きく揺れ動いた。彼は何も言えず、ただ娘の小さな手を握り返したまま、その場に立ち尽くしていた。
私はエプロンの下で、固く握りしめていた拳をそっと緩めた。
まだ第一歩だ。だが、この不器用な父親の心に、小さな火が灯ったことを私は確信していた。
伯爵邸の地下にある大厨房は、夕食の準備の真っ只中で、まるで戦場のような熱気に包まれていた。
薪の爆ぜる音、巨大な銅鍋が擦れ合う金属音、そして料理人たちを怒鳴りつける野太い大声が響き渡っている。
「火加減を見ろと何度言えばわかるんだ、愚図どもめ! 今夜の晩餐は旦那様がお召し上がりになるのだぞ!」
怒声を張り上げているのは、この屋敷の料理長マチュリンだった。
四十五歳。恰幅の良い堂々たる体躯に、清潔な純白のエプロンと、天井に届かんばかりの高い料理長帽。赤ら顔に蓄えられた立派な口髭を震わせ、彼は王宮仕込みの誇りを全身から発散させていた。
そんな戦場へ、私がレイモンを引き連れて足を踏み入れたのだから、騒ぎにならないはずがなかった。
「失礼いたします、マチュリン料理長」
「あぁん!? 乳母の分際で、厨房が一番忙しいこの時間に何の用……だ……っ!?」
振り返ったマチュリンは、私の背後に立つ人物を認めた瞬間、持っていた銅の泡立て器を取り落としそうになった。周囲の若い料理人たちも一斉に作業を止め、息を呑んで硬直する。
無理もない。この屋敷の頂点に君臨するレイモン伯爵が、上着の袖を肘まで捲り上げ、無骨なエプロンを身につけて立っているのだから。
「だ、旦那様……!? 一体どうされたのですか、このような油煙にまみれた場所へ!」
マチュリンが慌てて膝をつこうとするのを、私は手で制した。
「料理長。本日は旦那様に、エミリエンヌお嬢様のための野菜スープを作っていただきます。場所と食材をお借りしたいのです」
「は、はあぁぁぁっ!?」
マチュリンの絶叫が厨房に木霊した。彼の赤ら顔が、怒りと困惑でさらに赤黒く染まっていく。
「な、何を血迷ったことを言っているのだ、貴様! 高貴なるヴァラン伯爵家の当主自らが包丁を握るなど、前代未聞の愚行! 我が厨房の、いや、貴族の尊厳を泥水に投げ捨てる気か!」
「尊厳よりも大切なものがあります」私は一歩も退かずに言い放った。「娘のために父親が温かい食事を作る。これのどこが愚行ですか。料理長、あなたが毎日誇りを持って作っている料理は、人を辱めるためのものなのですか?」
「ぐっ……そ、それは……! しかし、素人が厨房に入れば怪我をするに決まっている!」
マチュリンが猛然とレイモンへ向き直った。
「旦那様! このような下女の戯言に耳を貸してはなりません! お嬢様のためのお食事なら、このマチュリンが持てる技のすべてを尽くし、最高級の仔牛のコンソメをお作りいたします!」
レイモンは腕を組んだまま、しばらくマチュリンを無言で見つめていた。
そして、静かに、しかし重みのある声で告げた。
「マチュリン。私は今まで、娘が何を好み、何を嫌うのかすら知らなかった。……高価な宝石を買い与えていれば、親の務めを果たしていると本気で思っていたのだ」
「旦那様……」
「だが、あの子が求めていたのは、そんなものではなかった。……包丁の握り方すら知らぬ私を笑うなら笑え。だが、私はあの子のために、この手で何かをしてやりたいのだ」
料理長の口髭が、微かに震えた。
マチュリンは職人気質で頑固だが、食べる者の笑顔を誰よりも愛する本物の料理人だ。主人のその不器用で、剥き出しの言葉が響かないはずがなかった。
「……怪我をされても、私は一切責任を持ちませんからね」
マチュリンはそっぽを向いて鼻を鳴らすと、木製のまな板の上に、無造作に人参と玉ねぎ、キャベツを置いた。そして、研ぎ澄まされた一本のペティナイフを、柄をレイモンに向けて差し出した。
「切り方は適当で構いません。……スープに入れば、形など誰も気にしませんから」
「感謝する」
レイモンはナイフを受け取ると、人参の前に立った。
その手つきは、書類にサインをする時の流麗さとは程遠く、まるで未知の魔導具を扱うかのようにぎこちなかった。
刃が人参に食い込む。ガリ、と鈍い音がして、不揃いな塊が転がった。
包丁を握る指元はおぼつかなく、見ているこちらが肝を冷やす。
「あっ」
私が小さく声を上げた瞬間、レイモンの左手の人差し指から、赤い血が一筋滴り落ちた。
「旦那様!」
マチュリンが血相を変えて駆け寄ろうとしたが、レイモンはそれを片手で制した。
「……止めるな。かすり傷だ」
彼は傷口を布で乱暴に拭うと、再びナイフを握り直した。
その群青の瞳には、かつて戦場や議会で見せたことのないような、必死で純粋な光が宿っていた。指先を震わせ、不器用に、けれど一刀一刀に心を込めるようにして、彼は野菜を刻み続けた。
大きさも厚みもバラバラの人参と玉ねぎ。宮廷料理なら即座にゴミ箱へ放り込まれるような無様な切り屑だったが、そこには間違いなく、娘を想う父親の執念が宿っていた。
鍋にバターを溶かし、野菜を炒める。
マチュリンが背後から、ぶっきらぼうに助言を投げかけた。
「火を弱めなさい! 焦げたらすべて台無しだ……ほら、木べらを動かす! 玉ねぎが透き通るまで、じっくりと汗をかかせるんです!」
「こうか……?」
「違います、もっと優しく! 大切な赤ん坊をあやすように動かすんです!」
やがて、野菜の甘い香りが立ち上り、水を注いで煮込む段になった。
アクを取り、塩をひとつまみ振る。ただそれだけの素朴な野菜スープが、コトコトと小さな音を立てて煮立っていく。
マチュリンはその湯気を見つめながら、不意に白いエプロンの端で、自らの目元を乱暴に拭った。
「……料理長?」
私が声をかけると、大男は背中を向けたまま、鼻をすすりあげた。
「……なんでもありませんよ、ちくしょうめ。玉ねぎの汁が目に沁みただけです。……旦那様、仕上げに刻んだパセリを散らしなさい。彩りが良くなります」
「ああ、恩に着る」
レイモンは差し出されたパセリを指先でつまみ、不揃いなスープへぎこちなく散らした。
レイモンが振り返り、煤のついた顔で微笑んだ。
その表情は、私がこの屋敷に来てから見たどの笑顔よりも、人間らしく温かかった。
その日の夕暮れ、エミリエンヌの私室には、小さな木製の丸テーブルが運び込まれていた。
普段なら銀のトレイに乗せられた豪奢な料理が並ぶ場所に、置かれているのは、不恰好な野菜がごろごろと入った一杯のスープ皿だけだ。
エミリエンヌは、恐る恐るスプーンを握り、黄金色に澄んだスープを口に運んだ。
レイモンは部屋の隅で、まるで極刑の判決を待つ罪人のように、固唾を呑んで娘を見守っている。その指先には、白い包帯が巻かれていた。
スープを飲み込んだエミリエンヌの大きな瞳が、ぱっと輝いた。
「……おいしい」
その一言が落ちた瞬間、レイモンの肩からすとんと力が抜けた。
「本当においしい! あまくて、あったかい! マルグリット、これ、だれがつくったの?」
エミリエンヌは泥だらけの手でスプーンを動かし、夢中でスープを口へと運ぶ。行儀作法など完全に忘れ去り、頬をリスのように膨らませて笑っている。
「お嬢様。そのスープを作られたのは、旦那様ですよ」
私が告げると、エミリエンヌはぴたりと手を止め、信じられないといった様子で父親を見つめた。
レイモンの包帯が巻かれた指が、気まずそうに動く。
「……口に合ってよかった。お前がいつも、野菜を残していると聞いていたからな」
エミリエンヌはスプーンを置くと、椅子から飛び降り、そのままレイモンの足元へと駆け寄った。
そして、包帯の巻かれた父親の手に、自分の両手をそっと重ねた。
「パパ、いたいの……? わたしのせいで、おてて怪我したの……?」
「いいや。痛くなどない。お前が笑ってくれたなら、これくらい何でもない」
レイモンはしゃがみ込み、今度は迷うことなく、娘の小さな体をその逞しい腕の中に抱きしめた。
エミリエンヌの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。だが今度の涙は、怒りでも孤独でもなく、胸を満たす温かさに耐えかねて溢れ出たものだった。
その光景を、開かれた扉の隙間から、息を殺して見つめている人物がいた。
エミリエンヌの母であり、この屋敷の女主人であるデルフィーヌ伯爵夫人だった。
銀色の艶やかな髪を結い上げ、寸分の隙もない完璧なドレスに身を包んだ彼女は、貴族社会の規範を誰よりも重んじる女性だった。だが、その青ざめた唇は微かに震え、娘を抱きしめる夫の姿を、まるで遠い異国の奇跡を見るかのように見つめていた。
私は足音を忍ばせて扉へと近づき、そっと声をかけた。
「奥様。冷めないうちに、奥様もいかがですか? 旦那様が作られたスープ、まだ鍋に残っております」
デルフィーヌは弾かれたように私を睨みつけた。だが、その瞳の奥には、拒絶ではなく、深い怯えと孤独が渦巻いていた。
「……私を侮辱する気、マルグリット? あのような平民じみた真似、私にできるはずがないでしょう。母親が自ら手を下すなど、社交界で物笑いの種になるだけです」
完璧主義という名の鎧を幾重にも纏い、世間体の重圧に押し潰されそうになっている女性。
彼女もまた、この冷酷な貴族社会の犠牲者なのだ。
「物笑いにするような方々には、笑わせておけばよろしいのです」私は静かに、しかし力強く言った。「奥様が守るべきは、社交界の無責任な噂話ですか? それとも、目の前で生きているお嬢様の心ですか?」
「それは……」
「ママ!」
扉の向こうから、無邪気な声が響いた。
エミリエンヌが、父親の腕の中から顔を出し、母親の姿を見つけて満面の笑みを浮かべていた。
少女は立ち上がり、とてとてと駆け寄ってくると、泥のついた手でデルフィーヌの豪奢なドレスの裾をぎゅっと掴んだ。
侍女なら悲鳴を上げるような場面だった。だが、デルフィーヌは声を上げられなかった。
見上げたエミリエンヌの瞳が、あまりにも澄み切っていたからだ。
「ママも、たべて! パパのスープ、すっごくあったかいの! ママもいっしょに、たべよう?」
「エミリ、エンヌ……」
少女の小さな温もりが、ドレスの布地を通して伝わってくる。
デルフィーヌの完璧に塗り固められた表情が、崩れ落ちていく。彼女は膝をつき、汚れなど気にも留めずに、エミリエンヌの柔らかな頬に自らの手を添えた。
「……ええ。いただくわ、エミリエンヌ。冷めないうちに、三人で食べましょう」
レイモンが立ち上がり、妻の肩に優しく手を置いた。
三人で顔を見合わせ、ぎこちなく、けれど確かに微笑み合う。
その日、ヴァラン伯爵邸の歴史上で初めて、主夫妻と令嬢が同じ小さなテーブルを囲み、素朴な一杯のスープを分かち合った。
それは、十年後に訪れるはずだった破滅の運命が、音を立てて砕け散り始めた瞬間だった。
半年が過ぎる頃には、伯爵邸の日常は一変していた。
夕暮れ時になれば、当主自らが厨房に立ち、料理長マチュリンから手厳しく指導を受けながら鍋をかき混ぜる。デルフィーヌ夫人は自らパンを焼き、焼き上がりの香ばしい匂いにエミリエンヌと二人で歓声をあげる。泥遊びをして汚れた娘の服を、夫婦で笑いながら脱がせ、大きな湯船で水飛沫を上げて遊ぶ。
かつて冷え切っていた大理石の屋敷には、常に笑い声が満ちていた。
エミリエンヌの癇癪は嘘のように消え失せ、彼女は誰に対しても思いやりのある、聡明で愛らしい少女へと成長していった。
だが、旧弊な貴族社会という怪物は、そんな伯爵家の変化を苦々しく見つめていた。
春爛漫の午後、王都のサロンで催された大規模なお茶会。
咲き誇る薔薇の庭園に、着飾った貴婦人たちが集い、優雅に紅茶を傾けながら、他家のスキャンダルを品定めしていた。
その中心に君臨していたのが、体裁至上主義の権化と呼ばれるオルタンス夫人だった。
派手な羽飾りのついた大きな帽子を揺らし、厚化粧の顔に貼り付けた扇子の陰から、冷たい視線をデルフィーヌへと向けている。
「まあ、デルフィーヌ様。最近はめっきりと夜会へのご出席が減られたようで、皆様とても心配なさっていましたのよ?」
オルタンス夫人のねっとりとした声が、庭園のざわめきを静めた。
周囲の貴婦人たちが、好奇の目を向けて聞き耳を立てる。デルフィーヌの背後には、乳母である私が静かに控えていた。
「ご心配いただき恐縮ですわ、オルタンス夫人。最近は家での時間を大切にしておりますので」
デルフィーヌは穏やかに微笑み、紅茶に口をつけた。その仕草には、以前のような神経質な硬さは微塵もなく、真の貴婦人だけが持つ自然な気品が漂っていた。
だが、オルタンス夫人はそれを侮辱と受け取ったのか、扇子をパチンと音を立てて閉じた。
「ふふ、家での時間、ですか。風の噂に聞きましたわよ? なんでもヴァラン伯爵邸では、当主様自らが厨房に入り、奥様自らがお子のお世話をなさっているとか。……まるで、下品な平民の貧乏長屋のような生活をなさっていると」
周囲の貴婦人たちから、小さな忍び笑いが漏れた。
「貴族たるもの、家庭の雑事はすべて使用人に任せ、社交と教養に身を捧げるのが義務。親が直接子どもに構うなど、身分の尊厳を弁えぬ野蛮な行為でございましょう? そんな育て方をされては、エミリエンヌ様も将来、淑女の品格など身につくはずがありませんわ。本当にお可哀想に」
悪意に満ちた嘲笑が、薔薇の香りを汚すように広がっていく。
以前のデルフィーヌなら、世間体の重圧に耐えかねて青ざめ、必死に弁解していただろう。
だが、デルフィーヌの手は微動だにしなかった。
彼女は優雅にティーカップをソーサーに戻すと、背後に立つ私へと微かに視線を送った。私が静かに頷き、凛とした眼差しを返すと、デルフィーヌは深く息を吸い込み、オルタンス夫人を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、一人の母親としての、絶対の誇りが宿っていた。
「野蛮、でございますか」
デルフィーヌの涼やかな声が、庭園の空気を一変させた。
「我が子の柔らかな頬に触れ、その成長の瞬間に立ち会い、共に食卓を囲んで笑い合う。それが野蛮であるとおっしゃるのなら、私たちが守るべき『高貴な品格』とは、一体何のためにあるのでしょう?」
「なっ……! それは、貴族としての伝統と血統の……!」
「伝統の名の下に我が子の孤独を見殺しにし、冷たい金品だけで親の愛を偽ることこそ、私にはこの上なく卑しく、野蛮なことに思えます」
オルタンス夫人の顔が、屈辱で真っ赤に染まった。
「貴女……何を無礼なことを! 子育てなど使用人に任せるのが、この国の高貴なる常識ですわ!」
「我が子を抱きしめる温もりも、手作りの料理を美味しそうに平らげる愛娘の笑顔も知らぬまま、上辺の体裁だけに縋って生きる貴女を――私は、心の底から哀れに思いますわ、オルタンス夫人」
一切の迷いのない、完璧な一刀両断だった。
庭園は水を打ったように静まり返った。
オルタンス夫人はわなわなと唇を震わせ、何か言い返そうとしたが、デルフィーヌの圧倒的な気品と揺るぎない覚悟の前に、喉から引きつった音を漏らすことしかできなかった。
周囲の貴婦人たちも、言葉を失っていた。彼女たちの胸の中にも、本当は心の奥底に押し込めていた「我が子を愛したい」という切実な想いがあったのかもしれない。デルフィーヌの堂々たる姿に、嘲笑の色は完全に消え去り、畏怖と憧憬の眼差しが向けられていた。
「……し、失礼いたしますわ!」
耐えきれなくなったオルタンス夫人は、扇子を握りしめて逃げるように立ち去っていった。
デルフィーヌは私を振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「……上手く言えたかしら、マルグリット?」
「完璧でございました、奥様」
私たちが小さく笑い合ったその時、庭園の入り口に、凛々しい乗馬服姿のレイモンが姿を現した。彼は妻の堂々たる戦いぶりを遠くから見届けていたようで、誇らしげに胸を張り、愛する妻を迎えに歩み寄ってきた。
冷酷だった貴族社会の古い殻に、いま、確かな風穴が開いた瞬間だった。
◆ーーーー◆
あれから、十年という歳月が流れた。
王宮の大広間は、王立学園の卒業舞踏会を祝う華やかな光と音楽に包まれていた。
煌びやかなシャンデリアが天井から無数の光の粒を降らせ、最高級の正装に身を包んだ貴族の子女たちが、歓談に花を咲かせている。
その大広間の壁際で、私は年季の入った乳母の正装を身に纏い、静かに会場を見守っていた。
十年の歳月は、私にとっても、ヴァラン伯爵家にとっても、何物にも代えがたい宝物のような時間だった。毎日欠かさず囲んだ食卓、父親が腕によりをかけて作った不格好だが愛情たっぷりの料理、母親が丁寧に教え込んだ刺繍と学問。そして、泥遊びを愛しながらも、誰よりも気高く聡明に育った少女の笑顔。
だが、今夜は前世の乙女ゲームにおける、最大の破滅の舞台だった。
音楽が不自然に途切れた。
大広間の中央、一段高くなった壇上から、傲慢極まりない男の声が響き渡った。
「全員、静粛にせよ!」
壇上に立っていたのは、この国の第二王子オーギュストだった。
黄金の髪を派手に飾り立て、豪奢なマントを羽織った彼は、自分の腕にしなだれかかる可憐な平民出身の少女――ゲームのヒロインを抱き寄せ、居丈高に見下ろしていた。
そして、その鋭い指先が、フロアの中央に佇む一人の淑女へと突きつけられた。
「エミリエンヌ・ド・ヴァラン! 貴様の悪逆非道、もはや看過できん!」
会場がざわめきに包まれる。
だが、指をさされたエミリエンヌは、微動だにしなかった。
十六歳になった彼女の姿は、息を呑むほど美しかった。
夜空のような艶やかな群青のドレスを纏い、背筋を凛と伸ばして立つ姿には、一切の隙がない。黄金の髪は美しく編み込まれ、その澄んだエメラルドの瞳には、恐れも動揺も浮かんでいなかった。
「……私の悪逆非道、とは何のことでしょうか、オーギュスト殿下」
鈴を転がすような、凛とした涼やかな声が大広間に染み渡る。
「とぼけるな!」オーギュストは勝ち誇った笑みを浮かべ、羊皮紙を叩きつけた。「貴様がこのマリア嬢に対し、学園内で執拗な嫌がらせを行ってきたことは明白だ! 教科書を引き裂き、階段から突き落とそうとし、果てには毒を盛ろうとした! 嫉妬に狂った性悪女め!」
会場から悲鳴のようなざわめきが上がる。ヒロインのマリアは怯えたように王子の胸に顔を埋めた。
「よって貴様との婚約を破棄し、国外追放を命じる! 衛兵、この悪女を捕らえよ!」
シナリオ通りの断罪劇。
かつてのゲームなら、愛に飢えて狂気に走ったエミリエンヌは、ここで泣き叫び、見苦しく暴れて衛兵に引きずられていったはずだった。
だが、エミリエンヌはただ、ふっと静かに微笑んだ。
それは、あまりにも優雅で、慈愛に満ちた微笑みだった。
「オーギュスト殿下。その告発には、致命的な事実誤認が三つございます」
「な……何だと!?」
エミリエンヌは扇を優雅に広げ、一歩前へと進み出た。
「第一に、マリア様の教科書が引き裂かれたとされる先月十日の放課後、私は学術院にて国家財政に関する特別講義を拝聴しておりました。担当教官および同席していた公爵令息方、計十五名の署名入りの受講証明書がここにございます」
彼女の合図で、背後から進み出た侍従が、公的な印章の押された書類を掲げた。
「第二に、階段から突き落とそうとしたとされる先週の火曜日、私は王立孤児院への慰問に訪れておりました。院長および王都警備隊の護衛記録に、私の滞在記録が分単位で残っております」
「ぐっ……そ、それは……!」
「そして第三に、毒を盛ったとされる昨日の昼食会。……殿下、あいにくですが私は、父から直々に『他者が調理した出所不明の食事に口をつけるな』と厳しく教え込まれておりましてね。我が家では、信頼できる者が作った温かな食事しか口にいたしません。毒を扱う機会など、私には生涯訪れませんわ」
理路整然とした反駁。
完璧なアリバイと、寸分の隙もない証拠の提示に、オーギュストの顔がみるみるうちに青ざめていく。
「だ、だが! マリアが貴様に脅されたと証言しているのだ! 平民の彼女が嘘をつくはずがない!」
見苦しく喚く第二王子。
その傲慢な叫びを遮るように、会場の入り口から、重厚な足音が響いた。
「我が娘への言いがかりも、そこまでにしてもらおうか、オーギュスト殿下」
群衆が左右に割れる。
姿を現したのは、威厳に満ちた正装を纏ったレイモン・ド・ヴァラン伯爵、そしてその腕に寄り添うデルフィーヌ夫人だった。
十年前の冷徹な姿ではない。娘を守るためなら王室にすら牙を剥く、本物の『父親』と『母親』の顔だった。
「ヴァ、ヴァラン伯爵……! な、なぜ貴様らがここに……!」
オーギュストは喉を鳴らし、壇上の手すりを掴んで後退った。
「殿下が提示されたその告発状、裏で糸を引いていたのは、我が伯爵家の商権を狙っていた悪徳商人たちですな」
レイモンが冷徹な声で告げ、背後の近衛兵に書類の束を投げ渡した。
「マリア嬢の実家が彼らから多額の賄賂を受け取り、殿下を唆してエミリエンヌを陥れようとしていた証拠は、すべて王室監査局に提出済みだ。……殿下、貴方は国家の重鎮である我が家を愚弄しただけでなく、私利私欲のために無実の令嬢を罪に陥れようとした。この落とし前、国王陛下へどのように説明されるおつもりか?」
「ひっ……!?」
オーギュストの足ががたがたと震え、壇上から転がり落ちそうになる。マリアは青ざめて王子の腕から飛び退いた。
大広間の空気は完全に逆転していた。貴族たちの軽蔑の眼差しが、壇上の哀れな王子へと突き刺さる。
駆けつけた近衛騎士団によって、オーギュストとマリアは腕を掴まれ、逃げるように会場から連行されていった。悪役令嬢を断罪するはずだった舞台は、傲慢な愚か者たちの自滅によって、完全に幕を閉じたのだ。
静まり返る大広間の中央で、エミリエンヌはくるりと振り返った。
両親が、愛おしそうに娘を見つめている。エミリエンヌは二人に向かって深々とカーテシーを捧げると、周囲の貴族たちの称賛の拍手を背に受けながら、迷うことなく大股で歩き出した。
彼女が向かった先は、広間の隅、壁際に控えていた私の前だった。
「……お嬢様」
私が声をかけるより早く、エミリエンヌは私の手を取り、ぎゅっと握りしめてくれた。
それは十年前、泥だらけの小さな手で私のエプロンを掴んでいた時と同じ、熱いほどの温もりだった。
「マルグリット、見ていてくれた?」
悪役令嬢などではない。愛されて育った、誇り高き少女の満面の笑み。
「ええ、見ておりました。世界で一番、美しく立派なお姿でございましたよ、エミリエンヌお嬢様」
私の目から、思わず涙が零れ落ちた。
十年間のすべてが報われた瞬間だった。この子は救われたのだ。あの恐ろしい断罪の運命を、自らの知性と、家族の愛の力で、完全に打ち破ったのだ。
そこへ、レイモンとデルフィーヌが歩み寄ってきた。
二人は周囲の視線も気にすることなく、私の前に立つと、伯爵夫妻としてではなく、一人の父と母として、深く頭を下げた。
「マルグリット。お前がいなければ、私たちは今日という日を迎えられなかった。エミリエンヌを……私たちの家族を救ってくれたのは、お前だ」
「本当に、ありがとう、マルグリット」
「旦那様、奥様……滅相もございません。私はただ、乳母としての務めを果たしただけでございます」
私が慌てて首を振ると、エミリエンヌがくすくすと悪戯っぽく笑った。
「もう、マルグリットったら。そんな他人行儀なこと言わないで。……ねえ、パパ、ママ。こんな堅苦しい舞踏会、もうお終いにしましょう? 私、すっごくお腹が空いちゃった!」
「そうだな」レイモンが相好を崩した。「今夜のために、マチュリンと腕によりをかけて仕込んだシチューがある。帰って、温め直そう」
「まあ、あなた。焦がさないように気をつけてくださいね」
デルフィーヌが優しく微笑み、三人が私の手を包み込むように重ね合わせた。
温かい。
前世の私が救えなかった小さな命の後悔も、この世界の理不尽な運命も、すべてがこの確かな温もりの中に溶けて消えていくようだった。
屋敷へ帰れば、料理長のマチュリンが腕を組んで待ち構えているだろう。
大きな鍋に満たされた、湯気立つ温かな料理。不格好に切られた野菜と、愛情たっぷりの食卓。
明日も、明後日も、十年後も。
私たちはあの温かな食卓を囲み、共に笑い合って生きていくのだ。
私は胸に満ちる無上の幸福を噛み締めながら、愛する家族たちとともに、光あふれる我が家へと歩み出した。




