第七章:仕掛けられた罠?情報漏洩疑惑
一次プレゼンの敗北は、詩織のチームに重くのしかかった。オフィスには、どんよりとした空気が漂っている。
「やっぱり、エンパイアには勝てないのかな…」
「橘蓮って人、AIか何かじゃないの?人間味のかけらもないよ」
弱音を吐くメンバーたちに、詩織は「まだ終わってない!」と檄を飛ばすものの、内心では焦りと不安でいっぱいだった。蓮のロジックを覆すには、彼の想像を超えるだけの、圧倒的な”何か”が必要だ。
その夜、詩織は古書店で手に入れた文献や、過去の資料を一人で読み漁っていた。何か、何か起死回生のアイデアはないか。焦りだけが募る中、ふと、ある記述に目が留まった。
『月光草』
それは、かつて日本の一部の山間部でのみ自生していたという、幻のボタニカル素材だった。夜間、月の光を浴びて咲く白い花は、心を落ち着かせる独特の香りを放ち、古くは神事にも使われていたという。しかし、栽培が非常に難しく、現在ではほぼ絶滅したとされていた。
これだ…!
詩織の心に、光が差し込んだ。この『月光草』をキー成分に据えることができれば、エンパイアが世界中から集めてくるどんな素材にも負けない、唯一無二のストーリーと希少価値を生み出せる。コストや安定供給の問題は大きいが、そこにこそ挑戦する価値がある。
翌朝、詩織はこのアイデアをチームに提案した。最初は「そんな幻の植物、見つかるわけない」と懐疑的だったメンバーも、詩織の熱意と、このアイデアが持つ可能性に、次第に顔を輝かせ始めた。暗く沈んでいたチームに、再び活気が戻ってきた。
「よし、この『月光草』は我々のトップシークレットだ!二次プレゼンまで、絶対に外部には漏らさないこと!」
詩織の言葉に、メンバーたちは力強く頷いた。
さっそく、詩織たちは文献を頼りに、かつて月光草が自生していたとされる地域の役場や古老に、片っ端から連絡を取り始めた。それは、気の遠くなるような作業だった。
そして数日後。ついに、一本の電話が繋がった。
「ああ、月光草かね?ワシの爺さんの代までは、山の畑で少しだけ作っとったと聞いとるが…」
電話の相手は、山梨の山奥で小さな農園を営む老人だった。彼の話によれば、奇跡的に数株だけ、今も農園の片隅でひっそりと生き残っているかもしれないという。
天にも昇る気持ちだった。詩織はすぐさまアポイントを取り、週末に農園を訪れる約束を取り付けた。
これで、勝てるかもしれない。蓮のあの、冷たい顔をギャフンと言わせられる。詩織の胸は、希望で大きく膨らんでいた。
しかし、その希望は、翌日、最も残酷な形で打ち砕かれた。
出社した詩織を待っていたのは、上司の血相を変えた顔だった。
「水野くん!これを見ろ!」
上司が突き出したタブレットの画面には、業界専門のニュースサイトの記事が表示されていた。その見出しに、詩織は目を疑った。
『【スクープ】業界最大手エンパイア・ドリンク、国産の希少ボタニカルを使った新商品を開発中か』
記事を読み進めるうちに、血の気が引いていくのが分かった。エンパイアが、”幻”ともいわれる国産のボタニカル素材をキーにした商品を開発している、という内容。具体的な植物名は伏せられていたが、その特徴は、どう考えても『月光草』としか思えなかった。
ありえない。なぜ。どうして。
社内は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「誰かが情報を漏らしたんだ!」
「うちのチームに、スパイがいるのか…?」
疑心暗鬼になったメンバーたちが、互いの顔を窺う。詩織の頭に浮かんだのは、ただ一人の男の顔だった。
橘蓮。
まさか、彼が。私たちのアイデアを盗んだというのか?
詩織は、怒りと裏切られたという思いで、いてもたってもいられなくなった。会社のロビーで、偶然エンパイア社から出てきた蓮の姿を見つけると、後先考えずに駆け寄っていた。
「橘さん! あなた、私たちのアイデアを盗んだんですか!?」
人目もはばからず、詩織は蓮を問い詰めた。蓮は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの冷徹な表情に戻った。
「……何の騒ぎだ。意味が分からない」
「とぼけないでください! 月光草のことです! あなたが情報をリークしたんでしょう!?」
その名前に、蓮の眉がぴくりと動いたのを、詩織は見逃さなかった。やはり、彼も知っているのだ。
しかし、蓮はふっと嘲るような笑みを浮かべた。
「月光草?聞いたこともないな。それより、そんな大事な情報を社外で大声で叫んでいいのか?フロンティア・ビバレッジの危機管理能力はその程度か」
冷たく突き放すような言葉。そして、彼は決定的な一言を付け加えた。
「俺を疑うのか? くだらない」
そう言い残し、蓮は背を向けて去っていく。その背中に、詩織は何も言い返すことができなかった。
本当に、彼が…? でも、どうやって?
もし、彼が犯人でないとしたら、一体誰が? チームの誰かが、エンパイアに情報を売ったとでもいうのだろうか。
信じたい気持ちと、疑う気持ちが、詩織の中で激しくぶつかり合う。信じたくても、状況証拠は彼が限りなく”黒”に近いことを示していた。
あの古書店での出会いも、もしかして、私から情報を引き出すための罠だったのだろうか。
そう思うと、胸が張り裂けそうだった。京都の夜の優しい彼も、古書店で見た少しだけ不器用な彼も、すべては私を騙すための演技だったのかもしれない。
降り始めた冷たい雨が、詩織の頬を濡らしていた。それが雨なのか、涙なのか、自分でももう分からなかった。




