第五章:隠された彼の認識
ここは、橘蓮の視点。
高層ビルの最上階にある、俺の自宅マンション。窓の外には、宝石をちりばめたような東京の夜景が広がっている。しかし、その絶景も、今の俺の目には少しも映っていなかった。手にしたグラスの中で、琥珀色のウイスキーが揺れている。
氷がグラスの縁に当たって、カラン、と乾いた音を立てた。その音は、まるで三年前の京都の夜、あのジャズバーで聞いた音と同じだった。
――水野詩織。
最初の会議で彼女が名乗り、深々と頭を下げた瞬間から、気づいていた。いや、気づいていた、などという生易しいものではない。俺の思考は、あの一瞬で完全に停止した。
三年間、忘れたことなど一度もなかった。仕事で心をすり減らし、すべてを投げ出して逃げ込んだ京都。あの夜、偶然隣に座った彼女。強い意志を宿した瞳で、自分の夢を真っ直ጉに語る姿。そのひたむきさが、結果だけを求められ、乾ききっていた俺の心に、どうしようもなく沁みたのだ。
あの夜のキスは、俺にとって、人生でたった一度の衝動であり、唯一の『自分らしい時間』だった。
それなのに。
まさか、こんな形で再会するとは。会社の命運を賭けたプロジェクトの、ど真ん中で。しかも、真正面からぶつかり合う、ライバルとして。
運命の悪戯にしては、たちが悪すぎる。
だから、俺は気づかないふりをすることを選んだ。それが最も合理的で、正しい判断だと自分に言い聞かせた。海外でMBAを取得し、エンパイア・ドリンクで結果を出し続けてきた俺の思考回路は、常に最短距離で成功へと至る道を模索する。過去の感傷や個人的な感情は、その道を塞ぐただの障害物でしかない。
水野詩織は、敵だ。彼女の企画は、あまりにも理想主義的で、甘い。ビジネスの厳しさを知らない、青臭い夢物語だ。俺はそれを、完膚なきまでに論破し、エンパイアのやり方の正しさを証明しなければならない。それが、俺に課せられた使命だ。
そう、頭では分かっている。分かっているのに。
会議で彼女のひたむきな姿を見るたび、古書店でばったりと出くわして、驚いたように目を見開く彼女を見るたび、俺の中の合理性は、いとも簡単に揺らいでしまう。
「飲む人の一日を少しだけ幸せにするような飲み物を作りたい」
京都の夜に聞いた、彼女の言葉が蘇る。あの言葉は、俺が心の奥底に封じ込めていた、本来の想いそのものだったからだ。
祖父は、エンパイア・ドリンクの創業者だ。俺は、物心ついた時から『橘家の跡取り』として育てられた。自由な発想は許されず、教え込まれたのは常に効率と、結果を出すための冷徹なセオリーだけ。いつしか俺は、心を殺して数字とデータだけを信じるようになっていた。祖父の期待に応えることだけが、俺の存在価値だった。
だが、本当は。俺だって、ただ数字を追いかけるためだけに、この仕事を選んだわけじゃない。
水野詩織は、俺が捨ててしまったはずの『心』を、今も真っ直ጉに持ち続けている。その眩しさが、腹立たしく、そして、どうしようもなく羨ましい。
だから、俺は彼女を試しているのかもしれない。
彼女のその青臭い理想が、俺の築き上げてきた鉄壁のロジックにどこまで対抗できるのか。もし、彼女が俺を打ち負かすほどの『物語』を提示できたなら――。
それは、俺自身が祖父の呪縛から解放される、きっかけになるのではないか。
そんな淡い期待と、彼女を傷つけたくないという矛盾した感情。惹かれる気持ちと、仕事上の対抗心。その狭間で、俺の心は静かに、だが激しく揺れ動いていた。
今日、古書店で思わず口にしてしまった、『あの夜』という言葉。彼女の動揺した顔を見て、一瞬、すべてを話してしまいたい衝動に駆られた。だが、できなかった。今、それをすれば、すべてが崩れてしまう。
俺は、グラスに残っていたウイスキーを一気に飲み干した。喉を焼くような熱さが、わずかに理性を呼び戻す。
今はまだ、その時ではない。
俺は、エンパイア・ドリンクの橘蓮だ。氷のプリンス、結構。その仮面を、今はまだ外すわけにはいかない。
すべては、次のプレゼンで決着をつける。
俺は、静かに拳を握りしめた。夜景の光が、俺の冷たい表情をガラス窓に映し出していた。




